厚切りの刺身と長崎の祖母

@kawahei1007

第1話

 2021年8月28日。私はテレビ局勤務のためスケジュール通りのお盆休みとはいかず先日からまとまった夏休みをもらった。かといって何かと行動を制限せざるを得ない今の社会情勢上、実家にも帰らず、福島でそれなりの自由を貪っている。この日も朝10時に起きて、たまっていた衣服を洗濯しながら史上初の6日間中止となったことで注目を浴び、一般観客のいない例年と比べて静まった甲子園の様子をテレビで観る。準決勝第一試合を終えたあたりで家にいるのももったいないと思い、歩いて15分の駅前の本屋に行き、お気に入り作家の本を買ったり、実家へのお土産を選別し郵送してもらったりとしていた。

 35度近くと、うだるような連日の暑さが続く昼過ぎ、やることをさらになくした私は全国チェーンのカフェで本を読もうとするも、腹が減っていて読書どころではないことに胃袋が下から上の脳に指摘する。折角の夏休み。今まで通りを過ぎるだけで入ろうとしなかった寿司店に入ろうと、その店の看板を見つけて5秒で決めた。

 昼食に2000円と値段の張る10貫のおまかせ握りではこの空腹は満たされそうにない。かといって海鮮丼みたいにエビの尻尾を剥いたり、盛りに盛られている刺身をかき分ける手間も面倒だった。消極的な気持ちでメニューをめくっていると「6種盛り刺身定食」が、「はいはい、そんなときの私でしょ」と小さく誘惑の声を投げかけてきた。

 10分ほど席で待っていると店員のおばさんが膳を運んできてくれた。写真で見るより少し寂しい。「チェンジ」という言葉をここ寿司店で使えるはずがない(使ったこともない)ので、最初に好物の真鯛の刺身に醤油を付け、ご飯の上にバウンドさせたあと口へ運ぶ。「まあそりゃ美味しいわな」と空腹で納得する。けれど、その厚切りの真鯛の刺身を口の中で噛んでいると、ふと厚切りの刺身を用意してくれていた長崎の祖母を思い出す。

 長崎の祖母といっても、祖母が住んでいたのは私と同じ神奈川県。祖父と結婚する前、生まれてから青春時代まで長崎で過ごしていた。それに性格的にも神奈川の親戚と比べて、陽気であっからかんとした雰囲気で長崎の風土を知ることができた。(長崎に行ったことはないが、母方の親戚は皆、長崎出身で同じような雰囲気だった)

 4歳、6歳とそれぞれ歳の離れた2人の姉を持つ自分は、小さい頃どこかおとなしかったらしい。姉と比べてあまり喋らないし、何より使える感情表現がかんしゃくを起こすのみという厄介な子だったとのこと。2人の姉が怒られる姿を多く見ていたので、「これをしたら怒られるのか」と気づいたり、姉のいうことを聞かないと遊びの仲間外れにされたりするため、自然とそうなったのは大人になった頃になんとなく合点した。

 そんな大人しく、扱いづらい男の子を、長崎の祖母は常に気にかけてくれていた。

「こうちゃん、お買い物に行こうか」

「こうちゃん、電車好きだよね?いっぱい見れるところ行こうか」

「こうちゃん、海までドライブ行こうよ」

 私は祖母の提案に「うん」と返事するものの、うまく感情表現ができず、内心は嬉しいものの暗い声を出していた。そんなことはお見通しよといわんように、祖母はささっと準備をし車のキーを持って玄関に向かう。

 祖母は私と一緒にいる間、色んなことで話しかけてくれた。「学校はどう?」「お姉ちゃんにいじめられてない?」「サッカー始めたんだって?」矢継ぎ早に聞いてきて、最初は答えるのに、うまく喋れるか不安ながら必死に答えた。2人の姉のように話の途中でいなくなったり、「つまんない」と突き放すことはなく、祖母はただただ耳を傾けてくれて、そこにいてくれた。祖母はギョッと驚いたり、アハハと笑ったり大袈裟にもリアクションをしてくれて、私は次第に話す気持ちよさを知るようになっていった。

 小学生の頃から毎月のように祖母の家を訪ねて祖母との話しを楽しんでいたため、中学に入る頃には同級生の中でもそれなりに話せる部類になった。思春期の気難しい頃になって、祖母に日頃の愚痴をこぼしたりするようになった。「ふんふん」と話を聞くものの、特にこれといった解決策は提案してくれず「何とかなるよ、こうちゃんだもん」と毎回、終着点は同じだった。ただ祖母のあっけらかんなその言葉を聞くと具体的な答えがないと苛立ちもせず、むしろ安心する。「なんとかなるもんな」と。実際、それで困難のたび、なんとかなり、伸び悩んでいた部活動で活躍したり、意中の女の子を追いかけて同じ進学校に入学したり、浪人したもののそれなりの大学に入れた。

