第拾壱幕 比翼

 新しい保健室を出た雪斗は、水に攻められて不満の声をあげる左足に鞭打ちながら、実習棟を目指した。サヨナラは到底受け入れることなんて出来ない。サヨナラはまつろわぬものであって、奏じゃないからだ。


 一階の渡り廊下を抜け、実習棟に入った雪斗は素早く廊下を見渡した。幸運か、想定通りか、伏兵か、動く影はない。


 まずは……家庭科室だ。


 奏を捜すよすがとして希望を託したのは、二人の思い出がある場所だ。長い廊下に舌打ちしつつ、角を曲がって引き戸に手をかけた。




 引き戸の上にある時計を見上げた。


「もう夕方かぁ……一緒にいると時間が経つのは早いね」


 物珍しげに炊飯器を弄っていた奏に告げると、彼女も暗くなっていく空を見上げた。


「そうだね……。もう暗くなるけど、家は平気なの?」


 暗いといってもまだ夏の少し前だ。明るい分類に入るため、休日でも校庭や中庭から声がしている。


「うん、大丈夫。うちの親はいつも忙しいから帰って来るのは深夜だよ。近くにおじいちゃんとおばあちゃんの家があるけど、そっちも忙しいから……」


 肩をすくめる雪斗。


「いつも家は一人だから友達を呼んだり出来るけど、ご飯一人はさすがに寂しいよ」


「ご飯……雪斗が用意しているの?」


「うん、ほぼ毎日。だから家のことは一通り出来るよ。……そうだ、今度お弁当持って来るよ。奏はいつもお昼を食べていないだろ? 嫌いなものがあったら教えてよ」


「大丈夫。お父様から何でも食べられるようにしなさいって言われてきたから」


「本当? すごいなぁ、俺はどうしてもトマトが苦手だよ」



「うん……おいしい」


 玉子焼きを口に入れてからの第一声。


「本当? よかったぁ……」


 雪斗は胸を撫で下ろした。自分から作ってくると言っておきながら、何を入れればいいのかわからず、本まで見た結果が、玉子焼き、唐揚げといった定番ばかりになった。ちなみにそれは奏がいつも横で見ているものばかりだ。


 それでも彼女は不満を口にすることなく、食べてくれた。すぐに完食してくれたということは、おいしいは社交辞令ではないようだ。


「すごいね、男の子で料理が出来るなんて」


 口元を拭きながら奏はそう言った。その仕草は優雅そのもので、雪斗は思わず魅入ってしまった。その視線に気付いたのか、奏は首を傾げると、ハッとしてから微笑んだ。


 慌てて顔をそらす。見つめていたことに気付かれた気恥ずかしさから逃げるように話を続けた。


「……ありがとう。おいしいって言ってくれて、初めての人だよ」


「初めて?」


「うん。作っても感想を言ってくれる人はいないからね」


 それは事実。言ってくれるのは自分の胃だけだ。


「……おいしかったよ、ごちそうさま」


 奏は満面の笑みをくれた。


「……! あっ……奏は?」


「わたし? 出来るよ、お姉様とは交代で作っていたから」


「そうなんだ……奏が作ったのも食べてみたいな」


 そう言われた奏は、不意に黙ってしまった。そのまま沈黙が続き、雪斗は何か彼女の逆鱗に触れてしまったのではないかと思い、謝ろうとしたその時、


「……うん、いいよ」


「いいの……?」


「いつか……ね」




「奏!」


 止まったままの時計を掲げる引き戸を開けて、家庭科室に飛び込んだ。二人でよくお弁当を食べていた室内は他の教室と同じく荒れ果てている。崩れたテーブル、散乱する食器、見るべきものは何もない。


 すると、その答えを肯定するように耳飾りが鳴った。


 互いの聲が聞こえるなら、まだ奏はいる。この校舎のどこかに……!


 家庭科室から飛び出し、今度は音楽室を目指して階段に向かった。


 一段一段上がるたびに頭が痛むが、水の中を歩くよりもマシだった。階段から転げ落ちないように気を付けながら二階に上がった雪斗は視聴覚室、特別教室を横目に東側廊下にある音楽室へ向かい――。


 突然、校舎全体が激しく揺れ、バランスを崩した雪斗は床に倒れてしまった。その所為で右肘を嫌というほどぶつけてしまい、痛みで悶絶した所為で揺れと同時に水の音がしていることに気付かなかった。 


