第 三 章 廻り出した歯車

第七話 目覚めの悪 夢

~ 2011年3月30日、水曜日 ~


 今日、俺は非番だった。

 記憶喪失になってからの俺に友達は一人も居なかった。

 作ろうともしなかった。

 唯ひたすら、パート・タイムに明け暮れる日々。

 休日は特にする事も無く怠惰な生活を送っていた。

 昔の俺はどんな風だったんだろう、友達は多かったのかどうか?

感慨な気分になっている訳ではないが、何故かそんな事を思ってしまった。

 たまに愁先生と休みが重なれば何処かへ出かける事も在ったが、楽しいと感じた事はない。

 唯一の救いは先生がちゃんとそんな俺の心境もわかってくれていた事くらいだろう。

 そういえば、三週間前、パート・タイムからへとへとに疲れて帰宅した俺に、愁先生からへんな注射をされたな・・・、たしか、

『お疲れのようですね。食事をする気は無いのでしょう?では、ビタミン剤くらいは投与しておきましょう』って。

 全然、俺の趣味には向かないHARD(High Amplified Response Digital media disk=高増幅反応ディジタル情報ディスク)でクラシックを部屋に響かせていた。

 簡単に想像できると思うが、先生の趣味さ。誰の作曲だっけかな・・・。

 俺はハードが納まっていたケースを手に取るとそれを持ったまま、ソファーへと体を寝かせた。

 腕を天井のほうへと伸ばし、そのジャケットを眺める。

 それにはJ・S・Bachと記されていた。で、ケースの裏を返して、今流れている曲の題名を覗いてみるとG線上のアリアって書いてある。

 俺は手ぶらな左腕を視線の上に掲げ、双眸の瞼を下げて、そのまま腕を置く。

 ぶらりとジャケットを持ったままの右腕はソファーの枠からこぼれ、床へと垂れていた。

 耳にしている曲の所為なのか、それとも唯、眠かっただけなのか、まだ、陽が南天もさしていない頃に、俺は微睡みに落ちていた。そして、再び、見なくなり始めていた悪夢が俺を襲う。

