第87話 幸福な姉と(9)

30分もあれば御剣さんを姉さんのもとに連れていける。

訳も分からず嫌悪感を滲ませた彼女は少しずつ意味を理解して、その表情は困惑に代わっていく。


「なんのつもりだ、ユミカちゃん」

「……私たちはまだ、あなたに謝ってもいないんです」

「だからなんだ?……今更謝られたところで、そんなものをどうして信じられる」


そう言いながらも抵抗を見せないのは彼女が寛大だからなのか、もうなにもかもを諦めているのか、それとも……


考えれば考えるほど彼女が被害者であるのだと強烈に意識してきて、肺が苦しい。


胸に手を当ててうずくまる私の頭に、彼女はそっと手を置く。


「……君はそんな顔をしなくてもいい。これは、私とアミの問題だ」

「私がきっかけになったことです」


思い返せばすべての発端は、私が姉さんにリルカを使ったあの瞬間だった。

あのときから姉さんとの関係は変わっていった。

あのとき姉さんに何があったのかは分からないけど、でも、もしもあれさえなければ今、ここには幸福があったのかもしれないんだ。


「本当は、あなたに罵倒されたっておかしくない」


だからそんな風に思う私に、彼女は何かを感じたのだろう。

いくつかの言葉を取り消すような沈黙ののち、ぽつりとつぶやいた。


「君は…………真面目な子だね」


―――それからはもうふたりとも黙り込んで電車に揺られた。


そして姉さんの待つ私の家にたどり着いたころ、リルカの効力が失われるのが分かった。

だけど御剣さんも、この期に及んで帰ってしまったりはしない。

私は彼女とともに玄関を開いて。


「おか―――」


そこにいた姉さんが、隣り合う私たちを見て硬直する。

手の中でもてあそんでいた折り畳みバッグを取り落として呆然と立ち上がったその姿からは、まるで幽霊でも見たような疑念と恐怖を感じた。


だけど私も、姉さんの様子にたまらない不安を覚えた。


料理の匂いのしない家―――は、まあ、いつ帰るとも言っていなかったからいいとしても。

姉さんの持っていた折り畳みバッグ。

私が買い物に使ったもの。

それを片付けもせず手に持っていた姉さんは、いったい、いつからそこにいたんだ……?


「ゆ、ゆみちゃん?なんで?どうして、」


ふらふらと後ずさりながらこぼれる問いかけ。

私は疑念を振り払って、このままどこかに逃げて行ってしまいそうな姉さんに駆け寄る。

その手を取ったとたんに姉さんは崩れ落ちるように座り込んだ。

見上げる視線が震えて、にじんだ瞳がゆらりとこぼれていく。


「どうして、どうしてこんな、ゆきのを、いやよ、わたしっ」

「まだ姉さんは……私たちは、謝ってないから。だから、謝るために、来てもらったの」

「あやま、る」


人を傷つけた人が、傷ついてしまった人に対してできることは本質的には存在しない。先輩はそう言った。

だとしても私は、それでも謝罪というのは絶対しなければならないことだと思う。たとえそれが自己満足であったとしても。


だからこうして姉さんのもとに御剣さんを連れてきた。


私も姉さんも、まだ、御剣さんにひとことだって謝っていないんだ。


「でも、わたしは、私はユキノに、ユキノに、嫌われたのよ……?もう、私がなにを言ったって、ユキノは……」


うなだれた姉さんが、言葉を途切れさせる。

落ち込んでいるのだと思った。

事実、自分の言葉が舌を傷つけたのだろう。血を吐いてしまいそうに食いしばる姉さんの顔は、見ていられないくらいに悲痛で。


だけど、それでも姉さんは顔を上げる。


蒼白になりながら、それでも、私の向こう、御剣さんをまっすぐに見つめた。


「―――そう、ね。ユキノ。私、あなたに……あなたに、謝らないといけないことがあるの」

「……聞こう」


振り向くと、御剣さんは剣呑な視線で姉さんを見ている。

お互いに、将来を誓い合ったはずの恋人同士が交わすべき視線じゃない。

そう思うのに、姉さんに押しのけられて取り残された私には、もうふたりに関わる権利なんてなかった。


ただただ、ふたりの姿を、見つめるだけ。


「私、ね。ずっと、ゆみちゃんのことを、ひとりの女の子として好きだったの」

「……」

「だけどあなたに出会って、ゆみちゃん以外にも好きな人ができたことが、信じられなくて。付き合っていくうちに、女性として……ゆみちゃんよりも、きっと、あなたのことを好きになっていた」


