第85話 幸福な姉と(7)

私という存在がいなくなれば姉さんは御剣さんとともに幸せになれるだろうか。

答えはたぶん否だ。

姉さんにとっての幸せに私がいることは確定している。

私たちが姉妹であるという事実だけさえあれば証明すべき余地もない。


じゃあこのまま姉さんと姉妹であり続けて、今のように身を焦がす熱情を姉妹愛と呼んで―――そうして姉さんは幸せになれるだろうか。


答えは、否だ。


姉さんは私を愛してくれている。

妹として、誰よりも概念的に近しいモノとして、特別に、格別に、さながらそれが人生そのものであるかの如く、愛してくれている。恋人を愛することよりも優先し、恋人を愛することを恐れるほどに。


であればこそ、姉さんにとって私は妹であり続けてはいけないのだ。


近く、特別で、格別で、さながら人生の如くに愛する他人など、あまりにも不健全な存在ではないだろうか。

それを至上とし、それを最愛としなければ人生さえも愛せないような存在を愛と呼べるのか。いっそ依存心にさえ似た姉さんのその感情を、本当に愛などと呼べるのか。


私は姉さんを姉さんだから愛している。

生まれた瞬間から姉さんは姉さんでしかなく、だから姉さんとは初めから姉さんで、そうでない姉さんを知らないから、それ以外に愛し方など私は知らない。

知らない人をどう愛せばいい。

たとえ恋人のようにふるまっても、たとえ、たとえ姉さんと肉体関係を持ったとしてもだ。

それは姉からほかの何かに変わった訳ではない。変わる余地などない。なぜならそこに至るすべては、そしてその結実された関係は、それでも姉妹だからだ。


私はそれを姉妹愛と呼ぶ。

恋愛とも性愛ともなんとでも呼んだっていいだろうけど、でも、姉さんに向けるそれは、その時点ですでに姉妹への愛なのだ。


だけど姉さんは違う。


姉さんは、初めから私の姉さんじゃなかった。

満年齢にして五つの差、すでに自我を獲得し始めた姉さんにとって私は、最初からその傍らにいたわけじゃないんだ。


妹が生まれた瞬間から、人は姉になれるだろうか?


そんな疑問には一考の余地さえない。だってなれるわけないだろう・・・・・・・・・・

人間としての言葉さえ通じず、自分よりなお理性がなく、その上絶対的存在であったはずの両親の寵愛を受けとる小さな生き物。ふたりの母親の片方の腹を以上に膨らませてでてきたなにか。

そもそも妹という概念さえ不確かだったのかもしれない。

血のつながりなどという要素をどうやって理解できる。

それは他人でさえなく、まるで動物園に見る小動物のような、そんなまったく異様な存在だったのではないだろうか。


姉とは、いったい、いつから妹を妹として理解できるのか。


同じ人間であるという気づき、お姉さんという自覚、自分が同じ愛情に包まれてしかるべき存在であるという理解―――それらはいったい、どのタイミングで生着するものなのだろうか。

それは分からないけれど、でも、まず間違いなく言えることがある。


姉さんにとって、私は、妹でなかったことがあるのだ。


私は姉さんしかしらないから、だから姉妹愛を当然に受け入れられる。

だけど姉さんは、妹以外を知っている。

自分のものだった両親、異物、わけのわからない生き物、愛の侵略者、小さい被愛護者、他人―――その時々に抱いた嫉妬や不可解、そして愛の経緯は、姉としての姉さんを形成するための部品ではあっただろうけど、でも、姉としての姉さんが歩んできたものじゃない。


姉さんは私を、世話のかかるペットのように愛したのかもしれない。赤子を愛護するという至って自然な情動でもって愛したかもしれない。同じ場所に住む仲間として愛したかもしれない。その家に住む先輩として愛したかもしれない。