 無事な左手を何度も床に叩き付けることでどうにか悶絶を突破し、雪斗は痺れたまま右腕を捨てて左腕に松葉杖を任せた。


 慣れない行動に戸惑いつつ、音楽室の重たいドアを開けた。




 音楽室に入る雪斗と奏。


 校舎の中を見て回りたい、という駄々と小沢との舌戦を制してようやくたどり着いた場所だ。


 中に入ると奏はキョロキョロとうろつき、置かれていた楽器を一つ一つ触っていく。


 誰かが忘れていったであろうリコーダー、埃をかぶった木琴、太鼓にシンバル、最後にグランドピアノの前に辿り着いた奏は、静かに椅子へ腰を下ろした。


 忘れられたリコーダーが誰のものなのか気になり、ケースを見てみると京堂鳴と書かれていた。雪斗は黙ったまま、それを机の奥に入れた。いずれ取りに来るだろう。


 奏は何をしているだろうと覗き込むと、鍵盤を指でなぞっていた。


「奏ってピアノは弾けるの?」


「これ……ピアノっていうの?」


「あれ、知らない?」


「うん、見たことないもの。舶来の物?」


「舶来? ……イギリスが発祥かな?」


「そう、英吉利の物なんだ」


 ふんふん、と頷いた奏は、すでにピアノに釘付けだった。


 音楽の授業がないの?


 奏の学校について首を捻っていると、彼女は徐にピアノを弾き始めたため、ビクリとした。


「あっ……音が出た。面白いね、これ」


 でたらめに弾いているはずだが、不思議とそれは演奏に聴こえた。


「このピアノは良い子だよ。弾き手をしっかりサポートしてくれる」ふと、異動してしまった音楽教師の言葉が頭をよぎった。このピアノは生きている、とまで言っていたが、音楽家に生まれついたわけではない雪斗には、その意味がよくわからなかった。


 ところが、奏の演奏を聴くと、生きている、の意味がわかるような気がした。このピアノは素人が弾いていても演奏に聴こえるようにしてくれている――しかし、聴き入っている場合ではないのだ。


「奏、もう演奏は終わり。音楽室はこれでおしまい」


「……どうして?」


 どうして? 小沢さんとの舌戦を聞いていなかったな?


「忘れ物を見つけたらすぐに鍵を返しますって約束なんだよ。ピアノの音に気付かれたら怒られちゃうよ……!」


「ふ〜ん……」


 考え込むように俯いた奏。


「わかってくれた? それなら――」


「えい!」


 手を振り上げた――。


「あっ! こら!」




 もちろんそのあとは小沢からお叱りを受けた。


 音楽室に入り室内を見渡したが、奏の姿は見当たらない。


 記念すべき喧嘩の立役者であるピアノに近付き、鍵盤を押してみたが反応はない。ただ、いやに鍵盤が固い気がした。さらに奇妙なことに、教室内にはピアノ以外何も見当たらない。荒らされた教室はたくさん見て来たが、ここだけは何かが違う気がした。誰かがピアノ以外を片付けたような――。


 雪斗は鍵盤から手を離した。その場で屈み込み、床を照らしてみて――慌てて立ち上がった。少し動いただけで、埃が舞い上がる状態であるにも関わらず、ピアノには埃が一つも見当たらない。


 痺れから回復した右腕に松葉杖を渡し、一目散に引き戸へ向い――重たいはずの引き戸が閉まり始めたのを見て、咄嗟に松葉杖を挟ませた。悲鳴をあげた松葉杖だが、把手に手をかけるまでなんとか耐えてくれた。


 勾玉があるからと油断していた自分を罵りながら、引き戸を開け――。


 呼び止めるようにピアノが鳴った。


 それはあの時、奏が鳴らしたのと同じ音だ。一瞬、足を止めた雪斗だが、直後に聞こえたキャスターの悲鳴と、流れ出したエリーゼのために、が奏ではないことを告げた。


 振り返ると、今まで窓と向き合っていたはずのピアノが、雪斗を見ていた。直後、鍵盤がボロボロと外れ――その下から鮟鱇を彷彿させる醜悪な顎が飛び出し、ぐしゃぐしゃになった机などの残骸と黒い水を一斉に吐き出した。


 このピアノは生きている。


「冗談じゃない……!」


 雪斗は廊下に飛び出すと即座に引き戸を叩き閉めたが、すぐに引き戸が衝撃と共に悲鳴をあげた。ドォン、と引き戸を凹ました衝撃が雪斗を軽々と突き飛ばし、松葉杖と懐中電灯と一緒に廊下を転がされた。