わずかな痛みが心臓を走る。

だけどそれだけだ。

出血さえもない。

しいて言えば、いますぐにでも姉さんを引きはがしたいくらいに嫉妬しているけど……でも、そんなことをしたって意味はない。そう思えるくらいには、まだ、理性はここにある。


「だけど、それでも誰よりも、妹としてのゆみちゃんは、大事だったから」


「……その区別がうまくつけられなくて、妹としてのゆみちゃんよりあなたを優先してしまうことが怖くて」


「ゆみちゃんを、もっと、女性として好きにならなきゃいけないって、そう思って……」


「だから、ゆみちゃんと……キスを、したわ」


「幸せだった」


「好きな人ともっと親密になることが、幸せでたまらなくて……」


「それはあなたとも同じだったの」


「でも、あなたを愛せば愛すほど、ゆみちゃんへの恋愛感情が、なくなっていって……」


「だから、もっとゆみちゃんを、愛したかった」


「そうして私は、ずっとあなたとゆみちゃんとを、都合のいい恋人にして……」


「不貞を、働いていました」


それは、ほとんどがホテルで御剣さんに言ったことの焼き増しだった。

だからまだ、終わらない。


「……この告白をした場に、ゆみちゃんに隠れていてもらったことを。あなたは、怒ったわよね」

「……ああ」

「だから―――ごめんなさい」


姉さんはそして、深々と頭を下げた。


「私は、ああすることでゆみちゃんを安心させようとしたわ。……あなたならきっと私を受け入れてくれるとそう思ったから。ゆみちゃんが、私たちの関係を壊したなんて思わないように」


姉さんの言葉が、重く鼓膜にへばりつく。

そんな理由だったのか、あれは。

姉さんは、そんなことを考えていたのか。


それなら、だとしたら、そんなの、大間違い・・・・じゃないか。


「それを裏切りと思われても仕方がないと思うわ……知られたらそう思われると、分かっていたつもりだった。……私はそれでも、あなたよりも、妹であるゆみを選んだのよ」


だから、ごめんなさい、と。


姉さんはまた、そう言って謝った。


謝罪を受けた御剣さんは天井を仰ぎ、そうして目を閉じる。


「……私にも、妹がいるんだ」


初耳の情報だった。

姉さんもそうだったのだろうか、動揺するような気配が背中でもわかる。


「正直姉妹仲はよくない。……というより、私があまり好きじゃない。話題に出したくないくらいにはな」


御剣さんに嫌われるってどんな妹だろう。

場違いにもそんなことを思う。

人とか殺してるんだろうか、その子。


「だから個人的にもユミカちゃんのことは大切に思っているし、仲のいいふたりのことが大好きなんだ」


ゆっくりと降りてきた視線が、私を見やる。


「ユミカちゃん。アミの謝罪を聞いてどう思った」

「ど、どう、とは」

「正直私は、『こいつこんなに人間関係不器用だったか……?』と心底から疑念を抱いている」

「えっ」

「……あー」

「ゆみちゃん?」


まじめな顔でそんなことを言う御剣さんと、うまく否定できずに微妙な声をあげてしまう私。

姉さんが疑問符を浮かべているけど、正直、全くその通りだと思ってしまった。


なんで?

