第9話 臥龍再び

  黄花姫の一件で宴はいつの間にか終わっていた。事が事だけに続けられるわけが無かった。羽は教坊の大広間に戻ってきていた。他の楽士たちは腑に落ちない様子だったが、一人、また一人と帰路についた。

「聞きましたよ! 子牙さんの事!!」 

「澄……。折角の一番乗りだったのに、悪かったな」

羽が言うと澄は首をぶんぶん振った。今回の宴で一番初めに出番をあたえられたのは澄だった。本来ならば、嬉しい事なのにうやむやに終わった宴なら、あまりうれしくはないだろう。

「おれの事はどうだっていいんです! それよりも、子牙さんが玄国の王子だなんて、知らなかったです」

「俺だって知らなかったよ。子牙兄ちゃんが玄国の生まれだっていうのは知ってた。でも、本当に平叔父上の息子だって思ってたし、そんなそぶりは一回も見せてなかった」

 子牙の言う黒い箱、そして天狼族が襲撃された事件を照らし合せると、おそらく会場から脱出するために箱に入れられたのだろう。

「還鶴玄楼……か」

「それ、殿中曲ですよね? おれ、名前しか知らなくて……」

「俺も詳しくは分からない……。知っているのは、主旋律だけで、全部知っているわけじゃない」

「子牙さん、このまま玄国に帰っちゃうんですよね」

「あぁ。兄ちゃん、もしかして玄国に帰りたかったのかな。そりゃそうだ。周家にいたって、寂れてしまうんだから。それより、玄国で王を継いだ方がいい」

 名ばかりの家の人間より、栄えある大国の王に。

「本当にそうでしょうか?」

「?」

「俺はここ数年の子牙さんしか知らないから、羽さんの方が詳しいかもしれない。けれど、俺の知っている子牙さんはたとえ誰かに言われたからと言って、無責任に家名を捨てるなんて言わない」

「………」

 そうだ。子牙はずっと周家の人間として生きてきた。玄国に生まれたとはいっても、ずっと辰国で生きてきた。そして、自分をずっと支えてくれた人だ。

(子牙兄ちゃんの心残りが俺なら、俺が何とかするしかない)


 子牙は周家の本家を離れ、殿中にある貴賓室の一角に連れてこられた。目の前に金泥をあしらった茶器が並べられ、その向こう側には黄花姫が座る。

「ようやく心が決まってくださったのですね。我らが王、そして、我が夫」

「えぇ。そうしなれば、いずれ玄国は崩壊する。そして、その余波は辰国にも及ぶのでしょう」

 そう言い切った子牙の言葉に、黄花姫は茶器を飲む手を止めた。

「本来ならば、テムジン様には玄国のことなど忘れて、周家の者として生きてほしかった。そのために、あなた様のお父君はハルバドル殿に血書を送ったのです」

 血書、というのは彼女が辰国の皇帝にあてて送りつけた古い書状の事だ。その内容は、還鶴玄楼にテムジン(子牙)を匿ったので、脱出させてほしい、という内容だった。

「それを皇帝陛下に献上する意味、そして、辰国内部が大荒れになる事は承知の上ですか?」

「えぇ。周平殿は我が金狼族に懐疑的でありましたから、遠回しな方法では逃げられましょう。それならば、逃げられないようにするしかない」

「父上に何かあったら、ただでは済ましません」

「それはご心配なく。我が金狼族の領地にてご滞在していただいております」

 ゆったりとした所作には隙などない。彼女は美しさという武器を磨き抜いた武将なのだ。この二十年で大国とうたわれた玄国も、内部でのいがみ合いが増えてきた。それを収めたのが彼女だ。彼女は剣ではない方法で、内部でのいがみ合いを防いできた。その仕上げが、天狼族の血を持つ自分を自分の一族に組み込むことだ。

(辰国はとてもいいところだ。羽も、もう立派な楽士として歩み始めている)

