親友
飾り気のない暗い自室。ベッド脇に置かれたチェストの上で、スピーカーに接続されたウォークマンがタイマーに従って音楽を鳴らした。ゲームの主題歌になったアリアが室内を照らすものの、明かりを拒んでいるのは他でもない部屋の主だ。
主はそっと寝返りを打ち、カーテンから微かに漏れる日光で浮かび上がった天井を見上げた。光を拒むのも、室内に風の流れがないのもそのはず。主はこの朧市へ引っ越して来た時から、一度もこの部屋を解放したことはないのだ。この自室はただ眠るだけの場所に成り果てており、主が拠点としているのはリビングのソファーとテーブルだけだ。
つまらない現実と帰還を告げるタイマーへ苛立ちつつ、毛布を足で払いのけた部屋の主――柊紡(ひいらぎつむぎ)はベッドの上でダラダラと数秒を過ごした後にようやく廊下へ出た。
部屋にもリビングにもトイレにも風呂にも男はいないため、紡はスカートになるほど大きなシャツと下着だけという服装で、遅くまで楽しみ過ぎた所為で充血している両目、整えていない黒髪を連れて洗面所に入った。
そこも自室と同じように無機質で、観葉植物や彩られた装飾品など一つも存在しない。辛うじてあるのは歯ブラシや化粧水などの最低限なものだけだ。それは紡がオシャレに逆上せているわけでもなく、かといって興味津々というわけでもない。それに加えて彼女の母親も化粧好きというわけじゃないのだ。
鴉の行水な支度を終えた紡は、床まで流れる暖簾で廊下と隔たれたリビングに入った。
暗いリビングには広いキッチン、四人用テーブルとソファー、大きいテレビと最新のパソコンがある。パソコンとテレビに関しては、紡の母親は嗜まないため彼女が好きに使っている。特にパソコンに関しては、日頃の鬱憤を晴らすために始めたゲーム機としての役割ばかり押し付けられている。ゲームの中なら思うが儘に自分を吐き出せるうえに、他のプレイヤーを実力で圧倒した時の気持ち良さが癖になったため、紡は三時間前までずっとパソコンと御見合いしていたのだ。もちろん、他のプレイヤーがいなければ成り立たないゲームのため、非常識なことはしていない。
そんなリビングの横には襖で隔てられた和室がある。そこは母親が使っている部屋なのだが、仕事の関係上仕方ないとはいえ、読経やら琴音やらが聞こえて来るのを紡は煩わしく感じていた。とはいえ、今日は幸いにも生活音すら聞こえて来ないため、紡はその隙に日々の相棒である冷凍食品を取り出して電子レンジに放り込んだ。
大好きなものはペンネ。とにかくペンネなら朝からガッツリ食べても苦にならない。紡にとって冷凍食品はまさに神様の贈り物なのだ。温めている間に、名前も知らない高級品ばかりが占領している食品棚から微かに埃を連れた湯呑みを取り出し、緑茶だ何だを用意すれば朝食はあっという間に終わる。
「さすが綺麗好きだよ。整頓を通り越して使ってもいないね」
生活臭は紡の周囲にしか存在しないリビングを見渡した紡は、食品棚に背中を預けると立ったままペンネを食べ始めた。ヒョイ、ヒョイ、と口に投げられるペンネたちとは裏腹に、紡の鋭い瞳はピクリとも動かない襖に注がれていた。
襖の向こうにいるのは紡の母親なのだが、生活音が聞こえて来ないのが日常だから、今更それを心配したり狼狽えたりすることはない。むしろ下手に出て来られて面倒なことになっても困るのが紡の本心だ。
ただ、そんな母親の所為で紡はお母さんという存在のことをよくわかっていない。アニメや漫画で見るように、ご飯を作ってくれる姿、お弁当を作る姿、玄関で送り迎えしてくれる姿、一緒に買い物する姿、悩み事を聞いてくれる姿といったものを彼女の母親は一度も紡に見せたことはないのだ。
沈黙の襖を最後に一瞥した紡は、かぶりをふってリビングを出た。
歯磨きを終え、自室にぶら下げている制服をハンガーごと引っぱり、着替えたらバッグを担いで支度は終わりだ。やや早足で玄関に向かい、いつものヘッドフォンを付けて、学校指定ではないブーツを履いたら出発だ――。
「紡、ちょっと待ちなさい」
つま先を叩いていた時、遥か背後からの声に呼び止められた。その声音は優しく聞こえるが、紡には吉報に聞こえなかった。そのまま聞こえないフリをして玄関を出る道もあったが、後の厄介さを鑑みて足を止めた。
暖簾がゆらりと動き、その隙間から出て来たのは紡の母親である柊蓮華(ひいらぎれんか)だ。
背中の中間にまで流れ落ちる白髪と気味の悪い紋様が刻まれた女羽織を従えながら姿を現した彼女は、足音も気配もないまま紡の側に来た。初対面で出会した場合、高確率で相手は蓮華のことを幽霊の類いだと勘違いする。そんな彼女は仕事中だったようで、見えない左目にはモノクルを付けている。