 出口の向こう側の空には蒼褪めた月が冷ややかに空を照らしていた。

 俺は息が詰まるほどの勢いで、心臓の鼓動が荒れ狂う胸を押さえ、その出口へ向かって走っていた。

 どれだけ走っても、その場所には届かず、無限に続く階段を駆け上っているかのようだった。

 俺がどんなに苦しがっても、走り続けるという酷使に俺の体が悲鳴を上げても、疾走はとまらなかった。

 俺の心がその場所に到るまで諦め様とはしなかった。

 誰かの声が聞こえる。

 俺に助けを求める叫び声が・・・。

 俺はその声を上げる人物を心底助けたいと、救ってやりたいと思っていた。だから、めげず、出口を求めた。

 聞こえる、アイツの声が、聞こえるカノジョの心痛の叫びが。助けたい・・・、絶対に救って見せたい。

 いつの間にか、階段を駆け上っていた俺は建物の屋上らしき場所に立っていた。

 四方を見回すと、どの方向も、距離が掴めないほどの闇が広がっていた。

 空を見上げると満月だけが俺の場所を示す。しかし、降り注ぐ、月光は俺の心と体を鋭く冷やす。

「シンジィイィイィィィイィイイ」

 俺の名前を呼ぶ声が再び、闇の合間を縫って、今居る場所まで届いていた。

「やっぱり、俺は慎治って名前なんだな・・・。た・・・カ・・・斗、いま助けに行くぞ・・・」

 誰かの名前を呟くと、声が聞えた方向へ、また走り出す。

 月の光が俺の背中を追う。

 不可思議なくらいに伸びる俺の影。

 その影の表情は俺の背中を見て馬鹿にする様に嘲笑している風に思えた。

 俺はその感覚に苛立ちながら、走る・・・、奔る・・・、・・・、・・・、はしる。

 俺の視界に徐々に冷たい感覚をこちらまで伝わらせる金属の棒が等間隔に立ち並んでいた。

 直立する棒の上を走るまた別の金属。

 その一角にしがみ付く人の手が見えた。

 その手を掴みたくて体の方向を若干修正して、更に足の動きの加速度を上げた。

 腕を伸ばせば、もう届く距離。

 俺は自分の腕を槍のように素早く突き出し、その手を掴もうとした。握り締めた。

 だけど、俺が掴んでいたものは虚空だった。

 両手で手すりを握り、全身をその外に出す。

 目を向ける方向は決まっていた。

 真下。

 顔の見えない二人が落ちてゆく、それを何が起きたのか判らない、とそんな表情で俺は下を眺めていた。

 いつしか、無理だとわかっている筈なのに、自分まで落ちてしまうのではないかと言うほど、身を乗り出し、片腕を重力に惹かれて行く、二人に向けて、伸ばしていた。

 届くはずが無いのに・・・。

 俺の腕は届かなかった。しかし、二人を追うように無数の雫が零れ落ちてゆくのが見えた。それは俺の悔し涙だった。

 二人が、落ちた場所を求めて、来た道を引き返す。

 屋上までの距離は長かったはずなのに、地上への距離は嘘の様に近かった。

 大地に降りた俺は茂みを掻き分け、二人が居るのであろう場所を探した。

 分けても、分けても、先の見えない鬱蒼とした場所。

 茂みを除ける度に、俺の心と体に痛みが走っていた。

 その痛みは次第に強くなり、その極限に達した頃、俺は茂みを抜けていた。そして、俺は目に見える光景に絶叫した。

 喉が潰れるほど、涙が枯れてしまうほど、それを流していた。

 悔しくて、悔しくて、己が赦せなくて、唯ひたすら、自分を責めた。

 自分の行動の軽薄さに・・・・・・。

 最後に負の感情を抱えたまま俺は闇に喰われて逝ったんだ。

 憔悴しきっていた俺が何時の間にか車に乗ってそれを運転していた。車外の状況なんて見えていない。

 逆走をしている事なんてお構いなしだった。

 警察車両の警報の音が俺を追っていた。

 昼間には映えない赤い回転警告灯が無感情に廻り俺の背中を照らしていた。

 俺はその追っ手から、逃れようとは思わなかった。

 だけど、アクセルペダルを踏む、俺の足は更に勢いづき、車を加速させていた。

 眼前の対向車をぞんざいに躱し、何処かの目的地へ、只管、走り続けていた。

 車が何かに接触するたびに、傷つく、車体。

 まるで、俺の心境を表すかのように、その傷は増えていった。

 それから、修理する事が無駄に思えるほど、ずたぼろになった車から降り、岬らしき場所を目指していた。

 間が抜けた林を過ぎるとそこは荒海の見える岬だった。