 ピアノの怪物が引き戸を粉砕するのは時間の問題、それに気付いた雪斗は懐中電灯を拾い上げ、松葉杖無しで立ち上がろうとしたが、足首の悲鳴がその身体を引き倒した。


 それとほぼ同時に化けピアノは引き戸を粉砕し、ドリフトしながら雪斗の目の前に躍り出た。激痛に耐える雪斗に逃げる時間はなく、髪のような触手が蠢く顎が開かれ――。


 耳飾りが鳴った。


 それを理解した瞬間、迫る化けピアノの手前の床が崩れ落ち――激しい水飛沫と共に化けピアノは黒い水の中に落ちた。


 そうして訪れた静寂。しばらく雪斗は動かなかった、いや、動けなかったのだ。足の痛みもあったが、一番の理由は穴から見える黒い水の所為だ。いつの間にか一階は完全に水没してしまったようで、あまつさえゴボゴボと二階にまで浸水しようとしている。


 紡たちのことが頭をよぎったが、大丈夫だと自分を納得させた。どちらの保健室にも階段が近くにあることに加え、全員が危険から逃れるセンスがある。水嵩が変わったことはすぐに気付いただろう。


 それでも皆の無事を祈り、立ち上がった雪斗はすぐ近くにある図工室を目指した。


「奏、そこにいるのか……!」




「ここが図工室だよ。俺がしょっちゅう来てる教室」


 奏を中に入れて、静かに引き戸を閉めた。


 相変わらず奏はキョロキョロと好奇心に任せて室内を見渡しながら進み、美術クラブが使っているイーゼルとキャンバスに描かれた絵を見て足を止めた。


「これは別の人が描いた絵?」


「そうだよ。一番うまいのは五年生の小瀬川椎名って人の油絵かな。凄い人だよ」


「ふ〜ん……。雪のやつはどこ?」


「俺の? あ〜、うん……家にあるのよ」


「どこにあるの?」


 ズイ、と顔を近付けた奏。ジトリと睨みつける目は怖く、身震いした雪斗は素直に指差した。


「素直でよろしい♪ 春画を描いているわけじゃないんでしょう?」


 奏は指し示された場所を辿り、イーゼルやキャンバスを一応は丁寧に退かしていき、布をかけられた最奥のキャンバスを露にした。雪斗を一瞥した奏はそっと布を取り去り、キャンバスに描かれた自分とうずまさの絵に出会した。


「雪?」


「……この間、うずまさと遊んでいたのが可愛くて……さ」




「そうだ、今度一週間家族で出かけるから、会えるのは夏休みが終わって……土日くらいかな」


 いつものように絵を描きながら雪斗は隣にいる奏に告げた。夏休みに入り、ほぼ毎日一緒に過ごすようになってから、奏も絵を描くようになった。


「出掛けるの?」


「一週間だけね。そんな大した日数でもないし……」


 隣の奏を見ると、彼女は手を止めて俯いてしまった。


「一週間だよ? 別に会えなくなるわけじゃないし……ほら、お土産も買って来るし、すぐ会えるから、ね?」


 世界の終わり。そう評してもいいほどに奏は絶望を顔にしたため、雪斗は慌てて明るく話した。奏はやや悲観的に加えて寂しがり屋で、意外と嫉妬深くて拗ねることも多い。だが、それでも、それだから雪斗は彼女が愛おしかった。


 雪斗はまた拗ねてしまった奏を見るとクスリと笑い、少しだけ背伸びをして目を合わせた。


「俺だって会えないのは寂しいよ。だから奏も我慢してほしいな」


 初めて奏の頭を撫でた。手を上げた時、奏はぶたれると思ったのか、ビクリとしたものの、すぐに微笑んだ。


「撫でられたの……お母様とお姉様以外からは雪が初めてだよ」


 そう言った奏は首から下げていた勾玉の首飾りを外し、背伸びせずに雪斗の首から下げた。


「それじゃあ、これをあげる。逢えない時もわたしのことを忘れないように。ずっと、ずっと……わたしのことを見てて、ね?」


「え? これって……いつも首から下げていた勾玉だよね、いいの?」


「うん。だから……わたしのことを忘れないで……」




「もう奏のことを……忘れたりしない」


 弾む息と胸を押さえながら雪斗はそう告げた。だが、奏は振り向かない。


 もう声は届かない? そんなわけあるか……!


