第242話 私とみんなの温泉宿(3)

「ごめんくださーい」


 と声をかけてもまったく人の気配がしないことを、なぜか不思議とは思わなかった。

 ここは私とお姉さんとのふたりきりの空間だから、もちろんそのほかには誰もいないのだ。


 迎えもなにもない旅館に上がる。

 案内に従って客室に行ってみると、標準的なグレードの部屋(『一輪の間』と呼ぶらしい)でも家族で入れそうなサイズ感だ。


 部屋には大きなテーブルと座椅子があって、奥には露天風呂へと続く脱衣所があった。


「電車移動疲れたやろ。ちょっと腰落ち着けたらお風呂入ろか」

「そうですね。……!?」


 え、お風呂?

 さっそく?

 ふつうそうなのか……?

 うぅむ。


 困惑する私を座らせて、テーブルに置かれたもなかとかお茶を提供してくれる。

 なんだかもうしわけないからとお手伝いしようとしたらやんわりと遠慮された。


「部屋代ださせとるようなもんやし、まかせてよ」

「そんなことないですよ」

「ええのええの」


 からりと笑うお姉さんに、それ以上意地を張るのも忍びない。大人が甘えていいと言うのなら、大人しく甘えるのもまた子供の仕事だろう。


「ツトメさん」


 あーんと口を開いて欲張れば、お姉さんはうやうやしくお菓子をくれる。さくさくのもなかが口のはしに残るのをお姉さんの指がさらっていく。

 

 うーん、絵にかいたようないちゃつき。

 めっちゃ至福。

 やっぱりこうしてゆったりするのはいい。

 さいきんはなにかと刺激が強いことばっかりだ。

 なんか私の18歳に向けて虎視眈々と水面下で進行しているような気がする……なんて思ってたら、お姉さんは背もたれと私の間に割りこんで、ももの間に私を挟む。


「もぉ、なんですか」

「ええやん」

「えへへぇ」


 そこにくるとお姉さんは特別感がある。

 身をゆだねることに安堵があるというか。

 ドキドキはするけど、同時に安らいでいられるというか。不思議な感覚だ。これが大人の恋愛っていうやつかと、調子に乗るのもちょっと楽しい。


 そうなってくるとアレだな。

 こう、のんびりするのもいいけど、のんびりしすぎるのももったいないというか。


「よし、お風呂入りましょうお風呂!」

「お、ノリノリやん。ええよいこか」


 あたりまえのように抱っこされて、お姫様キブンで浴場に連れられる。さすがにお着換えまではやりすぎなのでそれぞれ……え、でもあれだな、こう、カーテンとか個室とか……ない、ね?


「あんま見んといてよ」


 なんて冗談めかして笑いながら、気にせず衣服を脱いでいくお姉さん。

 ま、まあ、気にしすぎ、か。

 うん。

 ほら、お姉さんとお風呂なんてべつにはじめてじゃないし。あのときはいわゆるスーパー銭湯だったけども。


 だからべつに、お風呂のために脱ぐくらいのこと……


「先はいっとるね」

「あ、はい……」


 私がためらっているあいだにお姉さんはさっさと行ってしまう。恥ずかしがっているのを見て取ったんだろう。ちょっと申し訳ない反面、むしろハードル上がった気がする。


 だって、ねぇ。

 すりガラスの向こうに、もちろん全裸のお姉さんが待っているわけで。その人に会うために私も全裸になるってわけで。


 ……お姉さん、きれい、だったな。

 あ……身体を洗っている……っぽい。


 ……見たい、な。

 見たい。

 うん。

 いや、よこしまな意味じゃなく。

 だって、そう、ほら、せっかくだし。


 というわけで、いざ。

 いざいざいそいそ服を脱ぐ。

 さあいくぞ、旅の恥はかきすてだ!


