第1章 呼び聲

第壱幕 霊香

 雪斗……。


 沢田雪斗さわだゆきと……。


 わたしたち……約束したよね。この約束は絶対に違えない……忘れないで――。


 無意識の中で、誰かの言葉が響いた。


 約束。この言葉にどれだけの拘束力があるのかは人それぞれだ。


 人との約束は破るものだと公言する国もあれば、口約束でも守る人も忘れる人もいる。雪斗自身は口約束でも守るほうだ。小さい頃、友達との約束をすっぽかして泣かれてしまったことがあったから、それが今でもトラウマ手前のようになっているのだ。もちろん、それは約束を破った自分が悪いのだから、その友達に嫌われたことを怨んではいない。


 そんな自己分析をしながら目を覚ました雪斗は、絶対に違えないとまで言われた約束の中身を求めて、ありとあらゆる脳の引き出しを漁ってみた。興味のない野球やサッカー、政治に日本情勢、映画や漫画、アニメにゲームなんかの書類はパラパラと出てくるのだが、件の約束についてだけは、いくら漁ってみても見つからないのがお約束だった。


 だが、今日だけは違った。約束の言葉と一緒に、微かに思い出せた光景があったのだ。


 手入れされた綺麗な中庭で、十歳の雪斗は深紅に輝く着物を纏った少女と向かい合っていた。その少女が先ほどの台詞を口にしながら雪斗の手を両手で包み込み、それを自らの胸に抱きとめた。その行為に圧倒された雪斗は、ドギマギという死語を知ったのだ。ただ、今の彼がそれを思い出すと、甘酸っぱいよりも性への目覚めみたいな感じで苦々しい気分になるのだ。


 とはいえ、声も含めてそこまで思い出せたのだから、首尾良く全てを、と思っていたが、結局は少女の顔も約束も霧のようになってしまって掴めなかった。思い出そうとすることは脳にとって良い刺激だと聞くが、思い出せないことにストレスが溜まるのはどうなんだろうか。


 そんなストレスと決着をつけたくて、雪斗は父親の北海道転勤を期に、十歳まで住んでいた朧市おぼろしに帰って来た。渋る両親を説得してでも朧に戻りたかった雪斗にとって、東京から落ち延びることに一切の躊躇いはなかった。


 それは偏に、あの少女との約束と名前を思い出したかったからだ。深く交流していたはずなのに、自分でもどうかしていると思うほどにやり取りを忘れてしまっていたため、よくここまで思い出せたものだと自分を褒める気にもなれなかった。


 性にすら曖昧な十歳の少年が魅了されるほどに、あの少女は綺麗だった。綺麗で、不思議で、今思うとアンニュイかダウナーとでも評せる雰囲気を纏っていて、バカだった自己評価する当時は何も気の利いたことなんて言えなかった。


 そんな彼にとって、朧市と旧朧小学校での思い出はそれが全てだと言っても過言ではないほどに親密になった。彼女が奏でる篠笛を聴きながら絵を描くのが何よりも幸せだったのだ。


 二人の馴初めと別れは二00一年。現在二00八年の十二月。


 雪斗の方はともかく、七年の前のことを件の少女は覚えていてくれているのか怪しい年月だが、彼女がまだ朧市にいて、新旧の朧小学校校舎と土地をそのまま使っている朧高校にもしかしたら在学しているかもしれない。その思いだけで雪斗は朧市へ戻って来たのだ。その結果――。


「おーい、雪斗君、時間は大丈夫かい?」


 雪斗に宛てがわれた二階の自室にまで響いた声の主は、叔父の沢田俊さわだしゅんだ。沢田家の頭脳にして、沢田の古い実家を管理している人である。


「はーい、今起きました」


 叔父に応えながら、静かに、ゆっくりと上半身を起こす雪斗。目覚めたてはどうしても肺が痛むため、起き上がるだけでもずいぶんと苦労させられているのだ。それに加え、朧の冬は東京よりも冷え込むため心臓はもとより肺にも厳しい環境を強いられるのだ。


 どうして肺が痛むのか。その理由は医者にもわからず、朧市を離れると何故か痛みはピタリと止んでしまうことも正体不明に拍車をかけている。とはいえ、発病当時を除いて雪斗が倒れてしまうほどの痛みは起きていないことから、彼自身もそこまで重症とは考えていないのだ。


「ふぅ……この痛みは約束を思い出せないことへのストレスなのかな」


 耐えられるとはいえ、痛みの間は乱暴なことなど出来ない。嵐が去るのを待つしかなく、雪斗はストレスとしか見解を出せない医者や自分へ苛立ち、布団に八つ当たりしてしまう。


「違えない」とまで言われた約束を忘れる自分、そして名前も顔も思い出せないこと、朧高校に彼女らしき人はいなかったこと、それらも相まって戦果なし、肺は痛む、という状況の酷さに想像していた生活は送れていない。


 差し込む朝日で浮かび上がる天井ともう一度御見合いをしながら、雪斗は枕の先に手を伸ばした。そこには畳んだ着替えと巾着があって、手に取ったのは巾着の方だ。それはあの少女からもらった大切な巾着で、肺が痛んだ時は気休めでもいいからこうして胸に抱いているのだ。


 山の中で助けた柴犬のうずまさ、小屋作りを手伝ってくれた用務員の小沢、倒れた自分を診てくれた日向小百合ひゅうがさゆり、担任の水島、同級生たち、それは覚えているのだが、どうして少女のことだけはスッポリと消えてしまったのだろう。


「やっぱり……校舎内か中庭に行ってみないと進展はないかな」


 朧高校と朧市の雰囲気に慣れるため、数ヶ月は少女のことも旧朧小学校のことにも触れなかった。七年振りに帰って来た故郷は大きく変わっていて、朧小学校はとっくに市の中心に移動していたし、その土地には今や朧高校が建っていた。旧朧小学校である木造校舎の方は今でも時代の流れに取り残されていて、壊されるのを待っている状態だ。


 取り壊される前に旧校舎で思い出を回収する。それが冬休み前日のミッションだ。春の訪れと共に壊す予定だと小耳に挟んだ時から計画は始まっていて、目撃されずに中を漁るチャンスは冬休みぐらいしかないだろう。


 そう思うと、不思議と肺の痛みも弱まり、雪斗は肺が不満を上げない程度にささっと朝支度を済ませた。


 リビングに入ると、叔父は既に仕事へ出ていた。テーブルにはチラシを乗せられた朝食が置かれていて、健康的な焼き魚の匂いが胃を刺激した。叔父は雪斗の状況をしっかりと把握しており、朝に弱いことも知っているのだ。だからこうして健康的な朝食を用意してくれている。


 叔父さん、ありがとうございます。


 温かい味噌汁とご飯を付け加え、静かに朝食を終えた。


 テキパキと食器を片付けてから自室に戻り、鴨居に掛けていたブレザーに着替え、ネクタイを巻く前に矢絣柄巾着の中から勾玉を取り出した。深紅の勾玉には紐がつけられていて、身に付けていてほしいという約束(この約束は覚えている)に今も従っている。


 そんな勾玉をシャツ越しにさすりつつ、雪斗はバッグの中に懐中電灯やちょっとした昼食なんかを詰め込んでから玄関に下りた。


 終業式が終わった後は、部活会議だけで誰も校舎には残らない。旧校舎にこっそりと忍び込むなら素晴らしい日だろう。映画でも夏休みの終業式に忍び込んでいた。


「今日ならほとんど人はいないから」


 鏡に映るご機嫌な自分に話しかけてから、雪斗は微かな早足で家を出た。

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