第223話 先生と(2)

カケルを本気でヤって。

そうしてここ最近の出来事を、一つ一つ思い返して。


それからひとつの結論に至った。


先生のところへ行こう、と。


すべてに決着がついたわけではない。

だけど宣戦布告はもう終えた。

これからもみんなに恋人になってもらうためにいろいろなことが待ち受けているだろうけれど。

みんなと向き合うっていうのに―――先生だけを見ないふりし続けることはできない。


「―――おかえりなさい先生」


というわけで私は先生の家で先生を迎えたのだった。


「おっかえりー!」

「………………は?」


玄関を開いたとたんに待っていた私に先生は愕然とした様子で、飛び込んでいった奥さんにむぎゅむぎゅと抱きしめられながら硬直している。


「島波……おまえ、」

「ごはん、冷めちゃいますよ」

「きょーはパエリアだよっ! えへへ、ゆみちと初めての共同作業だゼ☆」

「あ、ああ」


困惑しながらも、奥さん―――アスミさんの勢いに流されて、手を洗ったりなんかしてから食卓につく。


それからみんなで手を合わせて、


「いただきます」

「いっただっきまーす!」

「……いただきます。いつもありがとうアス。それと、島波も」


先生はたぶんいつもそう言っているんだろう。

アスミさんはにこにこ笑って、私もうれしくなってはにかんでしまった。


そんなこんなでお食事を開始する。


お話は……まあ後にしよう。

美味しいごはんを、マズくすることもない。


きっとさぞにぎやかなことになるんだろうと思っていたけれど、どうやらアスミさんはお食事中はあまりおしゃべりをしないらしい。


「もいひぃー!」


それとも普通に、お口いっぱいにほおばるからかもしれない。


……そんなアスミさんを見つめる先生の眼差しはどこまでも柔らかくて。

私が見つめていることに気が付くと、先生は困ったように眉をひそめて、目を逸らした。


―――なんだかんだ、粛々とお食事は終わる。


そしてアスミさんはウキウキで晩酌の準備をする。

先生は私がいるからと言ってたしなめようとしたけど、私のほうが勧めた。


ふたりは赤ワイン、私にはぶどうジュースをくれて、上品なグラスで乾杯する。

ソファに腰掛ける先生の太ももに足をのせて、アスミさんは寝転がっている。

私はその反対側で、先生に寄り添って座った。


「……島波。あまり長居すると、姉が心配するのではないか?」

「……今日は、お泊りの日なので」

「そう、か」


沈黙。

ねだるアスミさんの口に、先生はキャンディみたいなチーズを剥いて放った。


「……」


先生はぐいとグラスを空にする。

伸びた手を先回りしてボトルをとった。


「お注ぎしますね」

「……ありがとう」


こぷこぷと注ぐワイン。

私のぶどうジュースと、色だけが同じだ。


「……先生」


グラスを掲げる。

またひとつ、乾杯した。


「今日はごめんなさい。急に押しかけちゃって」

「いや。コイツも楽しそうだからな。構わんさ」

「ゆみちめちゃんこイイ子だからねー!」


柔らかく髪をすく先生の手にきゃらきゃら笑うアスミさん。

……いい子、か。


「私は、いい子なんかじゃないですよ」

「ソダチのこと好きだから?」

「……、えあ、」


え。


……え。


「よぃしょぉ」


起き上がったアスミさんは、胡坐をかいて私を見つめる。

まるで純粋無垢な子供みたいな、真ん丸の瞳だった。


「ユミカちゃん、ソダチのこと好きだよね。分かるよ見てたら。だってわたしもそうだもん」

「ぁ、あ、」


どうすればいい。

どうすればいい?

