第8話 罪科のはじまり
「俺が弾けなくなったのは、俺が人に期待しすぎてたんじゃないのか?」
羽の言葉に子牙はゆっくりと首をふる。苦しげに俯き、それから静かに口を開く。
「いや、それじゃない。そのきっかけを作ったのは俺なんだ」
自分には「幕」があると思っていた。父と名乗るもの、友と名乗るもの、その全てと自分の間に霧のように薄い幕があった。己が妖怪変化の類だと指摘されれば、納得してしまうくらいの隔絶が世界との間に在った。
記憶の根底にある黒い箱、そこから出た日の事はよく覚えていない。気づいたら、自分は「周子牙」という人間になっていた。そう言われたのだから、そうなのだと思った。
――― お前が生きたいように生きなさい。
父はそう言い、あらゆることを教えた。だが、知れば知るほどこの幕の正体や箱の記憶が「周子牙」を飲み込んでいくような気がした。
そんな中、友と名乗った少年は言う。
「いつか二人で玄の大将軍になろうな」
拒む理由などなかったから、あいまいにうなずいた。
黄金色に染まる平原には果てが無い。横たわる雲にも帰る所はないのだろう。土の匂い、風の匂いを嗅いだとしても、何一つとして身に感じない。ただ、老爺が自分に託した印が自分の正体を告げていた。
――― 本当に?
自分は玄の王の遺児?
考えれば考えるほど、あの広い大地に取り残されるような気がして、いつしか考える事すらやめた。考えることをやめたら、幕にも気づかずに過ごすことができた。笑えばいい、口を閉ざしていれば人が集まってきた。真面目に働いていれば、自分の抱えている違和感に気づくことはない。
けれど、それも長くは続かなかった。子どもはいずれ大人になる。大人になれば否が応でも人の輪に入らなければならない。そうして人々の作る大きな輪の一部になって、生きていかなければならない。
「俺の成人の儀を覚えているか?」
「お、おう。兄ちゃん、すっごく練習してた……」
目の前の従弟がいい澱む。それもそうだ。
「それが、俺が犯した罪だ」
成人が近づくにつれ、父は生家のある辰国に自分を連れてきた。父も大方分かっていたのだろう。己が本当の父親でないと気づいている事、そして子どもにある違和感を。初めは殿中で奉公することになった。あの土と風の匂いの無い、岩と水の匂いで満たされた鳥かごのような国は、ある意味安心した。なぜなら、果てがあるから。
「子牙兄ちゃんっていうんだな! わぁ、大きいな! 父上よりも大きいな。やっぱり、御母堂が玄国の方だから兄ちゃんも大きいのか?」
きらきらと大きな瞳で見てきた幼い子にはじめは驚いた。兄が欲しかった少年にとって、自分はよい「兄」に見えたのだろう。
「兄ちゃん、楽士になって一緒に宴に出ようよ」
「そうだね。周家の人間なら、楽士になるのは普通の事だね。私としても、殿中での奉公は嫌いではなかったけれど、楽を奏でていると心が落ち着くよ」
そう言ってはみたものの、まだ心は迷っていた。
――― ここに居ていいのだろうか。
夜が来るたびに、そう思うようになった。成人の儀で楽を奏で、皆に認められればもう後戻りはできない。
――― それでよいではないか。
この家は財産も地位もある、生きていくだけならこの家に居座り続けていいのではないか。そう思うたびに、幼い頃の記憶が呼び止めるような気がする。この矛盾を抱えたまま、果たして成人になれるのだろうか。
「兄ちゃん、そんなことを思って……。でも、兄ちゃん、あの宴じゃ奏でてたじゃないか。周家に居たいって、思ってくれたんじゃないのか?」
羽は初めて聞いた従兄の内面に驚きを隠せなかった。宴の事は覚えている。
なぜなら、そこで自分は――――。
自分の成人を祝う宴の日、琴を前にして思う。一曲目、二曲目と問題なく進んでいく。何度も練習したし、楽にかけては国一番と言われる伯父にも納得してもらえるほどのものができた。天幕から向こうは見えないけれど、明かりの向こうにいる人々はみな嬉しそうだった。
(次の曲を弾けば、晴れて周家に入れる)
そうすれば、いずれ貴族の地位をもらい、安寧の中に入れるだろう。当主になる気はないけれど、従弟が幼いから従弟が成人するまで、仮の当主になる可能性だって低くはない。この鳥かごのような国から出ずに、羽ばたかずに、亀の様に閉じこもれば、痛みもなく飢えもない。
そうだ、それでいい。
そう思ったところで、最後の曲を奏でようと琴に手をかけたとたん、ふつり、と己の中で何かが途切れた。
「まさか、弾けなくなるとは思わなかったんだ。だって、あれほど練習したのにな。周家の一員として生きていられると確信していたんだ」
「兄ちゃん……」
「でもね、これが俺の今まで抱えていた物に対する神仏からのある意味の”答え”だと思えば受け入れられた。だって、俺は父上や黒陵将軍に守られ、己の素性を隠して生きてきたのだから」
「じゃあ、あの時、俺が……俺がやったことって、兄ちゃんにとってはいらないこと、だったのか?」
今にも泣きだしそうな羽を慰めようとした手を止める。そうだ、これはこれで自分が思い描く”一番納得できる”形のはずだ。
「そんなわけないだろう。お前が代わりに弾いてくれたから、俺はこの年まで生きていられた」
自分が手を止めたことは、すぐに宴の会場に伝わった。それもそうだ。この宴はただの宴ではない、己が「周家」だと自負するための宴だ。宴で奏でられなければ、
