第252話 私とみんなの温泉宿(11)

 チキチキチキと、爪を切る。

 じっと私の手元を見つめながら、姉さんが。

 深爪にならないように、ていねいに。


それからやすりで形を整えて、ふぅ、と吹く。


 爪の表面をなめらかに研ぐ。

 オイルをなじませて、磨き上げる。


 そして姉さんは、仕上げとばかりに、口づける。

 

 いとおしそうに。

 祈るように。

 願うように。

 誘うように。


 つるりとなでる指先の心地が、いつもより鋭敏で。

 まるでそこにすこしの引っ掛かりもないことをたしかめるような、姉さんの手つき。


「うふふ。できあがりね」

「わぁ」


 まるで自分のものではないみたいに、キラキラして、宝石みたいな指先だ。

 姉さんの磨き上げた、宝石だ。

 じっと近くで見つめていたくて、だけど吐息で曇ってしまうんじゃないかって怖くって、遠ざけたり、近づけたりしながら、うっとりとつい、見とれてしまう。


「それじゃあ次は、わたしの番ね」

「へ?」


 耳元に触れる言葉に首をかしげてふりむいた。

 私を抱っこするように座る姉さんは、くすくすと胸をゆらして笑う。


「だって、片方だけでも、意味がないでしょう。わたしの爪も、ユミにキレイにしてほしいの」

「う、ん」


 差し出された手を取る。

姉さんの指を見る。

 キレイに、って言ったって、こんなにキレイな指先に、私なんかが不用意に手を入れていいんだろうか。


 ああでも、たしかに少し、爪が伸びている。

 気にならないくらいだけど、いつもの姉さんなら、そろそろ爪を切りそうだなって、思う。


……爪。


 爪を、切る。


 姉さんの爪はきほんてきに短い。

 定期的に爪の長さをそろえているのもそうだけど、ときおり不定期に、ぱっちり短くなっている。


 いつもはリビングで、私とおしゃべりなんてしながら爪を手入れする姉さん。

 だけどその不定期のときには、必ず姉さんは自分の部屋で、爪を切る。


姉さんが、あの人と外にデートに行く前の日だ。


 そのとき、姉さんは、爪を切る。


 まるでなにかに備えるように。

 きっとあの人のことを、想うから。

 私には見えない場所で。


「ほら、ユミ。ていねいに、傷をつけてしまわないように、ね?」

「が、がんばるね」


 片方だけでも意味がない。

 傷をつけてしまわないように。

 

 そんな姉さんの言葉が、私の指先を震わせる。

 深く考えてはいけないとそう思うのに、この指をなんのためにキレイにするのかと、考えてしまう。


 姉さんは、とてもていねいに、時間をかけて、私の指をつるつるのぴかぴかにしてくれた。

 これと同じように、私も姉さんを整えなければならない。

 

 片方だけじゃ意味がない。


 片方だけじゃ。


「がんばる、ね」


 私は爪切りを取った。

 チョキチョキと感覚をたしかめて、姉さんの手を取る。


 細い、指先だ。


 これと比べてしまうと、なんだか自分の指が太いようにさえ感じてしまう。白は膨張色というけれど、ここまで光り輝いていると一周回って頼りなくさえあった。


 晴れた日に空を見上げて、まばゆい光の向こうに、ほんの一点の太陽を見るような、そんな感覚。


 いつまでも直視していられないくらいに輝かしくて。

 それなのにこれから私は、この光をそぞうする。

 より美しく、よりなめらかに、より愛おしく、より私になじむようにと、切り、削り、磨く。


「ユミ」

「ぅ、ん」


 見とれる私を姉さんはうながした。

 手にした爪切りを、姉さんの指にあてがう。


爪を、切る。


先端を切りとって。

そうして生まれた角を、なくしていく。


 じっと姉さんの手元を見つめながら。

 深爪にならないように、ていねいに。


 なにか、とても罪深いことをしているような気がしていた。

 だって、整えられていた爪を、こうしていちど、台無しにしてしまうんだ。

 ここから元通りに、ううん、元よりずっとキレイに、してあげられるだろうか。


 ちらりと見上げた姉さんの視線は穏やかで。

 すべてを私にゆだねている、信じてくれている。


「こ、こんな感じ、かな」

「ステキよ」

 

 私がうかがいを立てると、姉さんは笑った。


 ……も、もうちょっと短くしといた方がいいかも?

 なんかちょっとビビってる気がする。

 もっと短くしないとか?

 分からなさすぎる……こういうときの爪の長さってどれくらいが適切なんだ?

 いやどういうときでもないけども。


 ないけども。も。 


 いやだってほら、人の爪ってど、え、どうするのが正解なのこれ。


 ええい。


「よ、よし。じゃあ次はえと、あの、やするね?」

「おねがいね」


 おねがいされちゃったからには、がんばらないと。

 ……ここからプロの方にパスとかできません?

ムリですかそうですか。


 ぐぬぬ……


「うぅ……」


やすりを手にして、姉さんの形を整えていく。

整え……とと、ととの、ととのってる、のか?


