第83話 幸福な姉と(5)

どうして。


と。

姉さんは、問いかけることをしなかった。

ただただ、ながく、ながく、口づけて。


ようやく口を離した姉さんは、それから私の胸で泣いた。

姉さんと違って縋り応えのない胸だから、少しだけ申し訳ない。

それを補うわけじゃないけど、私はできるだけ姉さんを包めるようにと、身体を丸める。


「姉さんさ、御剣さんと別れなよ」

「……ゆみ」


顔を上げようとするのを、無理矢理に抑えこんで。

顔を見られないように、押し付けて。


「あんなの姉さんにはいらないよ」

「どうして、そんなこと言うの」

「だってそうでしょ。私さえいればいいよ。姉さんは、私だけのものでいなよ」


耳介に触れる。

溶かしこむように、唾液をこぼす。

溺れるように、耳をふさぐ。


「もう姉さんはなにも悩まなくていいの。私のことを好きなだけでいいの。それって幸せなことだよ。だからあんな邪魔者捨てちゃおうよ。いいでしょ?妹のおねだりだよ。ふふ。姉さんは、私のおねがい、絶対拒んだりしないもんね」


今まではそうだった。

姉さんは私に甘くて、なんだかんだ私の全部を受け止めてくれる。

だって姉さんにとって私は唯一だったから。

姉さんの好きは、私だけだったから。


だからこそ。


今は違うことくらい、私は、知っているんだ。


「ごめん、ごめんなさい、ゆみ」


姉さんは言う。

どう受け止めても、拒絶以外のなんでもない謝罪を。

当たり前のことだ。

姉さんには今、御剣さんがいる。

それだけのことなんだ。


「―――じゃあ、いらないよ」

「え」

「だってそうでしょ。なんで私くらい大切な人がほかにいるのに、そんな人愛してあげなきゃいけないの」


姉さんを無理やり引きはがす。

突き飛ばして、床に落とす。

むりやりに扉を開いて、動けもしない姉さんを置いて外に出た。


それからの記憶は断続的だった。


歩いていた。


公園にいた。


トイレにいた。


嘔吐した。


また歩いていた。


歩いていて。


だれかが声をかけたのだ。

多分女の人。男の人だったのかもしれない。

知らない人だった。

そこに誰かが割り込んで。

そうしたら、なんだか、安心して。


そして?


そこからの記憶がない。

今は、今はなにか、知らないところにいる。

ベッドだ。

寝かされていたらしい。


「やあ。おはよう」

「おはよう、ございます……?」


振り向くとそこには、先輩がいた。

反射的に挨拶をして、ああ、と納得する。

彼女が見つけてくれたのなら、安心もするはずだ。

自然と笑みが浮かんで。


―――そして私は、再び嘔吐した。


胃から押し出される汚物が喉を焼く。

口内が不快の味に犯される。

寒いのに、熱い。

このまま死んでしまうのかと思った。

死んでしまえと思った。


だけど、力強いぬくもりに抱きしめられて。


それで、だから、まあ、いいかって、思った。




「ごめんなさい、いろいろ汚してしまって」

「いいんだよ。ユミカのモノなら歓迎さ」


安心させるように冗談を言ってくれている―――ということにしておきたい言葉とともにあまりにも爽やかな笑顔を向けられる。最悪なのは、先輩にそう言われるのはどこか心地いいという事実だ。

そういう趣味はないから、進んでやろうとは思わないけど。


苦笑したいのに緩む頬を隠すように、湯に沈む。

布類を手早く処理して身体を清めてくれた先輩は、今は一緒にお風呂に入って温めてくれている。


またひとつ、安らげる場所に気がついてしまった。


先輩には甘えっぱなしで、なんとも申し訳ない気持ちだ。


「それで、今度はどんなお悩みかな。先輩が聞いてあげよう」


私を後ろから抱きしめた先輩が、にこやかな笑みでのぞき込んでくる。

ふいに顔が近かったから、つい、くちづけた。

ついさっきまでゲロを吐いていた口だったから、すぐにしまったと思うのに、先輩はためらわず舌をくれる。

や、ちゃんと歯磨きはしたんだけどね。

それでも本当に先輩はすべてを受け入れてくれているのだとそうわかって、頬がさっきからゆるみっぱなしだ。


余韻まで楽しむようにキスを味わって。


それから私は、少しはほぐれた舌を操る。


「―――私、姉さんにひどいこと言ったんです」

「アミさんに、かい?キミが言うくらいなのだから、本当にひどいことを言ってしまったんだろうね」

「……いらないって」


私が言うと、先輩は顔面蒼白になって湯に消えた。


「せ、せんぱい!?」

「あ、あはは。すまない。つい自分がそう言われたらと想像したら悪霊になるところだった」

「死さえ通り越して」


それほどまでにひどいことを言ったのだという自覚が、肩にのしかかる。

そんな私を、先輩はぎゅっと抱きしめてくれる。


「本心では、ないんだろう?」

「それはそうなんですけど……でも、もしかしたらそうじゃないかもしれないんです……」

「ふむ?」


さわさわと私の胸をもてあそびながら聞き返される。

先輩に触られるとさすがに変な気持ちにならざるを得ないから、なるべく意識しないように言葉に集中する。


「私、言おうとしたわけじゃないんです。それなのに勝手に口から出たっていうことは、つまり、心の声だったんじゃないかって」

「なるほど」


むにむに。

いじいじ。


「そりゃあ、姉さんに嫌われるっていうのは考えたんですよ?そしたらきっと丸く収まるって。だけど、でも絶対イヤじゃないですか。生きてけないですし。なのに、いらないって。そんなわけないのに」