と、ホテルに呼び出された時もそう思った。

どうしてあんな風に御剣さんとのいちゃいちゃやりとりを聞かせてきたのか正直意味わからなかったし。

そのあと御剣さんが協力してくれる云々と言っているのを聞いて、たぶん私のために何かを考えているのだろうとは思った。ひたすらに姉さんは私を愛してくれているとそう分かったから、それでいいと思っていた。


だけど、まさか安心させるためだったなんて。


思いもよらないというか、なんというか。

たしかにあのまま私の関与しないところで別れたりなんかしたらかなりショックではあっただろうけど。でも、それにしてもやり方がどうかしている。

御剣さんと上手くやれると思うなら、その仲良し姿を見せてくれれば私も気兼ねなく嫉妬できたのに。


とか。

まあ、うん。

思っちゃうよね……?


神妙な顔をしていると、御剣さんは姉さんをにらみつける。


「アミ。なぜわざわざユミカちゃんを隠した?別に同席させても問題はなかっただろう」

「だって、妹をあんなホテルに連れてくるなんてあなたになんて思われるか……」

「ならなぜラブホで会うことを指定したんだ」

「防音が効いているから内緒話にはピッタリって……」

「君は組織にでも狙われているのか????」


額に手を当てて溜息を吐く御剣さん。

その一方で、私は唖然としている。


姉さんってこんな、え、姉さんってそんな天然キャラだったっけ……?


「君の考えは読めなさすぎる……いつものことだが」

「待ってください。え。姉さんって御剣さんと一緒だとこんななんですか?」

「わりと」

「わりと……」


その真顔での『わりと』は実質いつもこんなのって言ってるようなものだ。

嘘だろう、と衝撃を受ける私に追い打ちをかけるように、御剣さんはまた大きくため息を吐いた。


「今度ばかりは本当に君を信じられなくなりそうだったぞ……」

「……仕方ないわ。私は、こんなにひどいウソをついたのだもの……」

「多分君の思っている嘘と私の理由には乖離があるのだろうな」

「あの、御剣さん?じつはこういうことって普段から結構あったりします……?」

「ここまでひどいのは初めてだが……まれによくある」


ついついオクシモロンが飛び出すくらいにはよくあるらしい。


「だからコミュニケーションをしっかりとる癖がついてしまったよ……もっとも、今回はあまりの衝撃に我を忘れていたが」

「そういう理由で……」


なにかと話をしようとする彼女の対応は、そういうところから来ていたらしい。

納得感とともに、もしかして今分かりにくいノロケを聞かされているのかと思えてくる。


「っていうか、じゃあなんですか。まさかのうのうと元鞘に戻るつもりじゃないでしょうね」

「いいや。私は冗談で別れを切り出したわけじゃない」


あっさりと否定されて、拍子抜けする。

なんだかぬるっと姉さんを許しているっぽい彼女は、てっきりそのまま姉さんとまたやり直すものだと思っていたのに。

姉さんは私とは違うらしく、御剣さんの絶縁宣言にしょんぼりと落ち込んでいる。


かと思えば。


「ゆえに、だ」


御剣さんは姉さんの顎をクイッと上げて、そのまま無駄にいい顔で笑う。


「アミ。君ともう一度、初めから出会いなおしたい」

「ユキノ……」

「今回のことで、君のユミカちゃんへの強い気持ちはよく分かった。君がすべてに折り合いをつけられるまでは、恋人ではなく―――君を好きな一人の女として、君とともにありたい」


なに言ってんだこいつ。


とそうシラけたのは私だけだったようで、姉さんは感動的な声を上げている。

死ねよバカップル―――っと。ちょっと呪詛がこぼれた。なんで実の姉がほかの女に甘い顔してるのを見なきゃいけないんだ。こちとら妹ぞ。おん?未来の義姉だか知らないけど血縁関係に勝れるわけないだろこのやろう。


あー、むしゃくしゃするっ!


「だったらふたりは今どっちもフリーってことでいいんですよねぇ……ッ!」


私はリルカを取り出した。

ぱぁと表情を輝かせる姉さんと、いまだにちょっとシステムがよくわからないらしく顔をしかめる義姉さん(未定)。


私を差し置いて手のひら返しのハッピーエンドに落ち着きやがったふたりとも、まとめて相手してやる……!

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