「たのもー!」


 と声を出したわけではないけれど、そういう勢いで浴室へ。なんと露天風呂だ。日差しと湯気を同時に浴びる機会なんてそうはない。


 そして、そこにお姉さんがいた。

 流した髪をかき上げて、オールバックみたいになった彼女が私を振り向く。


 ほんの一瞬動揺する瞳――いや。

 あの目は、私を見ていた。私の身体を。

 足先、おへそ、胸元と、それから耳の辺り……ほんの一瞬、意図したわけじゃないんだろう、ほんの一瞬、つい目が行ったんだと、わかる。


 目が合っている。

 お姉さんは自分のその緩みを恥じるように少しだけバツの悪そうな顔をして、私を風呂場椅子に誘う。


「洗ったげる」

「……は、い」


 だけど。

 お姉さんの視線をどうこう言うことは、もちろんできない。だって、私の方が……たぶん、もっと露骨だった。

 見たことは、ある。

 だけどここには、私と、お姉さんしかいない。

 完全なふたりきりで、こうして直面する、女性の肉体。それも、明白に好きと、互いに知っている、人の。 


「、」


 一瞬でからからに乾くノド、ツバを飲む音が思ったよりも大きくて、きっとお姉さんには聞こえている。


 あんま見んといてと、そう言ったお姉さんは、だけど私の視線から隠れようともせず、ひどくゆっくりと向かう私を待っている。


 石造りの洗い場。木製の風呂椅子は濡れていて、っていうか、さっきまでたぶんお姉さんが使っていたやつで。


 あの細くて、だけどもっちりしていそうなおしりが、今の今までのっかっていた、イス、で。

 間接おしり……?

 これ間接おしりなんじゃない……?

 え。うそでしょ。もしかしていまから私おねえさんと間接おしりするの? 間接座位……ってこと!?


「し、失礼しまぁす」


 恐る恐ると椅子に座る。

 完全に体重をかけないようにとこわばる身体、だけどお姉さんは容赦なく肩に手を置いてうわあああ!


 あ、あったかい、よぅ……


「熱かったら言ってな」

「あはい」


 しゃぱーとシャワーの温度を確かめてから、お姉さんが私を濡らしていく。

 ま、まあお姉さんならおかしなことにはなるまい。

 そう言い聞かせることでなんとか心を落ち着けて、前を向いたら鏡にうつるお姉さんががががががが


「ぉ、ぉ、」


 や、っばくない?

 やばいよね?

 洗われてるあいだずっと?

 こうしてお姉さんの虚像を見つめ続けられると?

 は?

 そんな行為が許されるとでも?

 お風呂場に鏡を置こうとか考えた人ってゼッタイヘンタイじゃない?

 ウソでしょ。


「あんま人洗うとかしたことないから、力加減よくなかったら教えてな」

「は、はひぃ」


 お姉さんはまず、頭から洗ってくれるようだった。

 わっしゃわっしゃと、けっこう豪快な手つきで。

 だけど目の方に泡が垂れてこないようにと気を使ってくれる――目を閉じなくても問題ないように、して、くれてい、る……?

 いぁ、ちが、うん、だろうけど、ね?


 ……気づいてる、はずだ。

 私の視線に。

 私なら気がつく。

 きっとお姉さんもそう。

 だけど……無反応。

 無反応、というか、見ないふりをしてくれている、というか。大人の対応っていうことなんだろうか。

 そう思うと、まあ、うん……ぇ


 いま、お姉さん私のこと、ちらっと見、た?

 鏡越しに。気のせいかとも思うけど……

 お、おおお、お姉さんも、やっぱり、私の裸に、興味がないわけじゃ、ない……?

 いや、いや……それは、まあ、お姉さん自身、それらしいことを口にしたことは、ある。


 だけど。

 ここまで、そう、なんというか、直接的に……それこそ肌で感じたことは、ない。


「かゆいとこありますかーつって」

「だ、だいじょぶです」

「ん。じゃ流すでー」

「あえと、はい」


 さすがに流す時まで目を開けてはいられない。

 お姉さんはシャワーで丁寧に頭を流してくれる。

 

