第86話 幸福な姉と(8)

結婚さえ約束した恋人にフラれた姉さんは、少し活気がなくなっていた。

それだけだった。

少しため息が増えて、たまにチャットアプリを開いたり閉じたりする。それくらい。それ以外は、あまりにも、姉さんだった。


ゆみちゃん・・・・・、おかえりなさい」

「うん。ただいま」


姉さんはまだ夏休みだから、私が帰ると笑顔で出迎えてくれる。


「これ、頼まれてたやつね。あとアイス買っちゃった」

「あら。いいじゃない」


学校帰りのおつかいが入った折り畳みバッグを渡す。

中をのぞいた姉さんはにこやかに笑って頭をなでてくれた。さすがはお高めのアイスだ。

抱き寄せて肩を抱いてくれる姉さんと一緒に、今日学校であったことを話しながら、いろいろと冷蔵庫にしまった。


それから私は姉さんに言った。


「あのさ、今日夜ご飯遅くてもいい?」

「どうしたの?」

「ちょっと今からお呼ばれしてて……多分ちょっと時間かかるんじゃないかな。あ、姉さんは先食べてていいから」

「そぉう?いいわ、待っているから。出来立てのほうが美味しいでしょう」


にこやかな笑みとともに額にくちづけをくれる。

唇を引き結んで、私も笑みを返した。ほんのわずかに疼く唇を、なるべく意識したくなかった。




あの日、御剣さんと姉さんが本当に別れてから一週間ほど。

失恋の痛みを少しずつ受け入れる姉さんも、かなり調子を取り戻したころ。

それでもまだこれで終わりというわけにはいかないと、そう思ってなんども御剣さんに連絡を取ろうとはしていた。


それに一斉に既読がついたのが、今日のお昼のこと。

そして一言、まるで意趣返しでもするように、位置情報が送られてきた。


それは電車でいくつか行った町の、とあるマンションを示している。

いつか聞いたことのある町の名前だ。御剣さんが、一人暮らしをしている町だった。


「―――よく来たな、ユミカちゃん」

「お邪魔します」


エントランスのオートロックは無言で開いた。

だから怒っているのだとそう思ったのだけど、扉を開いた彼女はにこやかに笑っている。

薄ら寒いものを感じるのは、私の内面的な問題だろう。たぶん、いつもと変わらない、親しみ深い笑みだ。


彼女について部屋に入る。

なんとなくきっちりとしているイメージのある御剣さんだけど、部屋は案外ごちゃついている。汚いというほどではないけど、バッグがほかってあったり、ゲーム機の配線が目立っていたり。

部屋が狭いというのもあるんだろう。

1Kの七畳間。学生の一人暮らしと考えると、たぶん普通くらい。

シングルサイズのベッドに、なにか安堵する私がいた。


「アミも呼んだことがないんだ、実は」

「そうなんですか?」

「あまり逢引きには向かないだろう」

「でもうれしいと思いますよ、呼ばれたら」


狭くはあるけれど、だからこそ、そこに住んでいるという息遣いを強く感じる。

ここでこんな風に生活しているんだという想像が行き届く。

それをなんだか特別と思うのは、たぶん、姉さんも同じだろう。


例えば生徒会長さんがこんな感じの部屋に住んでいたら……うん。絶対通う。よすぎる。無駄に大きなベッドのせいで狭くて住みにくいっていう愚痴を聞いてみたい。


そんな妄想を繰り広げつつ、低いテーブルをはさんで向かい合う。

出されたウーロン茶で一服。


なんとなく、なにをどう言い出せばいいのかわからなくて沈黙する。

ウーロン茶だけは進む硬直状態。

彼女もなにも言わず、のんびりとお茶を飲んでいる。


けっきょくウーロン茶を飲み終えたころ、私はようやく口を開いた。


「どうして、姉さんと別れたんですか。それもあんな風に」

「……どうしてもこうしてもないだろう」


御剣さんの視線が、一息に研磨される。

それに身構える必要がないほどには、当たり前の怒りだった。


「私は、もう姉さんと普通の姉妹になりました。それでもだめなんですか?」

「そういう自己中心的なところはよく似ている。……もっとも、それを知ったのは最近のことだったが」


自嘲的に笑う御剣さんが、それから表情をゆがませる。


「どうやってアミをもう一度信じられるんだ」

「どういうことですか。だって、協力するって、そう姉さんに言ってたじゃないですか」

「その場にはッ! ……その場には君がいたんだ。私はそれを知らなかった」


それがなんだっていうのか。

私がいたらなにがいけない。


「あの言葉は全部、彼女の本心だと思っていた。彼女が打ち明けてくれた、彼女のもっとも内側にあることのひとつだとそう感じた。だからそれを受け入れた。私は、それを彼女からの信頼なのだと思ったよ。思っていたんだ」


彼女はそれを過去形に置き去りにする。

じくじくと這い上がる不快感が喉を浸している。

その理由がわからず困惑する私に、御剣さんの泣きそうな表情が向けられた。


「だがどうだ。あれは、全部結局は君に向けられた言葉だったんじゃないか」


―――なにを言っているんだ。


ひどくシンプルにそう思った。


この人は何を言っている?