 羽が奏でられるようになったら、きっと自分の価値はなくなるだろうと思っていた。危機感はなかった。罪悪感が薄れるだけ。

「まだ、ご自身について不安がありますの?」

「………」

 言い当てられる。ころころと笑う黄花姫は少女のようだ。珠を転がしたような声に、背筋をなぞられるような気がした。

「玄国では、いけませんか? あの広大な広野はどこにもありませんわ。そして、わたくしたちは決して野蛮なものではありませんの」

「……」

「わたくしたちの土地は広さと平らなだけ。雨が少なく、草木も育たぬ土地。獣を飼い、それに感謝して余すところなく使う」

 黄花姫が切なげに目を伏せ、髪を結っていた布の一部を引き抜き、机に置いた。赤や黄色に染められ、刺しゅうを施された美しい細い布だった。

「これはわたくしが飼った羊から刈り取った毛で織った物です。毛織物など、辰国ではほとんど出回らないと聞きました。それどころか、獣を傷つけるわたくしたちを野蛮というのを聞きました」

 辰国の中にも、一部そういう人がいることは知っている。けれど、その言葉を聞いても揺らがなかったのは、自分をいつでも肯定してくれる存在がいたから。

「わたくしは玄国を豊かにしたい。揺らがぬ土台を築き、百年、三百年と続く国を作りたい。わたくしは玄国が好きだからです」

 その言葉に子牙は思わずため息を漏らした。王というものは感情を出さないと思っていたからだ。

「それに、あなたは覚えていらっしゃらないと思いますが。わたくしはあなたに会ったことがあるのですよ」

 子牙がどこで、という前に黄花姫はさっと家臣を呼び、その場を終わらせた。


「まったく! 金狼族の連中は老人を敬うことを知らんのか! それにしても、黒雷、黒雲! お主達は一体何を呆けておったのだ!! わしが捕らえられたのならば、血相を変えて、あの連中と一戦交え――――!!」

「おじいさま! それ以上叫ぶと傷口が開きますわ!」

 宴の最中にとらえられた黒陵将軍の雷が劉家の敷地内にこれでもかと鳴り響く。その怒声を何とか収めようと明英が躍起になっている。

「あー、見舞いに行く必要なかったな」

「そんな事言わずに、羽さんの前では将軍は優しいってご当主様もおっしゃっていたではないですか」

「けどなぁ、ありゃ当分落ち着きそうにないぞ。多分、さっき目が覚めたって感じだろ」

「でも………ご当主様の命令ですし」

 劉家の門の前で羽と澄はつぶやいた。宴のすぐ後に父である周権に呼び出され、夜が明け次第すぐに劉家に見舞いに行くようにと命令されたのだ。で、一人で行くのを嫌がった羽は澄を道連れにした、という顛末。

 2人でどうしようかと思案していると、劉家の家人が涙を浮かべながら走ってきた。

「よかった! 周家の御曹司殿ではないですか! ささ、こちらへ! お連れの方もどうぞ! 御曹司殿、あなただけが頼りです!」

(こういう頼られ方をするから嫌なんだよな)