それらを姉妹愛と呼ぶのは後付けだ。

私たちは姉妹だから、それは姉妹愛と呼ばれるのだ。

姉さんにとってそれらは、本来、妹である前の、他人に向けられていたものなのだ。


私が姉さんを姉さんと思うようには、姉さんは、私を妹とは思えない。


だから私は、姉さんの妹であり続けてはいけない。

それを押しつけることはすなわち姉さんの気持ちを抑圧することだ。

そんな一方的な関係を幸福と呼べるだろうか。呼んでたまるか。


―――姉さんの幸福について考えたのだ。


姉さんが、自分の気持ちを隠しも、押し込めもせずに。

ただただ思うように笑って、愛して、そう居られる方法を考えたのだ。

その前提を、いもうとという存在が揺るがしていた。

妹に姉ならざる情愛を注ぐその実情がすでに、幸福からはあまりにもかけ離れている。


だけど姉さんは、私を大切と思ってくれるから。

姉としても、大切と思ってくれるから。

それがつまり、姉さんの混乱なんじゃないだろうか。


わたしを大切に思うこと。

これは特別だと、そう自惚れたってきっと間違っていない。


由美香わたしを大切に思うこと。

だけどこれは、御剣さんへの思いと競合できてしまうもので。


それらは全くの別物だけど、でも、どうしたって同一人物への思いだ。

特別と特別じゃないものを、どうやって区別できるっていうのか。


考えたんだ。


そしてそれは、とても簡単なことだった。


あまりにも、簡単なことなんだ。


「だめ、よ、」


姉さんは言った。

予想通りに。

私を。

拒絶した。


「わたし、には、好きな人が、いるの」


子宮が、痛い。


目の前の人のために熟れた熱の塊が剥がれて、くらりくらりと、視界が眩む。

ああこれが喪失なのかと、そんな理解が落ちてくる。

姉さんから初めて受け取る拒絶が、抱きしめる腕を、胸を、お腹を、顔を、容赦なく焼いていく。


「だから、」


でも、これが私の思いついたたったひとつの方法だった。

こうして由美佳わたしと、ケリをつけてしまえばいい。

そうして失った場所が由美香わたしだったのだと、振り返って思い出せばいい。


そうしても、わたしへの愛は揺るがない。


私はそれを信じている。

そして。


「だから私、ゆみを、恋人にしてあげられないの」


言葉を続けるたび、姉さんも静かにそれを理解していく。


ふたつの気持ちによる摩擦が、緩やかに、なくなっていく。

妹じゃない私への気持ちが、少しずつ、折り合いをつけていく。

姉さんの目が、姉さんに、なっていく。


これできっと、姉さんは幸せになれる。


私と御剣さんと、ふたりへの全く違う愛を、ちゃんと区別できる。

私はちゃんと、特別で。

姉さんにとって、唯一で。


そう、なれる。




「―――君は」


私たちの終の儀式に、邪魔者が割り込んでくる。

姉妹そろって視線を向けると、彼女は、御剣さんは、静かに私を見ている。


「君は、どうして私とキスをした」

「え」

「どうして写真を撮影し、それをアミに送った?」

「……」


どうしてと。

問われるまでもないことだ。

ただの嫉妬。

姉さんが他人に取られようとしているとそう思ったから、だから腹が立った。

いやがらせだ、ただの。


だけどそんなことには本当は意味はなかった。

御剣さんと結婚しようが、姉さんは姉さんだ。

私のことを特別に愛してくれる。それ以上のことなどない。


―――だから、聞かないでよ、そんなことを。お願いだから。


「私には君たちのやっていることがうまく理解できない。なにかとても大切な意味があるのだろうとは分かる。しかし、いったいどういう思いで、どういう結果のためにやっているのかは全くわからない」

「だったら口を挟まないでください」

「それでも口を挟まなければいけないことくらいは分かる」


彼女の視線が、鋭さを増して私を射抜く。

まるでそれは、敵を見るような視線だ。


敵。


今まさに敵でなくなると理解していないから、そんなことができるのだろう。

教えてやる義理もない。

あとで姉さんからゆっくりと聞けばいい。


そう思って逸らした視線の先で、だけど、姉さんは呆然と御剣さんを見つめている。


それだけで、私はもうどうしようもないのだと気が付いた。


「ユミカちゃん。なぜ、写真をアミに送った」

「だからっ。嫉妬のせいですよ!それがなんだっていうんですか!」

「嫉妬して、だからなにをしようとしたのかと聞いているんだ」


なにを?

問いかけの意味が理解できなくて、動揺する。


「恋人の不貞をでっちあげようとしたのか?それとも当てつけのつもりか?」

「それは、べつに、ちょっとした嫌がらせですよ」

「なぜだ?そもそも私は君たちがキスしているのを見たんだぞ。あの時君は笑っていたじゃないか。それなのに、どうしてわざわざ私に接触する必要があったんだ」

「どうして、って」


御剣さんが、姉さんのことを受け入れてしまったからだ。

そんな当たり前のことをなぜ問うのかと疑問にさえ思って、だけど、気が付いた瞬間に血の気が引いた。


「君は―――あのときもここに、いたのか?」


御剣さんの、核心に迫る言葉。


そうだ。

いた。

だけど、でも、御剣さんはそれを、知らない。


「そ、れがなんだっていうんですか」

「……アミ」


問い返す私には応えず、御剣さんが姉さんを呼ぶ。

それだけで姉さんは青ざめる。


私にはわからない何かを、姉さんは、理解した。


「君の言ったとおりにしよう」

「待って、ユキノ、あれは、私、ちがうのっ」

「さようなら、だ」


最後にそう言い残して。

そして彼女は去って行く。


私の目指した姉さんのための幸福は、ひどくあっけなく扉を閉ざした。

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