第210話 先生と(1)
翌日学校に行ったら彼女はいなかった。
というのは、実は今朝家で知ったことだったりする。
とりあえずまっさきに会いに行って話をしようと決意して家を出ようとしたときに電話がかかってきて、ものすっごく弱々しい声で彼女は言ったのだ。
『ゆざめしたわ……』
どうやら昨日、よりにもよってお風呂の中であんな会話を交わしたのが悪かったらしい。
今日は休むということと、しんどくて鼻水も出てしんどくて眠いから寝るということを伝えてくれた。
そして最後に、
『……ちがう。まちがえたわ。バカ。あんたはあれよ、しばらくダメだからね。お見舞いとかきたらころす―――
と言って電話は切れた。
どうやら意識がもうろうとした彼女はほぼ無意識に私に連絡したらしい。で、かろうじて昨日の出来事を思い出したから最後に拒絶して切ったと。
……とりあえず、お見舞いに行こう。うん。あんまり興奮させるのもよくないから、ちょっとだけ時間を空けて。
そんなわけで今日は彼女のいない学校に通う。
だからといって心の休まるときはないけど。
先輩たちとも、あれからまともに遭遇さえできていないし。
……なんとなく、折に触れて気配だけは感じるんだけど。
それはさておき。
朝一で学校についたら、私はまず職員室に向かった。
あんな状態な彼女がまともにお休みの連絡を取れるとはとても思えなかったから、一応確認しておこうという理由で。
ただまあ、当然だけどそんなのは杞憂でしかなかった。
「ああ。
「あっ。ですよねぇ」
冷静に考えるまでもなく、彼女は別に高校生の身で一人暮らしとかしてるわけじゃない。
私のこれはまったく間抜けな心配だったわけだ。
「ああそうだ島波。ついでに少しいいか?」
「はい?」
「ちょっと付き合え」
ふ、と小さく笑う先生のなにげない言葉にドキッとする私は、まったく間抜けすぎる。
それにしてもいったいどういう理由で誘われてるんだろうとのこのこついていく先は―――はい、生徒指導室でしたよ。
しかもなんか、テーブルがない。
もしかして今から面接練習でもします……?
「―――さて」
一瞬前までの親しみやすい雰囲気はどこへやら、泣きたくなるくらいにいつも通りの先生が顕現する。
「えっと。世間話とかではないですよね?」
「最近、数名の生徒の様子が異常だ。……なにをしている?」
わぁい、尋問が始まったぞ。
というか異常って……もうちょっとこう……いや何も言えないなこれ。
「その、」
「少なくとも心当たりはあるわけだ」
「ひゃい……」
一言ですでに言い逃れできる余地をつぶされた。
がた、と音を立てて先生の椅子が近づいて、優しく手を取られる。
その優しさたるや、まるで手枷みたいだ。
「実はえっと……告白……告白を、しました」
「罪のか?」
「どちらかというと罪を犯している感じで、はい……愛の、ですね」
…………いやなんだ『愛の告白』って。
間違ってないからいいけどさ。
まっすぐ目を見て言うと、先生はしばらく沈黙した。
それからひとつ瞬いて。
「……あ、愛の?」
うわぁ。
いまだかつてないぐらいのキョトン顔。
かと思えば先生は咳払いひとつで気を取り直した。
「島波。要するにお前は手当たり次第に告白をして回っているわけだ」
「おおむねそういうことです……はい……」
なるほど確かに生徒指導すべき状況かもしれない。
あまりにもカスだ。
どうして私って生きてるんだろう……
いやへこたれるな。
私がクズなのは今に始まったことじゃないし、そもそもそう思われるつもりでいたことだ。
まっすぐと見つめ返す私に、先生は深々と溜息を吐く。
「どうしてお前はそう不器用なままにことを進める……」
「なれと言われて器用にはなれないです」
「周到になれと言っている」
「しゅうとう……?」
用意周到の周到?
「絶対に断れん状況を作ってから告白すればいいだろうに」
「ぜ、絶対に断れない……?」
「既成事実だろうが弱みだろうがなんだろうが、やるなら一撃で仕留めなければならんだろう」
「えっとそれは……人生経験に基づいたやつで?」
「御覧の通りだが」
そう言って指輪を見せられる。
ぐうの音も出ない。
「アイツは変なところで獰猛だからな」
しかも先生が獲物……?
妻々関係が謎すぎるふたりだった。
「えっ。っていうかあの、先生? 止めるんじゃなくて?」
「お前がそう決めたのならば好きにするがいい」
「いいんですか?」
「私がすべきはお前たちの成功を後押しし、失敗を支えることだ。どちらにせよ立ち塞がることはないさ」
す、と持ち上げられた手の甲に口づけが落ちる。
まるで祝福するような大仰な振る舞いだ。
私はその手を逆に握り返して、それから先生を引き寄せる。
無理矢理に触れた唇が私を拒んで。
だけど縋りつくように背中に腕を回したら、わずかに緩んだ目じりが私を受け入れた。
「―――これでも、いいんですか」
「……後生だ。そんな顔をするんじゃない」
額が重なって、痛恨の極みとでも言いたげな様子で目を閉じた先生が吐息する。
「……せめて、目の前の相手と向き合ってからにしろ。今ではなく」
「それって」
「期待はするな。覚悟はしておけ」
立ち上がった先生は私に背を向ける。
それからまた溜息を吐いて、頭痛を抑えるように額に手を当てる。
「私は冷静じゃない。……今は去れ」
「……はい」
拒む理由もなかった。
私は言われるがままに立ち上がって、部屋を出る前に一度だけ振り向いた。
「好きです。ごめんなさい」
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