 祖母の家に行き、夜ご飯を共にするとき、だいたい魚の刺身だった。私の好物ということもあったためで、ほとんどが刺身で飽き飽きする母も箸を持つと頬を緩める。近所のスーパーでブロック型の刺身を買い、祖母はそれを豪快に厚く切っていく。普段、家では食べない多くの量、種類豊富の刺身に私はいつも喜んだ。炊き立ての白ごはんに、厚切りの刺身、楽しそうに喋る祖母、その空間が暖かく、好きだった。

 私が大学に進学すると、勉強はほどほど、バイトとサークルに勤しんでいたので祖母と会う機会は減っていった。ただ時折、「オレオレ、オレだよ」とオレオレ詐欺まがいの挨拶を交えた電話を何度かし、近況を話していた。

「こうちゃん、楽しそうでよかった」

コードレスの受話器から聞こえる祖母の声は、私が小学生の頃から変わらず、元気な様子だった。

 2019年、大学4年の5月、周囲の同期はすでに内定を持っているが自分だけないという結果に苦しみながら就職活動をしていた私に、母が改まって話したいことがあると夜ご飯のあとに2人で膝を突き合わせた。また就職活動に関する説教かと肩をしぼめていると、

「ババ、もう短いんだって」

 何のことだか分からなかった。けれど母が泣くのを堪えながら、言葉に詰まりながらも話し続ける様子を見て、次第に理解ができてきた。

「癌」だった。

 この年の正月、「胸が痛むのよ」と祖母が食卓で話していたが、声も大きく、姿勢もいい、ついては祖母お気に入りの赤西仁のコンサートはどこでも行くし、そのコンサートの様子を興奮しながら話す祖母の姿を見ていて「この人は死なないんだろうな」と真剣に思っていたくらい、祖母は元気、のはずだった。

 この年の厳しい寒波が姿を消し、暖かい風が吹き始めた春になっても祖母は胸が痛み続けるとのことだったので、母の勧めで、近くの総合病院で検査をしてもらうとすぐに入院が決まり、そこで母は医師から祖母の状態を伝えられた。

 息子の就職活動の邪魔してはいけないと思い、家族に話していなかった母は、抗がん剤治療を受けるものの日に日に悪化する祖母の姿を見て、世話をしてもらった息子にも伝えなければならないと思ったらしい。

祖母が死ぬ。人間、当たり前のことなのだが、思いもしなかったことを伝えられ、目の前が真っ暗になった。気づけば私は大粒の涙をこぼし、ダムの堰がきられたかのようにオンオンと泣き続けた。あまりにも激しく泣く息子の形相に母は「なんで実の娘の私より泣いてるのよ」と泣きながら、優しく、どこか嬉しそうにはにかんだ。そしてまた2人で泣き続けた。

 その日からおよそ1ヶ月後、祖母は亡くなった。ガンの進行に伴い、認知症の症状が出てきて、以前のようなコミュニケーションをとることは難しくなっていったが、祖母のむくんだ手が私の手を握り返したり、祖母の大好きな赤西仁の音楽をかけているとふと目が笑っていたりと、苦しいはずなのに強く生きてくれていた。母が言うには、担当の医師も「おばあちゃん、強いですよ」と余命宣告を何度も先延ばしにしていたらしい。

あれから2年。私は福島で厚切りの刺身定食を食べながら、ことあるごとに笑い飛ばす祖母を思い出した。

 祖母の死の影響は一切なくとも、就職活動は思ったようにいかず、就職浪人して、1年後やりたいと思える仕事を見つけて、今年から福島のテレビ局で報道記者として働いてる。

これまで何度も難しい局面に当たってきたが、なんとかなってきた。祖母の血は直接受け継いでいないが、今の私に大きな影響を与えているのは間違いない。幼少期の頃から私を知る友人は、「小さい頃は見てて常に怯えてた感じだったけど、大きくなるにつれて余裕がでてきたんだよな、おまえは。同年代で一番しっかりしてるよ」と話してくれた。ちなみに余裕を持っているつもりはない。普段から感情表現を全面に押し出せない様子をそう捉えていた。

「こうちゃん」と優しく呼んでくれるその声はもう聞けないが、厚切りの刺身は駅前で食べれることを知った。

「厚切りの刺身→祖母」と連想することに、天国の祖母はどう思っているだろうか。それを聞いたら、きっとかつてのように笑い飛ばすだろう。

 刺身定食を食べ終え、膳を返却口に戻し、「ごちそうさま」と声をかけて店を出た。太陽はギラギラと存在感をより強めている。

 この24年間、何とかなってきた。きっとこの先も、何とかなるだろう。

 駅前にゴーっと大きな音が響く。新幹線が東京方面へと走り過ぎた。

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