「何か……」
「今日は終業式でしょう? あなたに視てほしいって写真が届いているから、友達と遊ぶのもいいけど、自分の仕事を忘れないようにね?」
蓮華はそう言うと懐から三枚の写真を取り出し、扇子のように広げてみせた。その動きが女帝のように見え、紡は小さく点火した反発心から眉を顰めた。それは自分の仕事じゃない、という無言の抗議だが、数秒後には視線を逸らして頷いた。
「……努力します」
沈黙の後、紡はそれだけを告げて逃げるように玄関を出た。
どうせ拒絶しても無駄だし、あの隻眼と目を合わせたくない。
紡はヘッドフォンに加えて他者から見ても私は不機嫌です、とわかる乱暴な足取りでマンションを出た。
ズンズンと突き進むその姿と効果は抜群で、通学路の所々に突っ立っている人たちが彼女に道を開けていく。もちろん相手にするつもりなど微塵もなく、遠巻きにしている連中も含めて紡は全てを無視していく。その中には紡の姿を認めて陰口を始める連中、仕事への嫌悪で足取りが重たい人、女子高生というブランドへ性欲の視線を向ける変態もいるが、それらの全てを過去にして紡は進んだ。ただでさえ通勤通学という時間は現代人の陰が増大するから、そんな陰を直視するのも関わるのも紡は嫌なのだ。口から愚痴しか吐き出さない人に付き合っていたら、聞いてやっている人にまで悪影響が出る。だから紡は、
「あっ、おはよー! 紡ー!!」
はつらつとしていて朗らかな人が好きだ。
どんな人混みの中でも聞き逃すことなんてないと断言出来る声の持ち主は、横断歩道の手前で紡に向けて大きく手を振っている。
綺麗に染められた茶髪のショートシャギー、ルーズに緩められたリボン、メイクされた顔をきらめかせながら駆け寄って来たのは、朧で出来た友達の京堂鳴(きょうどうめい)だ。
「おはよう。どうしたの? こんな時間なんて珍しいじゃん」
紡はヘッドフォンを外し、隣に来た鳴へ笑みを送った。それに対し、
「はは……ちょっと、ね」
毛先を弄りながら、鳴はキョロキョロと視線を散らす。
彼女は外見の所為で誤解されることもあるが、もう戻らない青春時代を何よりも大切にしている少女で、見た目のオシャレ以外に青春を捧げているのはバレーボールだ。生活はスポーツマンとして規則正しく、いの一番に登校しては自主トレをしているほどなのだが、終業式というイベントを入れても今日の登校は遅刻の部類に入る。
「実は……家を出る時にトラブルがあったんだ」
鳴はそう言うと、学校指定ではないバッグの中から手の平サイズの巾着を取り出した。
「あの……ごめん! 腕に付けようとしたら紐が切れて、何個かなくしちゃったの……」
差し出された巾着の中身を掌に出してみると、紡が鳴のために作ったオニキスの腕珠がバラバラと出て来た。その中には罅が刻まれているものもある。
「大丈夫だよ、この子、鳴の悪い縁を切ってくれたみたい。新しい腕珠をあげないとね」
回収したオニキスと入れ代わるようにして、紡は自分の腕に付けていたラピスラズリの腕珠を鳴に手渡した。
「え? これって……」
「うん、私が身に付けていたやつ、ラピスラズリ。霊石だから鳴のことを護ってくれるよ。新しいのを用意するまで、できるだけ身に付けていてね?」
「でも……これは紡の護りでしょ? 外しちゃっていいの?」
「大丈夫、私は視慣れているし、今の鳴には必要だからね」
「そっか……ありがとう! ねえ、部活会議が終わったら円香と三人で帰ろう?」
「うん、いいよ。終わるのを待ってるから。そうだ、円香の腕珠も見ておこうかな」
「あっいいね。よろこぶよ、きっと」
ラピスラズリを見つめながらの感想。
「霊石……か。何だか紡みたいだね」
「そう? 私とラピスラズリじゃ全然違うと思うよ」
ラピスラズリの色が蒼なら、私は黒どころか灰色だ。そんなことを思いつつ、紡は後ろに姿を見せた一団を一瞥した。
「行こう。遅刻するよ」
「ああ、待って待って」
冬休みに浮かれる連中から逃げるよう鳴を促し、紡はまた早足になった。後ろで冬休みの楽しみを語る鳴に見られないようにしつつ、オニキスの穢れ具合を見た。
腕珠にひび……。そりゃあ、お母さんとは雲泥の差だけど、ザコ相手に縁切りするなんてこと……。
気付かれないように鳴を睨みつける。
私とは違って鳴は無意識にザコを呼び寄せる時がある。優しい人に惹かれるのは人間も同じだけど、感じる力を持たない鳴には邪魔な存在でしかないよ。鳴……今度は何と接触したの?
その台詞が飛び出しそうになった口を押さえた。下手に意識させればバカ共が喜ぶだけなのだ。
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