第208話 保健室登校児と(1)
ふと、声が聞こえた気がした。
だから後輩ちゃんに先に帰ってもらって、私は階段を上がっていく。
根拠はなかった。
なんとなくだった。
なんとなく、その階―――一年生の階の、お手洗いを覗いてみた。
そのうちのひとつは扉が閉まっていて、だけどカギはかかっていなくて。
床が、異様なほどに、水たまりで。
「あの」
「っ」
声を掛けたら、息を呑むのが聞こえて。
聞き間違えるはずもない、それは彼女の声で。
―――扉の向こうに、ずぶ濡れのユラギちゃんがいた。
「ッ!」
私は即座に扉を投げ飛ばして、カバンから取り出した新しいタオルを彼女にかけた。
強引に肩を貸すように抱き上げて、そうしてその狭い空間から彼女をさらう。
彼女は抵抗らしい抵抗も何もしないで、そもそも意識があるのかないのかさえ危うい。
いや、ちゃんと自分の足でついてきているから意識はあるんだけど、でも呆然としているような、うつろな感じだ。
だけどそれも無理はない。
トイレの個室で。
ずぶ濡れで。
傍らにはバケツが落ちていて。
そんな状況が、私の心をひどく沸騰させる。
私のいとおしい人に水をかけた誰かがいる―――そう思うだけで、今すぐにでも怒鳴り散らしたい気分だった。
彼女は頑張っているはずだ。
保健室を飛び出して、教室で。
そんな彼女にどうしてこんな悪意を向けられる。
考えられない。
考えたくもない。
今すぐに犯人を捜して、二度と彼女に関係できないようにしてやりたい。
そう思う私に、彼女はぼそりと、
「……ちがう」
「大丈夫だよ、保健室行ったら着替えあるし、たぶん運動部のシャワーとか借りれるから」
「ちがうっつってんのッ!」
ぐわと腕を振り払われる。
加減のない全力が私と彼女を吹き飛ばして、壁に激突した衝撃に身がすくむ。
彼女は立ち尽くしたまま苛立たし気に舌を打って、それからどうしようもない感情をどうにかしようとするみたいに髪をかきむしった。
「ユラギちゃん!」
「さわんなよ!」
強引にその手を掴みとめると、彼女はひどく暴れだす。
私はそれをむりやり抱きしめて、背中をかきむしる長い爪をひたすらに耐えた。
「ユラギちゃん。大丈夫だから」
「……だからさ、違うって言ってるじゃん」
震える声で彼女は言う。
さっきから何度も繰り返していることだ。
緩やかに、だけど力強く引きはがされて、彼女は私から距離をとる。
顔を見ると、彼女はまた、さっきみたいにうつろな顔をしている。
「これ、自分でやった。……自分で水かぶった」
「自分で……?」
どうしてそんなことをするのか、と、言葉にするまでもなかった。
疑問は表情から伝わって、そうでなくとも彼女はそれを『自白』しないと気が済まない様子だった。
「誰でもよかったんだよ。誰でも、適当なヤツにやられたって言い張るつもりだった。元保健室登校児の言葉だったら勝手に信じられるだろうし、誰かひとりくらいめちゃくちゃにしてやれる……ッ!」
瞳に仄暗い炎が灯る。
深い暗闇の揺らぎが彼女の頬を吊り上げていた。
あまりにも異様だった。
普通じゃない。
だったら何かがあったはずなんだと、そう思って。
「なにが、あったの……?」
「なんにも? べつに、ただアイツら全員気に食わないだけ」
はっ、と嘲笑って視線を逸らすユラギちゃん。
手洗い場の鏡に映る横顔が、まるで別人のようで。
かと思えばその表情を憎しみで歪めた彼女は、鏡を思い切り殴り割った。
派手に飛び散ったりはしなくて、殴りつけた場所から放射状に走るヒビが、そこに映る彼女をずたずたに引き裂いていた。
「わたしが保健室にいた間もアイツらは楽しく高校生やってた。それがムカつく。気持ち悪いんだよアイツら。保健室登校とか内心でバカにしてるくせにへらへらへらへら……! 死ねばいいんだあんなヤツら……ッ!」
ぎゅ。
と、握りしめる手をぽたぽたと赤が伝う。
ヒビを侵す彼女の血。
ガラスの突き刺さった痛みを今思い出したみたいに顔をしかめた彼女は舌を打って、それでも収まらない苛立ちを足元のゴミ箱にぶつけて蹴り飛ばした。
「ああいうヤツらが『普通』っていうんでしょ? ハッ、クソ、クソ、クソ。なにが普通だよ気色悪い。ムカつくんだよ。思ってもみないことを。どうせわたしを見下してるんだ。今更出てくんなよ引きこもりってさ。なのに仲間面して、うざいって言ってんのに。話しかけんなよっとぉしいッ! おまえらの誰よりわたしのほうが頭いいんだよッ! なのに上から目線で、か弱い人はほーっとけないんですぅーってか死ねよ死ね死ね死ねッ!」