分からない。

混乱しかできない私の頬を、アスミさんは包み込んだ。


「ああ。でもフられるためになんて感心しないかな。その程度のゴミみたいな気持ちでわたしのソダチを困らせないでほしい」


アスミさんは表情をひとつも変えずに告げる。

呼吸さえできない私をただ、ただ、じぃっと、見つめている。


「アス。やめろ」

「ソダチもソダチだよ」

「いえ。かまいません」


たしなめるような先生にまで、噛みついてくれようとするアスミさんを止める。


大きくひとつ息を吸って、吐く。

胸の中にあった確かなものを握りしめて、まっすぐに先生の大切な人と向き合って、そして私は頭を下げた。


「ごめんなさい。……私は、ここに、ケンカを売りに来たんです」


自分でも最悪なことを言っているという自覚があった。

覚悟がどうだという話じゃもはやない。

どれだけ覚悟を決めていたって―――道義に反して、誰かを傷つけて嫌な思いをさせるだけの行為は……するべきじゃないんだ。


初めからそれは、分かっていることだった。


「私はソダチさんが好きです。女性として。愛し合いたいと思っています。……アスミさん。あなたがいると、分かっていても」

「それ、不倫をしたいっていうことだよね。好きとか以前にルールで結ばれた関係を、ユミカちゃんはないがしろにしようとしてる」

「重々承知しています」

「してないでしょ。もしここでユミカちゃんがフられてもさ。わたしとソダチの間に亀裂が入って離婚につながったら責任とれるの?」

「そのときは私が責任をもってソダチさんを幸せにします」

「ふぅん。わたしはどうでもいいんだ?」

「誰かを諦める程度で幸せになれるなら、先生は私のために悩んでくれたりなんかしないと思うんです」


私の言葉に、アスミさんはわずかに視線を細めた。


―――先生は私を切り捨てるべきだ。


諦めるべきだ。

そんなもの悩むまでもない。

即答でノーだ。

それが人としての在り方だ。


もしも先生があのときに私をきちんとフったのなら、あるいは私はもう先生への気持ちを諦める方向に向かっていたかもしれない。


結婚している人を愛することは、私と相手だけじゃない、もっとたくさんの間に地獄を生むだけなんだと思う。

それくらいの自重は……まあ……できる、と、思う。


だけど先生は私を諦めきれなかった。


葛藤した。

躊躇した。


私を諦めることを、苦痛とそう思ってくれた。


それなら私は、大好きな人をなによりも誰よりも幸せにする決意がある。


先生の幸せに私とアスミさんのどちらもが必要というのなら……そりゃあまあ、内心思うところはあるけれど……それでも、人妻としての先生を恋人にしてやるんだ。


「アスミさん。ソダチさんのために私を許容してください。あなたから見た私は第二夫人でも愛人でもなんでもいい―――ソダチさんがなんのためらいもなく私を愛せるように、あなたの愛に風穴を開けてほしい」


言った。

言い切った。

堂々たる不倫宣言だ―――死んだほうがいい。

今までも私はクズだったけれど、これは本当にそれどころじゃない。

自分で自分に虫唾が走る。

罵倒して虐げて、少しでもみじめな目に合わせて殺してやりたいくらいに自分に吐き気がする。


だけどそれでもやるしかなかった。


本当は私は、ここにフられに来たんだ。

先生に振られて、アスミさんにとって私は、大切な人を奪おうとする気持ちの悪い異物になって。

そうなるだろうと思っていた。


思っていたのに。


そんな甘えをこの人は許さない。

この人が私を見透かしたその瞬間に。

この人が私を見下したその瞬間に。

この胸にすくうえげつないくらいの本音を、全力でぶつけるしかなくなった。


「……」


アスミさんは無言で立ち上がると、どこかへと歩いて行った。

戻ってきた彼女は一枚の紙を持っていた。

それが『離婚届』だと分かるのは、テーブルに置かれてからだった。


それはもうすでに、アスミさんの分だけ埋まっていて。


息をのむ先生をよそに、私はアスミさんを見つめていた。


「……ソダチが本気になってるなぁ、っていうのは分かってた。偏食家のコイツがわたし以外を好きになれるなんて思わなかったから、それ自体はちょっとびっくりだったよ」

「偏食家、ですか」

「そうだよ。見てみなさい」


むん、と自分を指さして、それから私を指さす。

……な、納得したくないなぁ……。


「浮気だったら理解わからせて終わりだけど、本気だったら話はベツでね。もしさ、人妻女教師と禁断の関係……! なんて浮かれてるだけのくだらない相手に本気になってるんだったら、まあわたしも見る目なかったなってなるじゃん」