「そうなんだね」


もぃもぃ。

ふにふに。


「あの。そろそろやめません?そういうのは付き合ってからのほうがいいと思うんです」

「どういうことかな」


つんつん。

くりくり。


「お、おっぱいはおもちゃじゃないんですよ」

「おもちゃだなんて思っていないよ。遊びだなんてとんでもない。ボクは本気さ」

「それはそれで……あの、お願いですから」

「ふふ。分かったよ」


す、とあっさり離れていく先輩の手。

それから先輩は、ふぅ、と吐息した。


「ユミカ。たとえば、だ」

「は、はい」

「もしもボクがそれを―――キミの本心だとそう言ったら、どうする?」


彼女の腕が、優しい抱擁ではなくなる。

首筋にかかる吐息に、きらめく牙を幻視する。


「キミはもうアミさんなんてどうでもいいと思ってしまったんだよ。ほかの女のものになった奴なんていらないのさ」


先輩の言葉が反響する。

お風呂の水が凍り付いて、肺がひれ伏す。


言葉は自然に出た。


「そんなの、いや、です」

「それが答えだろう」


あっさりと解凍されて、私は自分がちゃんと芯からぬくもりに浸っているのだと思い出した。

たったひとつのやりとりで、どうやら私の不安はどこかへ消えてしまったようだ。


「誰しも、感情が高ぶってしまうときはあるのさ。嫉妬っていうのは厄介なものだね。キミはたぶん、自分を切るのにためらいがないからそんな言葉だっただけで」

「切る……?」

「キミ、姉離れをしようとしたんだよ」

「え」


姉離れ。

いまいち現実感がない言葉だ。

そんな概念がこの世にある意味さえ理解できない。


でも、それなのに、すとんと落ちた。


「どちらかというと、妹離れさせようとしたのかな。キミはもっと自己中心的になってもいいと思うのだけれどね」

「私かなり自己中だとおもいますけど……?」

「全員抱いてから言ってくれよ、そういうことは」


先輩の自己中基準どうなってるんだ……。

でも冗談でも誇張でもない本心だと伝わってきて、何とも言い難い。


代わりに、私は先輩に問いかけた。


「だったら、どうすればいいんでしょう、私」

「それはボクが教えられることではないね。キミに分かることでもない。誰かを傷つけたときにできることなんて、その人のためになにをすればいいのかと悩むことだけさ。……ボクは、ずぅっと悩んでいるよ」


先輩の呟きが、少しだけ、痛い。

そんなことないのだと伝えたくて、振り向いた。

だけど優しい笑みは、柔らかに私を拒絶する。


「キミは優しいからね」


もっと自己中心的になってもいいというのはきっと、こういうことなのだと。

そう理解して、だから、それ以上のことは言えなかった。


ただ黙って先輩の胸に寄り縋る私に、彼女の言葉が降ってくる。


「この前、アミさんと車の中で話していたんだよ」

「……プールのときですか?」

「そう。恋人と真剣に結婚を検討しているらしいね」

「はぁ……はぁ?……はぁあ!?」


衝撃の言葉に立ち上がろうとするけど、むぎゅっと押さえつけられる。

え、待って。待って。なに?結婚?

うそでしょ本気で……?


「だからこそ、キミとの関係をどうするのかと悩んでいるんだってさ」

「関係って……」

「ああ、違う違う。キミと離れることは少しも考えていなかったみたいだよ。むしろどうすればキミと一緒にいられるのかって、そっちの方を悩んでいたようだね」


先輩の言葉に、あの日・・・の姉さんの言葉を思い出す。

御剣さんのことを大事だと、私と同じくらいに大事だと……そう語った言葉。

私をもっと愛さないと、一番に想い続けられないと泣いた姉さん。


姉さんにとっての唯一だという幻想が打ち崩されて、それは私の立っていた足場そのもので、だから落ちて、落ちて、落ちて、落ちて―――


だけど。


だけど姉さんは、その未来を常に、そうはしたくないと言っていた。


「結婚して、例えば子供ができて。ユミカが結婚して……そんなずっと未来まで、ユミカの一番近くにいるためにはどうすればいいか。正直ボクなんかじゃまともに答えられなかったけれど、アミさんはそんなボクにさえ問いかけるくらい、なりふり構わず悩んでいたらしい」


あきれのような、羨望のような、そんな表情で先輩は笑む。

かと思えば一転表情を厳しくして、私の瞳をのぞき込む。


「だけど、それでキミをこんなにも傷つけるくらいなら―――ボクが貰いうけると、ちゃんとそう言っておくべきだった」


ちゅぅ、と唇を吸われる。

姉さんとのキスでさけた傷。

上書きするように強く。


「今からでも遅くはないかな、ユミカ」

「それは……まだ、ちょっと」

「そんなことを言われると期待してしまうね。……ふふ。悪い子だ」


ちゅ、ちゅ、と幾たびも重なるくちづけ。

いつもよりも熱くて、蕩けて、甘い。


こういう思わせぶりな言動はいけないとそう思うのに、先輩に甘やかされると、どれだけでも溺れたくなってしまう。

いつか本当に、先輩にそそのかされるままに取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。


だけど今は。


「……私、姉さんにちゃんと謝ります」

「―――今ボクの前でほかの女に会う話した?」

「あぇ」


さっきまでの先輩ムーブはどこへやら。

親愛なる嫉妬の権化が顔をのぞかせて、私を拘束する。


……うんと。


に、二重人格かな……?

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