あの時あの場所で姉さんの言葉を受け取ったお前が、なぜそんなことを口にできる。

不思議で不思議でたまらない。

確かに私はあの場所にいた。それはゆるぎない事実だ。

だけど、だけど姉さんが、そんな嘘みたいな、騙し討ちみたいなことをするような人間だと思っているのか、こいつは。


「君たちは、私をどうしたいんだ。都合のいい傘にでもするつもりだったのか?だが、だったらなぜ別れるようになんて迫った?理解ができないんだ、君たちのすべてが」


理解できないのはこっちのほうだった。

そんなわけがない。

姉さんは、だって真剣に御剣さんのことが好きだった。

だから形を変え始めた私との関係に悩んで、それに決着をつけた今、姉さんはただ御剣さんとだけ『恋愛』ができる。それの何が不満なんだ。


「み、つるぎさん、は。……姉さんのことが、……嫌いになったんですか?」

「そんなわけがないだろうッ!」


訳も分からず問いかけて、だけど返ってきたのはひどく感情的な言葉だった。

じゃあ何でこんなことになっているんだ。

姉さんのことが好きで、姉さんも好きなんだから、それで幸福なんじゃないのか。


「だが、だがアミはそうじゃないんだろう……? アミは、私のことを、元から恋人だなんて……」

「ど、どうしてそうなるんですか!」


それはもはや悲鳴だった。

意味が分からない。

どうして、姉さんに好きと言われてきたはずの彼女が、それを疑える。

理解できない。


「姉さんはあなたのことが好きなんですよ! わた、私が嫉妬するくらいにっ! もしも恋人としてなら、私なんて絶対に及びもつかないくらいに!」

「どうしてそんな風に思えるんだどうして! 私に縋り泣いたのだって結局ただの言い訳だったんだろう? あの後ふたりで私を笑っていたんじゃないのか?」

「意味が分からないッ! なんでそんっ! そんなことが言えるんですかッ!」

「意味が分からないのは私の方なんだよ……ッ!」


項垂れる彼女に、私の脳はますます混迷を極めていく。

なんなんだ、なんで、どうして。


どうして、好きを疑えるんだ。


ふたりは恋人じゃないのか?

好きあって、そうしてふたりで一緒にいられたらそれが幸福で。

だから、もっと近くにいるという明確な形が欲しくて結婚なんてするんじゃないのか。

それなのにどうして、どうして姉さんをこんな風に疑える?


「私はっ。関係の維持にはコミュニケーションがとても大切なことだと知っている。すれ違いも仲たがいも、会話ひとつで解決することだってある。だが、だがそもそも根底である会話さえも疑い始めたらもうどうしようもないんだ……アミの言葉を、もう、私は信じられないんだ……」

「どうしてですか? だって、だって好きなんでしょう? 姉さんもあなたが好きで、それでいいんじゃないんですか……?」

「その好きが信じられないと言っているんだ、私は」


どうしてと。

さらに言葉を続けることが無駄なのだと気がつく。

根本的に違うのだと、そう、今更になって理解する。


―――彼女は好きを疑える。


それは、私にはまるで理解のできないことだ。

嘘の好きなんて理解ができない。

自分からも、相手からも、それを疑うという価値観が理解できない。


だけど、だけどでも、この世には確かにいろいろな関係があって。

恋人や結婚した同士でだって、うまくいかないことはある。

だから、納得はできる。


世界は、好きを、疑える。


疑って、受け入れられなくて、やがて死ぬ。

そんな絶望的な空虚が、確かにこの世界にはあるのだろう。


ああ。


だから。


だから姉さんは、姉さんは、御剣さんに連絡を取ろうとしないのだろうか。

もうなにを言っても通じないとそうわかっているから。

姉さんは、そんな好きがあることを……そうやって好きがなくなってしまうことを、知っているから。


「なんですか、それ」


私の望んだ、これが結末か?

どこに幸福なんてあるんだ。

姉さんと御剣さんの、どちらも傷ついて、それだけじゃないか。


「そんなの、おかしいですよ」

「……君からはそう見えるのだろう」


冷ややかな拒絶。

私を、会話さえ成立しない相手と断ずるかのような苦痛にゆがんだ表情。

価値観の差異を受け入れられないことへの自責と、そしてたぶんこの数日で思い悩んできたたくさんの感情の累積……そんなものが、彼女を押しつぶしている。


そんなこと、望んでないのに。


私は確かに嫉妬した。憎いとさえ思う。あのとき、彼女に私と姉さんの関係が露見した瞬間私はそれをうれしいとさえ思った。


だけど、その喜びを嫌悪できるくらいには、御剣さんのことだって…………嫌いじゃ、ないんだ。


姉さんの恋人として―――結婚するのなら、それを後押ししてあげたいと思えるくらいに。姉さんの幸福にあなたが必要だと、そう認めてしまうくらいに。


そんなひとを、どうしてこう傷つけることしかできないんだ。


「……御剣さん」


考えることさえ、できない。

考えてどうなる。

傷つけた人のためにできることなんて本質的にはない。


それでもしなきゃいけないことはあるんだ。


―――私はリルカを取り出した。


彼女の30分を買収するために。


だって、しなきゃいけないことがあるんだ。


人を傷つけてしまった人には。


しなきゃいけないことが。

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