第10話 還鶴玄楼
二つ名【大聖】
それは、二つ名の中で唯一獲得できる「条件」を持つ二つ名。
「あんたが……大聖……」
「おう」
「………」
すげぇな、あんた。けれど、羽の口から出たのはそれとはまるきり逆方向。
「寝言は寝て言え」
「おい!? さんざんな良いようだな、甥っ子!」
思わず口に出た言葉に策が叫んだ。
「あんたが大聖なら、どうしてあんな真似を!! 宝の持ち腐れって話じゃない! うちの弟子達、っていうか父上やおじい様に追い出されたって文句は言えない!!」
「あの、大聖って……。楽長様でも獲得できなかった、あの、大聖ですか?」
澄の言葉に羽はうなずいた。
「あぁ。ただでさえ数年から数十年に数名しか現れない二つ名の中でも、かなり特殊な二つ名だ」
大いなる聖。その名にふさわしく、それを獲得するために必要なそれは――――。
「あんた、殿中曲を作ったのか?」
その言葉に策が無言でうなずいた。
「作曲、ではないけれど、それに近しい事をした」
羽は策の笛を初めて聞いた時と同じような衝撃を味わった。殿中曲を生み出す、あるいは広める、そのような大事業をなした者のみに与えられる二つ名だ。
「ってことは、あれか。俺があんたに会った時に啖呵を切ったのは、単なる俺の無知が招いたことか」
その言葉に策があっけらかんと笑う。腹を抱え、ひとしきり笑う。その笑い声に羽の顔が蛸のように赤くなっていく。
「そうさ、大聖の二つ名を持つ者の行動はすべて陛下から認められる。市中で殿中曲を弾いても、咎めなどない」
「豚に真珠もいいところだな」
「言ってろ。たしかに認められるが、逆に言えば少しでも陛下の”威光”を貶める真似をすればその場で即刻斬首だ」
「………そんなの、周家にいるわけないだろ。二つ名だぞ、誰もいないって父上もおじい様も言ってたのに。それなのに、あんたが二つ名で、それも大聖だなんて」
ぎゅっと、右の袖を左手で押さえる。周家では曲を生み出すことは、半ば禁忌だった。二つ名を持つ者がいない、と思っていた。だからこそ、自分が獲得し周家を盛り立てようと思っていたのに。
「俺の二つ名は陛下からの餞別だ。周家を抜ける力になってくださったんだ。陛下は周家の現状を大変憂慮していらっしゃるからな」
その言葉に、羽の心がずきりと痛んだ。皇帝とは会ったこともなければ、名前も聞いたことはない。けれど、歴代の当主がそうであったように、仕えるべき主だと思っている。
「分かってる……。でも、俺は、何を」
したらいいんだ?
そう言いかけた羽の頭に、巻物が軽くぶつかる。
「弾け、羽」
それが、
「お前の答えを見せろ」
受け取った巻物は、つい最近完成したものだと分かった。広げてみると、そこにはいくつもの修正箇所が見られた。けれども、羽の脳裏には音が鳴り響く。
広大な野を駆け巡る、駿馬のような風。
風が引き連れてきた夕暮れ。
夕暮れに浮かぶ巨大な黒い楼閣。
「これを、兄ちゃんと奏でるのか……。なんか、怖いな」
2人だから、だけじゃない。この曲が羽にとって初めて宴で奏でる曲になる。殿中曲を初めの曲にする楽士など聞いたことが無い。くちさがのない者は、不遜だ、身の程知らずとそしるに違いない。
「羽さんなら、大丈夫です」
隣で楽譜を読み解いていた澄が呟いた。
「言っとくが、お前の事を陛下に話しておいた」
「はぁ?!」
「とうぜんだろう。いかに、他国の姫君であろうと、殿中曲を奏でろと命令することはできない。かといって、玄国の人間から陛下に申し上げるのはあまりに無礼。そこで、俺の出番ってわけだ」
そういう策の言葉にも一理あった。大聖の持つ特権の一つに、皇帝への謁見がある。それも、皇帝の住まう居城の方だ。
(父上でも御簾ごしにまみえることすら稀な陛下に、直に会えるなんて)
羽の視線を感じた策がばつの悪い顔をした。
「俺の事はどうでもいい。ほら、それ持ってさっさと子牙に会いに行って来い。おそらく、来賓館の方にいるだろう」
策が二人を劉家の敷地から追い出した。あまりにもしぶとい少年たちに、策が荒く息を繰り返す。
「あぁ、もう。さっさと行きやがれってんだ……」
悪態をつく策に黒陵将軍は呵々大笑しながらゆっくりと近づく。
