第206話 先輩と(1)

メイちゃんと向き合うことを、後回しにして。

そうして迎えた今日は、朝から避けては通れない人と向き合うことになった。


昨日から降り出した雨はまだ止んでいなくて。


だから少しだけ憂鬱な気分があって、気分を盛り上げるために間違えて・・・・姉さんの傘を持って行っちゃったりなんかしようとして扉を開いたら。


そこには先輩が、安物のビニール傘をさしてずぶ濡れで立っていた。


私と目が合うと緩やかに笑みを浮かべて、それからたゃぷ、と濡れた足音で目の前にやってくる。

驚く私の視線に苦笑して、「実は傘を忘れて、そこのコンビニで買ったんだよ」なんて……ありふれていそうで、だけど昨日から一度も降りやまない雨の中ではあまりにも異常なことを言った。


雨を忘れるほどの没頭とともに、先輩は私の元へとやってきたのだ。


否が応なく、昨日のシトギ先輩とのその後が気になってしまう。

いったいどうなったのか、どうなって、今ここにいるのか。

先輩は一体、なにをしにきたんだろう―――


「すまないね、突然押しかけて。とりあえず歩きながら話そうか」

「あ。えと、その前に着替えた方がいいですよ」

「いや、構わないよ。ボクは問題ないさ」


にこりと笑った先輩は、有無を言わさずに歩き出す。

私はあわててそれに追いついて、先輩の傘にお邪魔しつつタオルをその頭にのっけた。


「使ってください。傘は私が持ってますから」

「あはは、ありがとう。お言葉に甘えるとしようかな」


自分の傘を腕にかけて、先輩の手から傘を借りる。

先輩はタオルでぎゅっぎゅと髪を拭いて、ついでとばかりにふんふんと匂いを嗅いだ。


「は、恥ずかしいからやめてください」

「どうしてだい? 柔軟剤のいい匂いだよ」

「や、なんかハズいですって」


別におかしな匂いがするわけもないし、先輩が言う通り柔軟剤の香りだけだろう。

だけど、なにかこう、自分の家のタオルを嗅がれるっていうのは無性に恥ずかしい。

先輩は恥じらう私をからからと笑って、それからタオルを首にかけた。


「これはまた洗って返すよ」

「大丈夫ですよ?」

「いやいや悪いよ」

「そうですか? じゃあ、まあいつでも」


と、そんなやり取りを最後にすこし沈黙。

上下の雨音に挟まれながら、なにを話しかけようかなって、ぼんやりと考えて。

だけど結局、私に言えることはそう多くなかった。


「先輩」


私が呼ぶと、先輩は足を止める。

私もまた同時に足を止めていた。

向かい合って、見下ろす視線に私は言う。


「私は、みんなと恋人になりたいって、そう思っています」

「……」


先輩は黙ったまま私の言葉を聞いてくれるけど、その静かな表情からはどんな感情も見いだせない。

それが恐ろしくて竦む舌を、軽く口の中で弾ませて。


「先輩と、恋人になりたい」


そう告白しても、先輩は表情ひとつ変えなかった。

指先が弾んで、そっと持ち上がって。

そして私の首元に触れる。


シトギ先輩につけられた爪痕。

髪に隠れて見えにくくて、私が隠したいと思ったから姉さんもまた気にしなかったそれ。

なでる心地にわずかな痛みが生まれて、ひきつる目元に先輩の手が止まる。


「……そんなことを、どうして今、よりにもよってボクとふたりきりのときに言うんだい」


撫で上げる手が頬を包む。

優しい手つきは、どれだけ先輩の精神をむしばんでいるのだろう。


「ユミカ。分かっているだろう」


ぎゅっと引き寄せられて、濡れた布の心地に抱きしめられる。


「そんな結論を、受け入れてやれるほどにボクは優しくないんだ……ッ」


……私は先輩を抱き返した。

先輩の爪はいつからか短く切りそろえられていて、だから素肌にも布越しにも、痛みはない。

優しくないとそう言う先輩は、だけど私を傷つけまいとしてくれている。

私を傷つけることを恐れて、いつもそうしてしまったときは、自分のことを酷く憎んでいるように見える。


大切にされているのだと、そう伝わる。


だとしたら、そんな先輩から与えられる痛みを、どうして厭うことがあるだろう。


「先輩。私は先輩のものになりたい。それを恋愛と呼ぶのなら、私は先輩の所有物がいい」

「だったらなんであんな女に先に告白したんだ……ッ!」


憎しみにたぎる視閃。

ぎゅっと制服を握りしめてわなわなと震える先輩は、私を噛みちぎるみたいに言葉を吐血する。


「ボクはっ、ボクはあれの次か? その前には何人に話をした? ボクは何番目だっ」

「そんなの、」

「ああ分かってるさキミはそうなんだろうとも! だけどボクは違うんだッ!」


ぽたぽたと、傘の下で雨が降る。


「ボクにはキミの気持ちなんて分からない! ボクはキミと違うんだよ、ボクはキミみたいな愛情の形を理解できない……ッ」


頬を挟み、見下ろして。

落ちてくる雨粒が、そのまま私の目を浸す。

熱くて、激烈な痛みとともに眼底を焼く酸の雨。


「不安なんだよっ、どうしてこんなボクがキミにとって一番なんだ? ボクはキミの哀れみで繋ぎ止められているだけじゃないのか……ボクのことをキミは、実は心の底では厭うているんじゃないのか……ッ! 信じたいのに、信じているはずなのに、こんな自分であればあるほど信じられない……」


……どんな言葉で、先輩を納得させられるだろう。

なんて考えたところで意味はない。

言葉で届くのなら先輩はこんな苦痛にさいなまれる必要もなかった。


雨脚が早まる。

視界がぼやけて、もう先輩の顔さえおぼろげだった。


「それでもっ、……私は先輩と恋人になりたい。疑われててても関係ない、どうでもいいんですそんなことっ。先輩がいい、先輩じゃないとイヤなんです」


私は先輩を求めた。

もっと深くに触れないといけないとそう思って。

だけど先輩は私を突き飛ばして、私は傘ごとたたらを踏んだ。


雨に打たれながら先輩は頭を抱える。

それとも耳をふさいでいるのかもしれない。

どちらにせよ先輩は、私をひとえに拒絶している。


「そんな結論なら聞きたくない……」

「せんぱ」

「それ以上はやめてくれよ……ボクまで君を殺したくなる……ッ!」


雨粒の隙間をすり抜けて、先輩の視線が私の心臓を貫く。

もしも一言でも言葉を続ければそのまま……本当に、私を殺すだろうと、そう思えるほどに熱烈な視線。


だったら、私が言葉を秘める理由になんてなりえない―――


「ッ」


私が言葉を続けるよりも早く、先輩はその場を駆け出した。

とっさに追いかけようとする足が濡れたアスファルトに滑って私は転ぶ。

純真な殺意に、無意識のうちに怯えていた本能が足を竦ませていた。


転がるビニール傘の歪んだ景色に、もう先輩はいなくて。


「っ、ぁああッ!」


胸の内にわだかまる感情を思い切り吐き出す。


なにもかもがうまく伝えられなくて、なにもかもがどうしようもなくて、まともに向かい合うことさえ一瞬たりともできなかった。

告白どころじゃない。

いっそ殺してくれればいいのに、そんな気持ちさえ先輩はもう私にぶつけてくれなかった。


だけど雨音は静かで、私の慟哭は届かない。

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