第90話 特別な保健室登校児と

ふたりっきりの不良と文化祭の空気から逃避行してみたところで、あんがいまじめな生徒で通っている私は彼女のようにいつまでもみんなを見下ろしてもいられない。

もっともあれは昨日の夜更かしが原因だから、翌日以降はそもそもフケてやろうっていう理由も特にはないんだけど。


というわけで今日は保健室に来た。


作業中にうっかり、それはもうとってもうかつなことにダンボールで指を切ってしまったからだ。てへぺろ。……てへぺろって最初誰が言い出したんだろ。漫画とかかな。


「こんにちはー。あ、先生いないや」


これは本当に偶然で、ちょうど私が訪れた時には養護教諭の先生はいらっしゃらなかった。

もう血が止まった指に一応名目上絆創膏を巻いてかりそめの達成感を得つつ、埋まっている二つのベッドを見やる。


はてさてどっちが彼女だろう。


いつもなら入り口から一番遠いベッドだ。

だけどもし彼女が後から来たのなら、ひとつ飛ばしのベッドが埋まっていることにも納得感がある。彼女は保健室登校とはいえ私よりまじめなところがあって、先んじられるということはなさそうだけど…


まあいいや、と軽く考えていつものベッドを覗き見る。


と、彼女がぐっすりと眠っていた。

授業中に居眠りとは感心しないやつだと思って近づいてみると、そばの机に筆記用具とプリントが置いてあることに気が付いた。

見てみるとそれは数学のプリントで、しかもなんとなく授業で使うのよりも説明っぽいし、問題がたくさん載っている。少なくとも相生先生たんにんきょうしがいつも作る無慈悲さを感じない。

どうやらこれでお勉強をしていたらしい。で、終わったから眠っていると。


ベッドのふちに座って、なんとなく内容を眺めてみる。


……うーん。私より絶対頭いい。

消しゴム跡さえないし。余計な落書きもない……のはまあ普通かな。

最低限の手数で簡潔に解いているっぽくて、それなのに文字の大きさでうまく空白を埋めるみたいな遊びさえ見て取れる。字めっちゃきれいだし。すごい。語彙力が小学生になるくらいすごい。


しかもそんな彼女の愛用するシャーペンは、ラブ乱舞な飛び切りキュートなやつ。

頭のところにハート形のチャームみたいなのがチャラっとついている。

消しゴムも、出てるのはほとんど新品なモノケシだけど、筆箱の中にはアクリルケースでお菓子屋さんがのぞいていた。


どうしよう。

かわいいがすぎる。


「……まま?」

「ぐふっ」


突如聞こえてきたかわいらしい寝ぼけ声に魂が致命傷を受ける。

胸を押さえて苦悶する私の背後で、むくりと起き上がるような気配があった。


「は?……っ!ばっ、はっ、はぁ!?なにやってんの!?」

「あ、おはようユラギちゃん」

「えっ。あー、おはよ」


私がなんともなさそうに返事をすると彼女は勢いを失って、ぶつくさと独り言を噛む。

どうやら私をママと呼んだことが夢か現かで悩んでいるらしい。

なるほど。

からかいたい気持ちは多分にあるけど、あえてなにも言わないでおこう。

あまり警戒させるともう二度と言ってくれなさそうだし。くっくっく。


それはさておき。

わりと深刻に考え込んでいるらしい彼女をごまかす意図もかねて、私はリルカを差し出した。


「起きてさっそくだけど、頼んでもいい?」

「……別にいいけど」


ぴぴ、と私に買われた彼女は私の隣に座ってくれる。

ずいぶんと彼女とも打ち解けたような気がして、こんなちょっとしたことが嬉しい。


「まあ、なにかしたいこととかもないんだけどね」

「なにそれ。もったいないことしないでよ」

「……しないでも、こうして隣に座ってくれる?」

「人を守銭奴だとでも思ってるわけ」


じろりと睨みつけられる。

もちろん怖くなんてなくて、ただただ心の底からうれしい。

だけどそんなささいな確認作業を、彼女はちょっぴり面倒そうにため息を吐いた。


「ごめんごめん」

「別に」


つんっと口をとがらせて随分とご立腹だ。

どうやら言い方が悪かったらしい。どちらかというと言葉足らずか。


私は彼女の肩に頭を寄りかからせて、むずっと身じろぎする彼女の反応を楽しみながら笑う。


「疑ってるんじゃ、ないんだよ」

「……だから、別に、って言ってるの」


ふむ。

もう一度顔をよく見ようとしたら、彼女はそれを拒んだ。

なるほど。


どうやら杞憂だったらしい。

それこそ失礼だったかな。


「ね。ユラギちゃんはなにかしたいこととかってある?」

「別に、いつも通りでいいんじゃないの」

「ふふ。そっかそっか。そうだね。そうかも。うん、そうだ」


からからと笑う私に、彼女はまたため息を吐きながら。

だけどスマホとイヤホンを手に取って、片耳を私に分けてくれる。

今日はどうやら、歌ではなく曲の気分らしい。


「―――ちなみに聞いてたでしょ」

「なにも聞いてないよママ、あイテっ」


ポップなメロディに包まれて、ささやかなふたりごと。

そんなゆったりとしたひとときが、彼女とならばそれだけで特別だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る