――― いいじゃないか。全部、終わらせよう。
元々、何者かすら分からない命だったのだ。
――― よし、このまま発とう。
そう結論付け、立ち上がろうとした刹那、鮮明な琴の音色が響き渡った。子牙の後ろで、今まさに奏でられるのは、最後の曲だ。一朝一夕では身に付かない、楽人の腕が試される難曲だ。
(誰、が……)
この曲を弾く人間は自分だけのはずだ。それに、代役を立てるなんて誰にも言ってない。むしろ、この曲はささいなずれすら自分に似ている。曲をいつもそばで聞いていないとできないはずだ。
いる。一人だけ、この芸当ができる人間が。
「羽。どうしてあの時、俺の代わりに奏でた?」
「言ったじゃないか、兄ちゃんには
「そのせいで、お前自身が楽人になれなくなっても、か」
従弟は初めて首を振った。
「兄ちゃんが、どこかに行きそうになってたから。兄ちゃんがいなくなったら、あんな偏屈な父上からどう弟子の方たちを守るっていうんだ」
「お前は本当に、周家の当主に相応しいな」
何もかも嘘のような自分だけれど、この言葉だけは真実だと言える。
あの時は必死だった。もし、少しでも躊躇っていたら子牙に対して周りが疑念を持つに違いなかった。あの頃はまだ、従兄に対する周囲の目も穏やかとは言い切れなかった節があったから。周家に認められれば、そんなことはないだろうと子どもながらに羽は思っていた。
だから、代わりに。
後ろの方に置いてあった予備の琴を引っ張り出した。自分しかいないから、誰にも気づかれなかった。でも、琴を奏でている時は恐ろしかった。
ひとつでも間違えれば、何かが音を立てて崩れてしまう、と。
曲芸師でもやらない様な曲芸をしている、と思った。だから、必死に、心を置き去りにして奏でた。曲はすべて頭に入っている。それをなぞればいい。
それなのに、自分の体から何かが削ぎ落されていくような気がした。
違和感に気づいたのは、宴のすぐ後だった。指の震え収まった。けれど、ぼんやりとした意識が続いた。熱があるわけじゃない。けれど、もやのような感覚がなくなった時、自分は楽をわすれた。
「俺があの時、ためらったからおまえが楽を失う羽目になった。本来なら、お前が進むべきだった道を俺が奪いかけたんだ」
「違う! 兄ちゃんは悪くない、俺が勝手にやったことなんだ!」
「それでも、おまえが楽を失ってからの日々はおれにとっては責め苦だった。お前が家を捨てるとまで言わないだけ、救いだった」
「でも、追い出されたけどな」
「そうだね。だけれど、お前が策叔父上の所にいると気づいた時、これは、と思ったんだ。策叔父上も、お前と同じように楽を失いかけたから。何かいい知恵を下さると思ったんだ」
「………」
「良く、ここまで戻ってきてくれた。これで、俺が周子牙でいる意味はなくなった」
「そんなことない!」
「いいえ、彼には我が国に来ていただきます」
「!?」
突然聞こえてきた声に、二人は顔を上げた。黄花姫がそこに立っている。
「お迎えに参りましたわ。天狼族の唯一の生き残り、テムジン様」
「テム、ジン……?」
それが、子牙の、いや、彼の本当の名だというのだろうか。
「その玉璽こそ、我ら玄国が探し求めていた玉璽。そうですわね」
「はい、黄花姫様」
「これで、大八部族が全て揃いましたわ。いずれ来たる事にあなたの名は使えますわ、そうでしょう?」
「……」
「待って、待ってください! 黄花姫様!」
羽は彼らの礼儀など知らないけれど、地面に伏して声を上げた。
「子牙……わたしの兄を貴国に連れて帰ってどうするというのですか? あなたの口ぶりは、まるで他国と戦をするように聞こえます。天狼族がどのような部族かは存じませんが、何ゆえ我が一族の者となった彼を連れて行くのです」
「彼が天狼族だからですわ、周家の御曹司」
「天狼族は第八部族の中でも最大の勢力を誇り、他国からも”王”とよばれていた一族なんだ。その一族が健在だと知らしめれば、玄国にとって益になる」
「玄国に益になっても、辰国がそうだとは限らないだろ!」
「いいえ、これは正当な取引です。むしろ、穏便に進んだことに感謝していただきたいですわ。こちらとしては、彼が来るまでに戦も辞さない姿勢で参りましたの。話が分かる方で嬉しいですわ」
――― 戦だからね。
そう、明英の弟が言っていたことが唐突に思い返された。戦という言葉に踊らされてはいけない。子牙は”何もない”と思って、この国を出て行く。
(そんなわけ、ないだろ!)
「御曹司はこの方と実のきょうだいのように親しかったと聞きますわ。突然の別れでさぞや心を痛めていらっしゃるでしょう――――いいことを思いつきましたわ」
手を鳴らし、黄花姫は笑みを浮かべる。笑ってはいるものの、まったくその温度を感じられなかった。
「最後に宴で奏でてくださらないかしら。最後の日になるのですから、あなた方お二人で、一曲。そうすれば、御曹司の気もちも少しは晴れるでしょう。テムジン様も、ずっと御曹司の事を気にかけていらっしゃるのなら、これで断ち切ってくださらなければ、わたくしたちも困りますの」
曲名は、と黄花姫は羽扇を顎に当てて息をつく。
「還鶴玄楼がよろしいですわね」
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