姉さんがしてくれた自分のヤツとくらべるとずっとずっと歪に見えてしまう。

なにせ自分の指にあえて手をかけることがない。

表面がテカテカしてたらキレイな爪だと思ってるようなザコにどうしてこんな匠の技を再現できるっていうんだいったい……


ああ。


そうか。


それも、そうだ。


だって姉さんは、日ごろからしているんだ。


気にしたこともなかった。

いや、姉さんの爪がキレイなのは折に触れて感嘆するような、季節情緒にも負けずといった趣深い我が家の名風景ではあるんだけれど……


それを実際に作り上げる光景を見てきてなお。

これが、姉さんの積み上げてきた努力によるものだと、そうあらためて認識することは、なかった。


 姉さんはステキだ。

 だけどそのステキはぜんぶ、姉さんによって作られてきたものだ。


 私はどうだろう。


 私は、自分を磨くために、自分を高めるために、いったいなにができているだろう。

 ……びっくりするほどなにもしてない。

 ちょっと腹筋つづけてます、っていうくらい。


 それってもしかして、とてもだらしがないことなんじゃないだろうか。

 大好きな人に大好きと言ってもらえる自分は、私史上最高の自分でないとダメなんじゃないだろうか。


 少なくとも、こういう特別なときには。


 そう思うと。

 この指の違いが。

 まるで、真剣さの違いを表しているみたいで。


「ユミ?」


 手が止まっていた。

 これ以上私がなにをしても、どうにもならないと分かってしまっていた。


 時は止まれど戻らない。

 いや止まる時点でどうかって話だけど。


 でも、少なくとも手は止まる。


「あのね。ここからは、姉さんが自分でやったほうがいいと思う。私、うまくできないから……」

「ええ、そうかもしれないわね」


 あっさりと認めて、姉さんはますます笑う。

 なにがおもしろいのかまったく分からない私に、姉さんはゆったりと身をゆだねた。


「けれど最初はそういうものじゃない」

「でも……」

「わたしはあなたの姉さんなのよ」


 姉さん、と。

 姉さんはそう言って、妹の私を見つめる。


「あなたが生まれたときから、あなたが育つのをずっと見てきたの」


 抱きすくめられる。

 磨き上げられた、ステキな腕に。


「あなたがはじめて呼んだのはわたしの名前。あなたがはじめて噛んだのはわたしの指。あなたがはじめて吐いたのはわたしの肩。あなたがはじめて叩いたのはわたしの胸。あなたがはじめて自分からキスをしてくれたのはわたしの唇……あなたのはじめてを、わたしは誰よりも、母さんよりもずっとたくさんもらっているのよ」


 それは……知っていたようで、知らなかったこと。

 つまりは、姉さんが昔は――私が物心つくよりずっと前はどう思っていたかっていう、そういうこと。


「赤ちゃんのころじゃなくても、たとえばおゆうぎ会の練習もしたわね。あなたのはじめてのリコーダーだって聞いたわ。あなたがはじめてのおさいほうで、指をつついてしまったときには、傷をなめてあげたらニコニコしていてね」


 どうやらめちゃくちゃ手をかけていたらしい。

 そしてどうやらやっぱり、どうしようもなく愛されている。


「はじめはだれだって上手じゃないものよ。なんども練習して上手になるの。そうしてから、ようやくだれかに見せてみようと思えるんじゃないかしら」

「うん……だから、」

「だから、下手なあなたを見られるのは、練習台になるわたしくらいのものでしょう?」


 うっとりと笑って、姉さんは私の手をさする。


「ユミはとってもがんばりやさんだから、きっとすぐに上手になるわね。そうしたら、他の女にしてあげるきかいがあるかもしれないわね」


 いっしゅん許容しきれないほどトゲトゲしく、けれど姉さんがこの場で自分以外を口にする。

 驚く私に、姉さんの、うっすらと目を開くような笑み。


「――わたしで磨いた、わたしのための腕を」


 だからいいのだと、姉さんは言い切った。

 未熟な私こそがいいのだと。


「だからユミの好きにやってちょうだい。いっしょうけんめいなあなたを見せて?」


 つるりと指をなでられる。

 背中に感じるあたたかな信頼の重み。


 そんなことを言われたら――つい、反抗したくなる。


「私は、指先までキレイな姉さんが好きだから」


 だから、と黒のリルカを取り出した。

 小首をかしげながら私に買われた姉さんに身を預けて、いま磨いているのと反対の手をもらう。


「だから、おしえて? 上手なやりかた」

「……うふふ。もちろんよ」


 姉さんは私の手を取って、姉さんが磨いてきた技術を、私の手に教えてくれる。


「そう、上手よ。もう少し力をこめてもいいわ」

「うん」


 姉さんに言われるがままに身体は動く。

 姉さんの意のままに私は従う。


 いまの私は姉さんのお人形だ。

 手とり足とり姉さんのもの。


 だからこそ、姉さんがどんなふうに気を使っていて、どんなふうに努力してきたのかがとてもよく伝わってくる。


 まるで姉さんとひとつになっているみたいな、そんな気持ちがした。


 ……まあ、軽率に黒を使っちゃったかもって、ちょっと心配ではあるけれど。

 でもほら、お姉さんとの約束もあるし。

 それを上書きにするような強い命令でもなければ、きっと大丈夫だろう。

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