 かぶりをふって雪斗は話を続けた。


「聞こえてるんだろ? これがあるんだから」


 互いの耳に付けられた響石。これまで幾度となく鳴った。奏の聲を届けに。


「サヨウナラ、そう一方的に告げたのに……どうしてここにいる? どうして二人で過ごした場所にいるんだ。どうしてピアノに襲われた俺を助けた」


「……サイゴだカラ。ワタしはユキとやアノコタチを殺そうとしたオンリョう……。一緒ニハいらレナイ」


 旧校舎の図工室に置かれたままだった自身の絵に手を伸ばした奏だが、中指と薬指が腐り落ちた所為で触れなかった。ピシャリ、と重く湿った音が室内に響く。


 もうすぐわたしは怨霊になる……。柊某が言っていたように……生者を誑かし、死へと誘う怨霊として……雪を殺そうとする。


 奏はキャンバスから手を離そうとし――その手を雪斗は掴んだ。綺麗な手が瞬く間に黒く染まってしまった。それでも雪斗は奏と一緒に絵に触れた。


「覚えてる? この絵……初めて一緒に並んで描いたやつだって……。俺もへたくそだったから、奏に説明するのも大変だった……。だけど、今なら……あの時よりもちゃんと教えられる。また一緒に描こう」


 ドウしテ……。


 手を放そうとする奏だが、雪斗は頑なに手を放さなかった。


「……ドウして、ドウシてわたしに触れらレルの……? ドウシてわたしヲ見てイられルノ……? 雪ノ目にウツル醜いわたシ……ダカラわたしハ逃げた。ジブんがなにか知ってシマっタ……。わたしは――怨霊」


「違う」


 目を合わせる雪斗。


「俺が知っている奏は、我侭で、すぐ拗ねて嫉妬して、家族想い……いたずら好きで優しい、寂しがり屋の女の子だ! もし、怨霊なら……俺が見てきた奏は全部……見せられていた幻……? あの笑顔も、拗ねた顔も……!」


「……違う!」


 腐り落ちていく躰に鋭い痛みが走り、奏は思わず叫んだ。怒りなのか、悲しみなのかもわからない波の濁流が理性を吹き飛ばした。雪斗への想い、自身の姿、迷い込んだ子供たち、まつろわぬもの、自分の過去が頭の中で目まぐるしく弾け、何も考えられなくなった。


 違うの、チがう、わたしはホンとウに……幻なんカじゃ……。


 自分が何を言っているのかもわからず、混乱し、雪斗の手から逃れようとして――抱きしめられた。雪斗の胸の中は温かく、あの時よりも逞しくなった腕が震える躰をしっかりと包み込んでくれた。自然と涙が溢れた。


 あの時も、泣いたことを思い出せた。このまま、時間が止まってくれたらと……。


「俺には……今も昔も奏は奏だ。怨霊なんかじゃない……」


 わたしは……醜い憎しみの固まり……。


「それは……奏自身が自分に見せている姿だ。わかってるんだろう……? 自分自身で自分を怨霊にしていること……」


 雪斗が救おうとしている人たちへの嫉妬。愛した人の気持ちをわかろうとしない傲慢。自分だけを愛してもらいたい強欲。わかってくれない雪斗への憤怒。醜い感情たち。


 わたしは違う……。わたしはこんな……。本当に……違う?


「それも含めて……奏だろ……? 誰にだってある、大切な感情だ……だから、怨霊なんて……言わないで……」


 奏の頬に落ちる涙。


 醜いわたし……それでもいいの……?


 耳飾りが鳴った。


 雪斗に躰を預ける奏。自分を想って泣いてくれる人がいる。受け止めてくれる人がいる。うれしくて奏は胸の中で声をあげて泣いた。


 雪斗と同じ、愛した人と同じ、自分の涙には温もりがある。


 泣きじゃくるわたしを、雪斗は何も言わずにずっと抱きしめていてくれた。優しくて温かい胸の中で、二人の約束を思い出し――やっとのことで涙を止めた。


 でも……わたしは幽霊。雪斗にわたしはふさわしくない。だから……この温かさを奪っては駄目。ぜったいに。わたしがしなくてはいけないこと……。


「雪斗」


 奏は雪斗から身を離した。


 やるべきことは多く、時間は少ない。あの阿呆は全てを呑み込むつもりらしいが、そうさせるつもりはない。


「雪斗、わたしもすぐに行くから……みんなと合流して」


「奏……!」


 雪斗は赤くなっている目を煌めかせると明るくなった。


 笑顔だけはあまり変わらないね……。


「合流出来たらみんなを時計台に集めて。みんなは……教室棟の中央階段へ向かっているから!」


「……わかった!」


 雪斗は頷くと、引き戸まで行き――振り向いた。


「……待ってるから。一緒に絵を描こう、約束だ」


 目を合わせて頷く奏。雪斗が出て行くのを見送り、意識を濡れた女に合わせた。


 原理はわからないけど、奇妙な縁で干渉出来るようになったんだから、あの時の悪夢はそれほど最低なことじゃなかったみたいね……。


「雪斗、みんなは……わたしが護るから……!」

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