「まぁ、良いではないか。お前も行ってくればいい。一時とはいえ、教え子たちの晴れ舞台ではないか」
「権兄上がいるではないですか。それに、殿中には俺を知っている連中が多くいる」
ざざ、ざざ、と冷たい風が策の程よく切られた髪をゆらす。その端を指で軽くつまみ、策はつぶやいた。
「嶺さんがいてくれれば、それでいい」
その言葉を黒陵将軍は聞かないことにした。もう、かつて殿中で楽士であった頃の青年の面影はどこにもない。
来賓館は殿中の中央部の端に位置しており、他国からの使者が来るたび、その趣は異なる。使者の国の工芸品や、それを題材としたものを飾り、もてなすのだ。玄国は草原と牧畜の国だ。入った途端、さわやかな香の匂いが鼻をくすぐる。
「兄ちゃん!」
「子牙さん!」
もんぺ位に声をかけ、羽は子牙のいる部屋へと通された。今回ばかりは自称田舎者、現貴族の澄もついてきた。二胡らしき音色が楽譜に記されていたからだ。
「羽! それに澄も!」
卓についていた子牙が驚きの声を上げた。机に並べられた茶器には注がれたばかりの茶が入っている。
「おっさん……じゃなかった、策叔父上から楽譜を預かってきた!」
「策……殿から?」
叔父上、と言いかけた口をつむんで子牙が言う。茶器を軽く片付け、羽は楽符を広げて見せた。
「これが……還鶴玄楼……なんだな」
子牙も楽士だから、その楽譜を読み解くのにそう時間はかからなかった。
「なぁ、兄ちゃん」
「どうした?」
「兄ちゃんは、たとえ王子だろうと、俺にとっては兄ちゃんだから」
「そうか。そうだな……」
子牙は言葉に詰まった。かりそめの生を与えてくれたこの子に、何を返せばいいだろう。本来の自分を見つめ直す時間が来たのだと、この楽譜を見て思った。玄国の思い出はあまりない。けれど、自分が立つことで救われる人がいる。
(お前の行きたいように生きなさい)
そう、父が言った。
あぁ、そうだ。
(ここで出会ったすべての恩をここで返すことができるんだ)
「羽、最高の楽にしよう」
そう自然と言葉にしていた。その言葉に羽は笑う。輝く陽のような、人を惹きつける笑顔で。
「あったりまえだ! 兄ちゃんと、澄がいれば百人力だ!」
「えぇ!??? お、おれも入っていいんですか!?」
澄が目が飛び出んばかりに叫ぶものだから二人で笑った。
楽譜を広げて三人がそれぞれ楽器を持ち出す。羽は琴、澄が二胡、なのは当然のこととして、子牙が持ってきたのは全く未知の楽器であった。形状は二胡の様だが、その胴は丸ではなく四角く、側面ではなく正面に弦が張られている。弓も太く力強い印象を受ける。
一番目を引くのは、その弦を束ねる頭の部分だ。通常四角や、曲線を描く頭には、馬の形の彫刻が施されていた。書物で見たことがある、玄の楽器の一つだ。
「これは
玄の民は自然と共に生きる。その中でも特に馬をこよなく愛している、と書物に書いてあった。けれども、それを楽器にしたものを初めて目の当たりにした。辰でも花を楽器に描くことがあるが、楽器そのものに組み込むことはなかった。
「どんな音がするんだ?」
「聴いてみますか?」
羽と澄が刻々と頷くと、子牙は一曲奏で始めた。動きとしては二胡によく似ているが、音質が異なっている。例えるなら、二胡はさらさらと流れる水なのに対し、馬頭琴のそれは広大な野をいく風のよう。水と風、似て非なる音に羽はため息をつく。
2人ではなく、3人で奏でることに黄花姫は少し不満げではあったが、澄が二つ名を持っていることを知るとあっさりとその矛を収めた。宴の控室で、羽はがたがたと震えていた。
練習自体はそんなに時間はかからなかった。なにせ、天才と大天才もいるのだから、羽はそれについて行くだけでよかった。控室はそれぞれに与えられてしまったものだから、羽の緊張は時間を経るごとに増していく。
(弾けるのかな)
そう思うと、指先から冷えていく。こんな大舞台を初舞台にするなんて、父が見たらどう思うだろう。他の楽士が見たらどう思うだろう。そもそも、策から預かってきた楽譜を奏でるなんて、いいのだろうか。
「入るわよ!」
ばん、と足音を鳴らし明英が入ってきた。
「めい、えい?」
「まったく! 子牙お兄さまに言われてきてみれば、案の定うさぎの様に震えちゃって! みっともない!」