 先端の方には、空になった缶ビールのそれが弱い風に揺られ、すすり泣く様な音を立て、僅かに動いていた。

 その近場には携帯電話も一緒に転がっていた。

 寧ろ、不思議なくらい丁重に置いてあった。

 その置かれていたものに近づき、誘惑に負けた俺はその中身を見てしまう。

 俺にとってそれは将にパンドラの箱の蓋を開ける事と同じ様な物だった。

 絶望の重責に耐えられなくなった俺は彼女の携帯を握り締めたまま、岬の端に跪き、荒れ狂う、海面を睨め付けていた。

 夕暮れの中に響く潮騒。絡みつくような、潮風が俺の心の傷口に更に追い討ちを掛けようと吹き抜ける。

 海中から引き上げられた俺がこの世ではじめて好きになった彼女。

 不鮮明な彼女の姿を、どんな表情をしているのか朧気なその彼女を俺はきつく抱きしめ、空に顔を向け、彼女の名を叫び、雷鳴の様に泣き叫んでいた。

 突然、闇の中に俺独りが置かれた世界で、霞が掛かっていた様に見えなかった三人の顔が、今はっきりと見えた。

 初めに去った彼女を追って、生きる事を諦めた彼奴の死に顔も・・・。

 一人ぼっちの世界で、壊れかけた心、俺は喉が潰れるほどの叫び声を上げ、その狂音で耳がつぶれ、眼が溶け出るほどの涙を流した。

 そして、俺は遂に現実へと目覚めた。

 消してしまいたかった記憶とともに。

 寝ていた俺の上半身が跳ね上がる。

 思い出したくも無い記憶に苦しむ俺、無意識は血が滲み出るほど、頭に爪を立て、心の痛みを肉体の痛みで和らげようと動いていた。

 驚愕に引きつる俺の顔。

 立ち上がり、手の届きそうな天井を見上げ、耐えられない心の痛みが声となって当たりに伝播してゆく。

 その声量が部屋中においてある物、備わっているものを振動させていた。

俺の叫ぶ気狂いな音が開けっ放しだった外へと漏れていた。それから、俺の取った行動は・・・、その開放されていた窓の外へ走り出すことだった。

 宙に浮かぶ俺の体。

 翼があって空を飛べる訳じゃない。

 足を延ばせば届く場所に地面がある訳じゃない。

 重力に束縛された俺の体は今の場所から下へと引かれるだけだった。

 そう、記憶が戻った俺が選んだ道は生きる事をやめる事だった。

 記憶喪失だった頃の記憶もハッキリと思い返せる。

 どれだけ、姉貴や、妹、皇女母さん、愁先生が、他のみんなが俺の助けになりたいと望んでくれたか、どれだけ、俺に生きる希望を与えてくれようと努力していたのか。

 俺はそんな人達の思いを無駄にする様な行動を取った。だって、だってしょうがないだろう?

 俺は自分をこんな風に追い詰めちまうほど、奴等が、宏之、貴斗、藤宮、涼崎姉、隼瀬香澄が・・・、心底大事な友達だった。大好きだった。

 そんな、奴等の居ない世界なんて生きていても面白みなんか感じられねぇって知ってしまったからな。

 藤宮が言っていた『貴斗の居ない世界なら生きている意味なんて無いもの』と彼女が呟いた言葉の意味を理解した。

 同じ様な思いを持っていた宏之や隼瀬の思いを悟った。

 そして、何より、貴斗の自分にとって大切なものが失われていく感覚がどれほど、辛辣なものなのかをこんな状況下になって思い知らされた。

 何でもっと早く、貴斗の心の闇を知ってやれなかったんだろうって、慙愧した。

 どんなに悔やんでも、過去に戻ってやり直しなんて出来ない。

 そんな都合のいいこと現のこの世界ではありえない。だから、俺は現実に居る者達より、故人達のそばに行く事の方を願ってしまった。

 この火宅な世の中に居座り続けるのはもう俺には無理のようだ・・・。

「おれも、いまから、そっちにいくな。また仲良く遣ろうぜ・・・。お前たちと一緒なら地獄だって楽しく遣っていけそうだしな・・・」

 俺は時間の流れさえ忘れた自由落下中にそんな言葉を小さく漏らしていた。

 遠ざかる黄昏の太陽に染まる空。

 迫る太陽の恩恵を地下に沈めた大地。

 来たる俺の死。そして、俺は未練の無くなった世界の景色を、瞳を瞼で遮り見えなくした。


                *


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 俺は頭から落ちたはず、最初に痛みを感じるとしたら、その場所のはずだった。だが、背中に僅かな痛みが走っただけで、他には何も無い。