「っ」


あまりにもさらりと告げられて青ざめる先生。

遠回しに私を浮かれポンチだと思ってるのかとうっかり邪推しそうになる。

いやたぶん、『見る目なかった』の部分に反応しただけだとは思うんだけど。


自然と神妙な顔になってしまう私の目の前で。

アスミさんは、あっさりと離婚届を破り去った。


「ほんとやっかいな女に好かれるもんだよね」

「それ自分で言うんですか……」

「だってヤバくない? わたしプロポーズのためにコイツの交友関係ぶち壊しにしたんだよ。むしろ感動してやんの!」

「破滅願望でもあるんでしょうか……え。っていうかそれ詳しく聞きたいです」

「悪徳宗教のやり方を参考にしてねー」

「……ちょっと待ってくれ。追いつけない」


振り向けば、先生が顔を覆っている。

頭痛でもするのだろうか。

私とアスミさんはいっしょになって頭をなでた。


「お前たちの間にいったい何が納得されたんだ……?」

「アスミさんが私を試して、」

「この子ならまあ仕方ないなとなっとくしたよ」

「…………意味が分からない」


震える手でグラスを置く先生。

両手で頭を抱える姿は、まるでフられたみたいな趣さえある。


「にしてもよくもまあいけしゃあしゃあと戯れたものだねユミカくん」

「だって……アスミさんに先生を切り捨てさせるわけにはいきませんし……」

「危なかったねー。紙一重だったよ」


ぺらぺらと離婚届の破片をゆらす。

まったく、まさしく紙一枚分の危機だった。


もしも私が普通に先生に告白して、そしてフられていたら、アスミさんは迷いなくここに先生の名前を書かせただろう。


ゴミを愛する人と付き合あっていけるタイプじゃ、きっとこの人はないのだ。

むしろプライドとあらゆる欲の塊という香りがする。

ある意味で私に似ていて―――だけど私よりずっと、自分のことを愛してる。


そんな人だ、きっと。


「ゆみちのこと好きになれそー」

「私は正直……あんまり……」

「あはは。だろうねー。まあ第三婦人として可愛がってあげよーじゃないか」

「……第二は?」

「わたしと隣り合えるつもり?」

「あはい」


ほらもう……隠す気がなくなってる。


「……つまり。またアスの悪趣味ということか……?」

「悪趣味はソダチだけだよ? べつにただちょっと自己紹介しただけ」


ね?

とにこやかに首をかしげるアスミさん。

私はぎこちなくうなずいた。


「さって。じゃあ今度はソダチの番かな」

「あ。……はい」


そもそも私は先生と白黒つけにきたのだ。

なぜか先生をほっぽってアスミさんと決着することになったけれど―――私はまだ、先生からの答えも聞いてはいないのだ。


見上げる私に、先生は顔をしかめた。

ぎゅっと抱き寄せてくれて、だけど吐き出される言葉は苦しそうだ。


「私は……島波。お前を受け入れはしない」

「……」

「お前は私よりもずいぶんと年下だ。教師と生徒だ。そしてなにより―――私にはアスミがいる」


すまない、と。

しみこむ言葉に目を閉じる。


人妻に恋をしたので、当たり前のようにフられた。


これは、つまりそれだけのことだった。

思えば先生もかなり罪な女という気がするけど……それはまあ、私が調子に乗ったのも悪いだろう。

私の気持ちが本当にそういうものだって、認められないところもあったのかもしれない。


なんにせよ私はフられた。


だから私は言った。


「先生……私は、先生のことを、ひとりの人間として慕っているんです。だから、その……個人的に、連絡先を交換することだけでもできませんか」

「…………受験の悩みくらいなら聞いてやる」


ふ、と笑った先生は、そしてまんまと私と連絡先を交換した。

ちらりと視線を向けるとアスミさんは挑むように笑う。

余裕っぽい。いや実際に余裕なんだろう。

この人の余裕を崩せるという自信はないけれど……でも。


でも、別に私は、先生の言葉をなにひとつ受け入れたりなんかしていないのだ。


ほかのみんながそうであるように―――私はまだ、失恋なんてしていない。


(がんばって)


そう口パクで見せるアスミさんに、私は笑う。

油断してたらもらっちゃいますよ、なんて。

先生の指輪をキュッとつまむ私に、アスミさんは声をあげて笑うのだった。


ああまったく先生も、厄介な女に好かれたものだ。

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