いらだちが彼女を煽って、あふれる悪意が止まらない。
散らばった紙ゴミを踏みにじって荒れ狂う彼女はそして、息を切らしながら、いびつな笑みを私に向けた。
「だから貶めてやろうとした」
「ユラギちゃん……」
「だってどうせ今までのほほんと学校生活送ってたんでしょ? わたしが保健室にいる間に。だから上から目線でいられるんだ。だったらあいつらも教室にいられなくしてやればいい……頭いいでしょ、わたし」
それは、ひどい、ひどい―――八つ当たり、だった。
彼女がどうして保健室登校していたのか、その詳しいところを私は知らない。
だけど例えばいじめやなんかがあって、そのせいだとしたら、先生がああも穏やかに関わってはいられない。先生がいて、それが取り沙汰されないなんてことはない。
だったらあるいは、具体的な出来事があったわけじゃなくて。
彼女はどこまでも、教室という場所になじめなくて。
だから保健室に落ち着いたんじゃないか……と。
今の彼女からは、そんな印象を受ける。
『普通』に対する羨望と、そうでない自分への諦めと、だからこその憎しみが、ある……ような気がする。
だけど。
だけど、だからなんだっていうんだ。
「ユラギちゃん。保健室行こ?」
「はぁ? なに。哀れみかなにか? 歪んじゃってかわいそーとか思ってるの? ハッ。あいにくだけど」
「いやだって風邪ひいちゃうよ? 寒くない?」
「……寒い」
「じゃあ着替えないと。あとそれ痛くない?」
「……痛い」
「じゃあ包帯とか巻かないとだしやっぱり保健室だね」
有無を言わさず手を取ってずぶ濡れの彼女を引っ張っていく。
当たり前のように廊下は濡れるけど、まあ、うん。誰かが拭いてくれるだろう……
「……なんなの。なんのつもり。わたしはっ」
「じゃあなんで黙ってあそこにいたの?」
「それは……」
「たぶんそれが全部だよ。私は別にユラギちゃんのことをたくさん知ってるわけじゃないけど、私の知ってるユラギちゃんと、今のユラギちゃんはそう違って見えないよ」
たしかに彼女の悪意は、あまりにもいびつで、醜いとさえ言えてしまうようなものだと思う。
ひどい八つ当たりと言いがかりで、いろいろなものが拗れていて、陰鬱で暗くて……抱えているだけで、苦痛でたまらないだろう。
そんなものを、私はきっと全然知らない。
彼女の闇を、私は少しものぞいていない。
だけど彼女は結局、しなかった。
ずぶ濡れになった状態でもう職員室にでも駆け込めばよかった。そしたら大騒動だ。
っていうかそもそも決行するなら放課後を選ぶ必要がない。
昼休憩なら生徒がたくさんいるし、インパクトも大きい。
だっていうのに、もう生徒たちが部活以外で校舎内にほとんど残っていない今、しかも黙ってあんなところにいたのは、彼女が思惑通りのことをしなかった―――できなかったからに他ならない。
だったらそれがすべてだ。
「私はさ。ユラギちゃんのこと好きだよ。恋愛的にも」
「は? ……は?」
疑問符を二個重ねてもなお疑問の尽きない疑問顔。
なんで今、とかなに考えてんだ、とかいろいろと伝わってくる思いがある。
彼女はとても素直で、まじめで、そしてとてもいい子だ。
その印象はきっとこれからも揺るぎないだろう。
「だから心配しないでも、哀れみも見下しもしないよ。私からあなたに向くのは、常に大好きだけだから」
「…………気色悪い」
「ひ、ひどくない?」
結構キメキメのセリフだったんだけど。
……いやまあ私が自分に言われたらおんなじ反応するけどさ。
常に大好きだけって、それはそれでどうなのって感じだし。
いやでもねえ。
大好きなんだもんなぁ。
苦笑していると、彼女はぽつりとつぶやいた。
「べつに、知ってるし……そんなこと」
かと思えば彼女は足早になって、私は慌てて追いかけることになった。
聞こえていないふりをしてあげるには、ちょっと嬉しすぎるかもしれない。
にこにこと吊り上がる頬を気取られないように咳払いをしたらめちゃくちゃ睨まれた。
なんとも見慣れた表情だった。
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