 そうはいっても、父や祖父とは違い豪快な気性の黒陵を嫌ってはいない羽だった。

「周羽です、入りますよ」

「なんだ、羽ではないか!」

 さっきまでの怒号はどこへやら、ぱぁっと表情を明るくさせた黒陵はうんうんと頷いている。

「お久しぶりです。将軍」

「おぉ、これは栴檀殿ではないか! このような所にお越しいただき、光栄であるな!」

「将軍、御怪我の具合はどうですか? 父上より、見舞いの品をお持ちいたしました」

 ふぅむ、と老将は椅子に腰を掛け顎髭をなぞる。

「権殿も気づかいは無用だというのに。毎度毎度、気苦労をかける。厄介ごとを抱え込む御気性は今も昔も変わらぬなぁ」

「はぁ」

「元が真面目であられるからなぁ。そのせいで、己の咎ではないことも己の咎だと考えられる癖がある。子牙もそうじゃったし。お主もじゃぞ、羽」

「俺もですか?」

 思っても見ないことに、虚を突かれた。あの神経質な父はともかくとして、自分までそう思われていたのは初耳だ。

「黄花姫様より無理難題を突き付けられたと聞くが、それはまことか?」

「無理難題かは分からないんですけれど、俺と子牙兄ちゃんで一曲奏でろと言われました」

「題目は?」

「還鶴玄楼です」

「ほう。還鶴玄楼……懐かしいな」

「ですが、還鶴玄楼についての資料は全く手掛かりが無くて……。奏でた記録だって、そう残っていませんし」

「……ふっ。あはははははっははは!!!」

「!?」

 突然笑い出した黒陵に二人は思わず飛び上がった。

「まったく、その運の良さだけは父上に似なくてよかったな!」

「?」

「運の良さだけで生きている男がここにもいるとは!」

「あの、話が見えないのですが」

「あぁ、悪かったな。いい加減隠れるのをやめよ。お主が出て行かねば話が進まんではないか。わしにその役をさせるの話が違うだろう」

 そう言って、黒陵が声をかけるのは屏風の方だった。誰かがいるのだろうか、もぞもぞした声が聞こえてきた。

「はっきりせんか! あまりごねるとお主の首根っこを掴んで権殿の前につきだしてもかまわんのだぞ!!」

「そ、それだけはお止め下さい!! それ以外なら、命にかかわること以外なら何でもしますからぁああああ!!」

 屏風から転がり出た陰に驚くのは羽の方だった。

「お、おっさん!??」

「あぁ……。さっさと用事を済ませて帰ればよかった。って、お前らが来るんなら日付をずらせばよかったのに、嶺さんってば善は急げなんて言うから………」

 転がり出てうずくまっているのは、権の弟であり、羽にとっては叔父にあたる周策だった。以前周家から追い出された時、匿ってもらった恩がある。

「おっさんどうしてここに!」

「俺も見まいに来たんだよ! ったく、黒陵将軍はお人が悪い。羽が来ることを知ってて俺を留めたでしょう」

「当たり前だ。お主が曹家の依頼で何をしているか知らないわしではないわ。これでも殿中には知り合いがごまんとおるのでな」

「ちっ、俺も厄介な人に仲人を頼んだもんだ」

「仲人?」

「その話はおいおいしておいた方がよかろう。一刻の猶予もないとわめいておったのは策、お主ではないか」

「わめいてはいなかったと思うんですけどね」

「なにを言うか。滅多に泣かぬ策が泣くのなら、よっぽどのことではないか」

「あーはい、はい。兄上には言わないで下さいよ」

「それはお主の働き次第だ。楽譜だけ置いて去るなら……」

「はい! やります!」

 むきになって策が叫ぶと、がははと黒陵が笑う。

「楽譜?」

「曹家に眠っていたんだよ。還鶴玄楼は、な。ただ、それは昔の形式の楽譜だったんだ。だから、俺が書きなおした」

 これ、これ、と策が巻物を軽く振った。

「………は?」

「おい、お前は確か嶺さんの弟とダチだったろ。聞いてなかったか?」

「淳が?」

「淳から聞かされてたんだよ。玄国との会談で使われるかもしれないから調べてほしいって」

「…………」

「本当に運がいいな」

 そうとしか言いようがない。にやにやと笑いかけてくる叔父に言い返せなかった。

「でも、殿中曲をいじってよかったんですか? 策殿は在野の楽人なのでしょう?」

 澄の言葉に大人たちは目を合わせた。

「俺はお前と同等の人間だよ」

「お主、曹家に婿入りするときに周家から勘当されたからな。権殿が緘口令をしくわけじゃ。周家の人間にあるまじきことだからな」

「澄と同等って事は、あんた……もしかして……」

 その言葉を待っていたかのように、策は拳を合わせて礼をする。

「周策あらため、曹策。元殿中の楽士にして、陛下より臥龍大聖の号を賜りし者」

 元殿中の楽士。二つ名は臥龍大聖。大聖の号を持つ楽士。

 ぞわぞわと羽の足元から脳天に向けて何かが突き抜けていく。

(………やっぱり、この人は)

 ――――― 人の成しえない境地に立つ人だ。

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