 私は、目を閉じている。

 だからお姉さんの視線も、なにも、分からない。

 お姉さんが私を、私の身体を見つめていても、分からない。


「ぅ」


 その事実が――熱い。

 お姉さんは、あくまでもお姉さんでいてくれる。

 だけど私がいないとき、私の意識が向いていないとき、私が、知らないところで……私のことを、お姉さんはどうおもって、どんなふうに、えっと……


 ――ああ、そうじゃないか。


 今日、私はお姉さんと一緒に過ごす。

 食事のときも、それこそ夜、寝るときも。

 いや、もしかしたら時間のないこの場所に夜は来ないのかもしれないけれど……一泊するっていうんだから、もちろん睡眠時間はある。


 お姉さんが、いつもなら私といないハズのすべての時間、そこに私がいる。

 私といないときのお姉さんが、このまぶた一枚、それとも扉一枚、毛布一枚の向こうに、いるかもしれなくて。


 それって……

 それって、なんか。


「終わったよ」


 とお姉さんの声が優しく聞こえてくる。

 顔の水を拭い、恐る恐る目を開けば、お姉さんはもちろん、とっても普通に、穏やかな笑みを浮かべていて。


 次は……身体。


 お姉さんはスポンジを手に取る。

 直接素手で洗う、みたいな凶行に移らないでくれてよかったと心の底から安堵した。


 いやでも待てよ、お姉さんはいったいどこまで洗うつもりなんだ?

 背中だけ?

 それとも……前、とか。

 し、下、とか、?


「あの、ツトメさん」

「ん? なんかあった?」

「……ぃ、いえ」


 なんでもないです、と先細りになる私の言葉を受けて、お姉さんは「痛かったりしたらすぐ言ってな」と笑いかける。


 私はそれにこくりと頷き、背中に触れる泡だったスポンジの心地を感じた。


 ああ。

 やばい、な。


 これ、この感じで前までいかれたら……


 やばい、な。


「……」


 めくるめく想像が脳を駆ける。

 煩悩が煩悩と混ざり合って私の桃色の脳細胞が急激に増殖していく。


 お、お姉さんなら、大丈夫な、はず。


 だけど、けど、でも、もし、もしも、お姉さんが、その、そういう気になったのなら――


「ユミカ」

「ひぃうっ」


 耳元に触れる吐息。

 うっとりと細められた目が、鏡を通さず、のぞき込むように私を見ている。

 身をかがめてそんな体勢を取っているせいで、お姉さんの胸が、っていうかせん、せんた、せんたんんんんぉおおおおおお……!


「ごめんな」

「にゃぎぃ!?」


 ななななななにへの謝罪!?

 ままままマジのやつ!?

 やばいやばいやばいリルカを甘く見てたやばいそんなあのお姉さんまでこんないやでもお姉さんにならまあ、いや違う違う違うどうやって隠す隠せるわけないいやでもここ人目ないしいやでもあばばばばば


「前の方はさすがに自分で洗ってな」

「ほへ」


 ……すぽんじ。

 えと……


『ごめんな、前の方はさすがに自分で洗ってな』


 つまり……全文はこうと。

 

 あー。

 あー、まあ、そうかぁ。

 そですよねぇ……


 さすがお姉さんのモラル力だなぁ!

 社会人は違いますねぇーッ!


「……」

「な、なんか怒っとる?」

「いいえぇ、すこしもこれっぽっちも?」

「ご、ごめんて……」

「ツトメさんはなにも悪くないですけどッ」

「やっぱ怒っとるやん……」


 しょんぼりしたお姉さんはとぼとぼとお風呂の方へ。

 私は穏やかならない気分で、手早く身体を洗う……


 って。

 いや待て、待って。いまのはおかしい。

 おかしい。

 お姉さんはどこまでもお姉さんで、そもそもだからこそ最初のみちづれとして選んだわけで。


 それが、もしもそうなってしまったら、という妄想が妄想でしかなかったことに、どうして腹を立てる?


 ……いま、私、もしかしなくても。

 お姉さんと、そうなることを……望んで、いた?

 望む、どころか。

 なんならそれは、期待とさえ、呼べるほど。


 私はいま、お姉さんがお姉さんでなくなることを期待して……いたの、か。


「お、おぉぉ……」


 もしかしてやばいのは私もか。

 お姉さんの様子がおかしいなあと思っていたけれど、それをまるで他人事みたいに思っていたけれど。


 もしかして全然まったく、他人事じゃないな?


 …………一応ちょっと念入りに洗っとこうかなぁ。


 じゃ、なくてッ!

 いやだから違う気を強く持つんだ私ッ!

 く、くそぉ……!

 やばい、無リルカの力がやばい、ただ空間を用意されるだけ、それがここまで心の防壁を破壊するのか……!

 気を張れ、ここを死地と思え! 死神は油断した者の傍らに立っているッ! 私はそれを学んできた! なんど修羅場をくぐり抜けてきた島波 由美佳ッ!

 

 私はリルカになんて絶対負けないッ!


 負けないんだ――――ッ!

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