「うるさいな! 俺にとっては初めての舞台なんだよ! それに、兄ちゃんを心置きなく送り出すためには!」
「まさか、忘れたの!? あきれた! あんたは策殿の所で何を学んできたの? そして、何のために殿中にまでやって来たのよ!」
「………」
明英は時に鋭いことを言う。子どもの時から、そうだった。
(俺の楽を探すためにここに居る)
舞台は、以前黄花姫がめちゃくちゃにしてしまったところを使うことになった。三人が呼ばれ、それぞれ向かい合うように座る。上座から見て、中央が子牙で、右側に澄、左側に羽がいる。それぞれの楽器を手に、呼吸を合わせる。
――― 還鶴玄楼は、辰と玄の互いの繁栄を祈って作られた。
そう、聞いたことがる。まだ二国間にわだかまりがあった時代、それはよくないと生み出された曲だ。
そして、還鶴玄楼はある仕掛けがある。それは、似た音を少しずつずらしながら重ねていくというものだ。その重なりは風が何度も吹き付ける様を表し、また、駆け抜ける馬の大群を思わせる。
還鶴玄楼、というのは実際にある楼閣の名前だ。辰国と玄国の境にそびえる五重の楼閣で、それは黒く塗られている。屋根が広がり、まるで鶴が羽を広げたように見える。そのため、玄から飛来して、辰国にとどまる鶴とみたて、還鶴玄楼という。
(広い野に立つ一つの楼閣、か)
その楼閣は黒く、どこからでも見えるだろう。たとえどんなに遠くにいても、その楼閣を目指せばいずれたどり着くだろう。互いの地へ。
そうか、と羽は思った。
黄花姫がなぜこの曲を示したか分かった。一歩間違えば争いごとになっていたかもしれないこの事態をこの曲で終わらせたかったのか、と。
こん、こん、と琴の音が響く。速くない曲だから、急いてしまいそうな心を澄の二胡と、子牙の馬頭琴が抑えてくれる。
兄ちゃん、離れても兄弟だ。
そう思う心は、きっと伝わるだろうと信じて。
(すごい子だ)
熱量がけた違いだ。憂いを全て払う様な音を羽は出している。自信がついた、だけでは収まらない何かが羽にあったのだろう。還鶴玄楼を弾けと言われた時は、楽符もないのに、と思いながらも彼は見つけ出してきた。
(きっと、この子は人を愛し、愛される子なんだろう)
優しさ、賢明さが彼をそうするし、周りもそうするだろう。その目を曇らせずにいてくれたことを、心から誇りに思う。子牙は馬頭琴に触れながら思う。本当の父が残してくれた玉璽ではないもう一つがこの馬頭琴だ。今まではこれに触れる資格がないと思っていた。けれど、今にして思う。
(私はこの音色を守りたい)
楽は繋いでいかなければすたれてしまう。形のない音は絶え、形のある楽器は壊れ、楽符も失うだろう。
私は戦などできないだろう。戦うほどの力も、頭脳もないかもしれない。けれど、一つだけ失いたくないものがあるとするなら。
この音だ。
その時、舞台に一陣の風が吹いた。その風はなぜか、知らない匂いがした。けれどもどうしようもなく子牙を懐かしい気持ちにさせた。
楽が最後の音を止めたとたん、周りから拍手が雷鳴のように響いた。人々は喝采を三人に向けている。中には涙を流す者や、深く感じ入っているものもいた。
三人に向け拍手を送った男がふと口を開いた。彼のいる所は多くの衝立が建てられており、一見すると壁の一部にしか見えなかった。
「二胡は斎澄殿、異国の楽器は周子牙殿、であれば琴は何者だ?」
その声はかすれているようではあったが、生き生きとした若者の声だった。その問いかけにそばにいた黒服の老人が答える。
「琴は周家の御曹司と伺っております」
「周家の御曹司は気性に難ありとて、当主から廃嫡されたのではなかったか?」
「いえいえ、廃嫡などとんでもない。それが、何の縁あってかあの臥龍大聖の手助けのもと、周家に戻ったのだとか」
臥龍大聖、という言葉に男はふふっと笑う。形の良い白い肌の手に爪紅を載せ、不敵に笑ってみせた男は、すくっと椅子から立ち上がると、その後の宴の成り行きなど知らぬとばかりに去っていく。
宴が終わった後、正式に子牙が天狼族を継いだとの知らせが入った。
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