第164話 独占的な先輩と実験で(3)
「―――ぁ」
「~~~ッ、かはっ、はっ、ぅ、はぁっ、ぁ、」
先輩の形をしたシミがふらふらと遠ざかる。
30分が経過していたのだと理解する。
私は生理的な塩水を腕で適当にぬぐい、先輩の元へとよちよち這い寄る。
彼女は頭を抱えてうずくまっていて、ぽたぽたと落ちるしずくがアスファルトにはじけている。
「どうしたんですか、先輩」
「すまない、すまない、本当に……ボクは……ボクは……ッ!」
「いいんですよ。ちょっとですから。痕だって残りませんよ」
私は笑って首元に手を添わせる。
先輩の手の形はもう肌の表面から消えている。
むしろ後ろ側の爪跡のほうが痛いくらいだ。
ほんの一秒とか。
酸欠にさえならないほどの短時間なのだ。
先輩が、私の首を絞めたのは。
30分の終わりを察知して、その瞬間の激情が先輩を動かしたようだった。
先輩のものであれない私が悪い。
誰かのものであれない私が悪い。
だから先輩には少しの非もなくて、それなのに先輩は、なんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんども―――なんども、謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめんなさい先輩……もう二度とこんなことがないように、ちゃんと、しますから」
「だったらボクのものになっておくれよ……おねがいだ……それだけなんだ……」
「先輩……」
縋りついて乞う先輩に胸が痛む。
いつもの頼りになる先輩が見る影もない。
私なんかが分不相応にも哀れと思ってしまうほどだ。
だけどそれに応えることはできない。
かといってじゃあどうすればいいのかさえ、まだ、分からない。
だから私はいつもみたく、解決を先送りすることしかできなくて。
「ねえ、先輩」
私は取り出した黒リルカを先輩に見せつける。
そのとたんに先輩はスマホを触れて、だけど使うつもりがないカードに効力はない。
言葉さえなくただひたすらに泣きながら見上げてくる先輩を優しく抱きしめて、その耳元でささやきを溶かす。
「毎日、一回だけ、こうしましょう?」
先輩はピクリと動きを止める。
呆然と、音のない呟きが問う。
私は頷いた。
「一日一回、です。絶対に。お休みの日も平日も、一日一回……先輩が不安な間、先輩が不安でなくてもいい時間を、必ず」
「……だからボクに大人しくしていろと言いたいのかい」
「そういうことに、なります」
ひどいことを言っている。
自覚はある。
自責もある。
自嘲もある。
そう分かって言っている。
結論を出すまで。
先輩が不安でなくなるような、そんな結論が出るまで。
それまで先輩に、私は苦痛を強いる。
ひどく自己中心的な理由で先輩の不安を暴き晒して、それなのに今度はまた自己中心的な理由で蓋をしようとしている。
最低だと憎まれてもおかしくはない。
ついに愛想を尽かされてもおかしくはない。
それでも先輩は、こくり、とうなずいた。
「―――だけどこれが最後だ。よく分かったよ。ボクは、どうやら大人になんてなれない」
それでいいと、私は応える。
私もきっとそんなことはできない。
取り返しがつかなくなってようやくどうにかしようとして、そしてどうしようもないままに、墜落して、壊れて―――そんな風にしか、決着できない。
それでも結論を出すと決めた。
ちゃんとすると決めた。
先輩とこうすることで、少しだけ、見えるものもあったような……気がするし。
「ボクの人生がキミにかかっていると思ってくれ、ユミカ」
「はい。……どうなっても私が先輩を好きだっていうことは、変わりませんから」
「ははは。今度は、ボクがそれを試すことになりそうだ」
そう言って笑う先輩は、すっかりいつも通りの余裕を取り戻していた。
虚勢かもしれない。
心根では疑念と不安とがあるのかもしれない。
それでも先輩は、先輩らしく笑っている。
なんにせよ、これが最後という言葉にきっと偽りはない。
先輩との最期ならさておき、最後となると死んでもゴメンだ。
どうすればいいんだろう。
答えはまだまだ、その影さえも掴めていなかった。
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