休み時間その2:「サイン、コサイン、ここにサイン」
日付は少し遡り、入学式から2週間経ったという頃、彗斗は隣のクラスの孔明からの勧誘を受け、半ば強引に化学室に連行されていた。
「さて、新入部員も揃えたことだし化学部の活動を始めようじゃないか」
「いや、仮入部に来ただけなんだけど……」
「ごめんね、徳居君。孔明はこういうやつなの」
「えぇ……、見に来るだけでいいって言ってたじゃん……」
孔明に目を付けられてしまった彗斗も不幸といえば不幸だが、雰囲気に流されやすい彼の性格が今回は仇になったと言えるだろう。
「というわけで今回は、毎年恒例、食べられる判子作りをしていこうと思う」
「毎年恒例って、二人とも1年生のはずなんじゃ……」
そう呟く彗斗の声は、孔明には届かなかった。いや、届いた上であえて無視されたというべきだろうか。
続いて孔明は、カバンから彫刻刀とプラスチック容器、更にアルコールランプを化学室の棚から取り出し、それらをテーブルの上へと並べ始めた。
「小宮は例のものを準備していてくれ」
「はーい」
予め打ち合わせしていたのか、必要最低限のコンタクトを済ませ、小宮涼菜は足早に隣の家庭科室へと向かった。
「え、これ俺もなんか手伝ったほうがいいの?」
「その心配には及ばない。徳居君は客人のつもりでゆっくりしていてくれ」
「……この後、買い物に行かなきゃだから、早めに頼む」
「そうか、ならば仕方がない。では、これで判子の型を掘っていてくれ。君専用の判子だ」
「え、あ、わかった。じゃあ名前とかでいいかな」
理解が追いつかないながらも、彗斗は孔明から彫刻刀を受け取り、自分の苗字をプラスチック容器に彫り始めた。静音の時もそうだったが、彼は主張の強い人には素直に従ってしまう癖がある。
そして、本来化学部の魅力をじっくりとプレゼンするつもりだった孔明は、手持ち無沙汰になってしまい、窓の外の風景を眺めながら黄昏ていた。
化学室の窓から見える水泳部の、主に女子サイドを。
それから30分ほど経った頃、彗斗が型を掘り終えたのを狙ったかのようなタイミングで、なぜかエプロンを羽織った涼菜が科学室へと戻ってきた。
「はい。じゃあ、これ、砂糖と水と例の紙」
「ありがとう小宮。これで作戦は成功したと言ってもいいはずだ」
「ふーん。ところでさ、このエプロンいつも家で料理するときにつけてるやつなんだけどさ、似合ってる?」
そう質問する涼菜は、「上目遣い+あざといポーズ」という、女子最大の切り札を存分に使っている。さすがの孔明もこれには悩殺……とはならず、珍しく褒め言葉を口にするも、その方向性は致命的にズレていた。
「あぁ、いつも使用している割には綺麗だな。白衣が必要なら予備を貸すからいつでも言ってくれ」
「綺麗、そっか綺麗か……」
涼菜は満足そうな顔で照れ笑いをしていた。
二人の会話のすれ違いに気づいていながらも、彗斗は良くも悪くも空気を読んで何も言わないことにした。
「おおっとすまない。徳居君。時間がないのだったね。君の彫ってくれた型に砂糖と水を入れて、ここにセットしてくれ」
「えと、アルコールランプってここに入れればいいの?」
「そうだ。着火にはこれを」
「おお、なんかすごいそれっぽい」
盛り上がる男子の様子を、正気に戻った涼菜はほんの少しだけ冷ややかな目で見ていた。
「男子って本当、こういうの好きだよね……。今からどうなるかも知らないで……」
それから更に15分後。
香ばしい砂糖の匂いが辺り一面を漂い、アルコールランプの上にセットされた砂糖水は綺麗な色のべっこう飴になっていた。
「これで完成?」
彗斗の問いかけに、孔明は静かに頷く。
「そうだ、おめでとう。朱肉はあるから試しにここに押してみるといい」
「どれどれ……、おー、ちゃんと徳居って読めるー」
「では、これにて化学部仮入部活動は終了だ。朱肉は食紅で作ってあるが、一応判子は洗って今日中に食べてくれ」
「サンキュー、ってもうこんな時間か。ごめんちょっと帰るわ」
「ああ、買い物に行くという話だったか。ご苦労様」
彗斗はテーブルの上に用意してあったジップロックに判子をしまい、足早に化学室を後にした。
化学室に残された涼菜と孔明の二人は実験器具を片付けながら、先ほどの仮入部活動の話を始める。
「孔明、これで本当に大丈夫なの?」
「ああ、何の問題もない。間違いなく本人の意思で押されたものだ。これで部員は3人確保した」
孔明が『徳居』と印の押された、二枚重ねの紙を持ち上げると、真ん中にポッカリと穴の開いた白紙が地面に落ち、その下から『入部届』が現れた。
「孔明以外とワルだよね……」
「いやなに、借金の連帯保証人になったわけじゃあるまい。幽霊部員として籍を置いてもらうだけだ。それに、どうせ証拠は今日中に消える」
「あの子もかわいそうだよねー。クラスが近かっただけなのに」
「ああ、うちのクラスにはいないが、隣のクラスには二人帰宅部がいるからな。念のためにもう一人も同じ手段で勧誘することにしよう」
「もう一人……か。ねえ、なんていう人なの?」
「佐々木奈波という名前だ。1年4組の出席番号は12だな」
その名前を聞いた途端、涼菜の目からは光が消え、声のトーンが1つ低くなる。
「そっかー、“ななみ”ってことは女の人か……。でも部員三人揃ったんだからこれ以上は必要ないよね」
その涼菜の異変に鈍感な孔明は気づくはずもなく、いつものように業務連絡で答える。
「可能性は低いが、転校も考慮しておいた方がいい。部員は多いに越したことはないだろう」
その回答を聞いた涼菜の声のトーンがさらに一つ下がる。
「ならその時また新入部員探せばいいよね? それとも何? 私以外の女子がいないといけない理由でもあるの?」
だが、孔明の声の調子は変わらずいつも通りであった。
「いや、小宮がそこまでいうならその通りにしよう」
満足のいく結果になった涼菜の声質は、普段通りに戻っていたが、表情を戻し忘れていたことに本人は気付いていなかった。
「そうそう。化学部なんて本当は二人でも十分なくらいなのに……」
小宮涼菜、助平孔明と同じ中学出身。彼女は彼女で、孔明に対する長年の一途を拗らせていた。
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