 俺は笑う、自分を嘲笑するように。

 瞼で遮蔽した瞳に再び、黄昏空の風景を投げ込ませた。

「十五階からだぜ。んで、しなねぇだよ。ころさせてくれなぇんだよ・・・。何で・・・、どうして、お前達のところへ逝かせてくれねぇんだ・・・うぅう」

 十字架のように広げた俺の腕。

 枯れると言う意味を知らない俺の涙が俺の頬を伝い、芝生の上に滴っていた。

 意識はあるだけど、体は動かなかった。

 俺の悪運の強さ。

 それは子供の頃から続くもの。

 その気運を誇りに思っていた。

 死なない自分が凄いと思った事も多かった。でも、今ほど、それを恨めしく思った事はない。

 柔らに枝を伸ばす名前なんか知るはずも無い高層集合住宅下の大樹、その上に俺は大の字に寝そべっていた。

 成人ほどの質量が落ちれば、身体はもっと枝奥まで減り込むんだろうけど、そんな格好で、樹木の天辺に落ちた様だった。

 騒ぎに駆けつけた、周辺の人々、その中の、誰かが救急車を呼んでくれたみたいだった。

 その車に担ぎこまれようとした時に、

「若いのにねぇ、なんで簡単に自殺なんて考えちゃうのかねぇ。命の大切さが分かっちゃ無いねぇ」

 そんな言葉が俺の耳に届いた。

 世間的な陳腐な言葉。

 確かに安易な気持ちで自殺を考える連中も居なくはないだろう。でも、それは当事者じゃない、本人の心境がわからないから口に出せる言葉だと、熟々と感じた。

 俺の考えも、正しいとは言えない。

 現実と言う苦しみから、逃げているだけだからな・・・。

 俺は救急車の後部扉が閉まり、サイレンがなり始めた頃に、意識を失った。

 遠くの方からの怒鳴り声が、俺の耳まで届いていた。

 俺はその怒声に落ちていた意識が眼を覚ました。

 それと同時に瞼で閉じていた瞳が視覚を取り戻す。

 視線の方向は天井を向いていた。

 身体に伝わる感覚から、ベッドの上に寝ている事が判った。視線だけを動かして、周りの状況を確認した。

 見たことのある部屋の作り、僅かに橙色を帯びた乳白色の壁と天井、山藍摺色のリノリウムの床。

 出入り口の扉は大きな把手のついたスライド式のものだった。

 ここは俺の知っている病院の何処かの部屋。

 徐々に怒声の大きさが上がっていた。近づいてきていた。それが、俺が居る病室前で、一定になり、相手を罵り続けていた。

 俺は閉じられている扉の向こうに向かって、聞えるように、

「佐京姉貴、止めろよ。愁先生を攻めるなっ!姉貴だって判ってるんだろう?どれだけ、先生が俺のことを心配してくれて、いろいろと手を尽くしてきてくれたのか?」

 扉向こうの俺の姉貴は、愁先生のネクタイを凄む様に強く引っ張っていた手を離し、扉を勢いよく開け、俺の所へ駆け寄って来た。

 顔を姉貴の方へ向けると、姉貴は自分の肉親に世辞なんか言いたくないけどな、整った綺麗な顔にある膨よかな唇をきゅっと噛み締め、切れ長の眼を細め、潤ましていた。

 目尻には零れ落ちそうな寸前の涙が溜まっている。

「しんじっ・・・」

 言葉と一緒に佐京姉貴は俺に飛びつき、俺を抱きしめる。

 その後、何度も、何度も俺の名前を呼んでくれていた。

「姉貴、そんなに胸を押し付けられると、息苦しいんだけど」

「黙れ、今まで散々心配を掛けさせてくれたくせに、姉である私にそんな口を聞くのか、シンジっ・・・」

 いい歳扱いて、この強気なブラザー・コンプレックスぶりは治る形跡なしか、まったく。

 俺は姉貴に抱擁されつつ、その胸の中で、重い溜息を吐いていた。

「佐京、嬉しいのは判ります。ですが、慎治君、怪我の方は有り得ないくらい、軽傷ですが、そのまま、貴女のその行為が続けば、窒息死してしまいますよ」

 愁先生は崩れ掛けたネクタイを締め直しながら、俺達姉弟の所に歩み寄ってきて、姉貴の肩を軽く叩いていた。

「すっ、すまぬ。本当にシンジが、記憶を取り戻してくれた事が至極、嬉しくて・・・、すまなかった。先程、愁に、あのような暴言を吐いてしまって、自分が凄く恥ずかしい・・・」

 愁先生は姉貴の言葉に、大人で柔らかい笑みで返答していた。

 で、その後、先生の顔を見た佐京姉貴は涙を白衣から取り出したミニ・ハンドタオルで拭い、顔を整えると、俺の方に向き直る。

 俺を見下ろし、威圧するような視線。

 姉貴の右腕が急に宙を上方へ向かって滑空し、その軌道が俄かに俺の頬へ迫っていた。

 激しい音が、この病室に響く。

 さっきまでの優しさを出していた姉貴が、急に厳しい姉貴に変わり、綴る言葉は、

「シンジっ!何故、現実から、逃げようとしたっ!何故、死のう等と思ったっ!お前の心の痛み、知らない訳ではないが、どんなに辛くとも、挫けないと、誓ったあの言葉は嘘だったのかっ!」

 俺は打たれた勢いで向いたままの方へ視線を流したまま、姉貴の声を聞いていた。

 だけど、答えられなかった。

 何も、言えなかった。

 俺は唯、手元にあったブランケットを強く握り締めるだけだった。

「佐京、そこまでです。それ以上、慎治君に手を上げるというなら、私も、考えてしまいますよ。記憶を取り戻したばかりで、彼も情緒が不安定である事が貴女にもお分かりになると思っていましたが・・・」

 いつも穏やかな顔を絶やさない先生が、鋭い視線を佐京姉貴に向けていた。不承不承と不満顔で応じる姉貴。

「わかった・・・。一旦、吾は、母様へ、連絡を入れて来る」

 言って佐京姉貴は出て行ってしまった。

 愁先生は姉貴の背中を見送ると、俺のほうへ歩み寄る。

「佐京のように凄んで言葉にしませんが、慎治君、君の周りには、貴方の事を必要としてくれている方々が、沢山いるというのに、今回の行動は頂けませんね。何より、君に親身になって考えてくれる方への裏切り行為ですよ、まったく。まあ、慎治君の記憶が戻ってよかったです・・・。それと、吉報を知らせておきましょう。君もご存知の涼崎翠君と結城弥生君、彼女ら二人が、やっと目覚めてくれました」

 先生はそう言って、扉の方へ歩き出す。それから、

「ちなみに、慎治君、この部屋は特別な場所です。このカードが無いと扉は外からしか開けられません」と言って出て行ってしまった。

 俺は窓の方を見る。

 転落防止用にだと思うが、格子が備え付けられていた。

 扉の方をもう一度見る。

 周りを見る、自分を殺傷できそうな道具は何も無い。

 首を吊れそうな紐に代わる物もないし、それを吊り下げる事の出来る場所も無かった。

 要するに、俺が再び、自殺を謀らない様にと考慮した病室なんだろうと思った。

 両腕を頭の裏に回し、ベッドの上に寝そべった。そして、天井の不規則な模様を眺めながら、取り戻した記憶を辿り始めた。

 出来れば、あんな悽愴な記憶なんか取り戻したくなかった。

 男でも惚れちまいそうなほどの生前はなかなかの男前で精悍な藤原貴斗。

 誰にでも隔てない品の良さを身に着け、可愛らしさと、幻想的な美しさを持ち合わせた藤宮詩織。

 親友としての美化脚色はあるかもしれないが、誰から見ても二人の容姿にけちをつける連中は殆ど居ないだろう・・・。

 そんな二人の最後の姿。

 現場で二人を発見した瞬間、俺の頭中の映像は瞬時に偽りな画像と入れ替えられちまうほど精神的に負担が掛かる物だったんだな。

 俺はあの時の本当に眼にした事実を脳裏に投影したとき、空っぽの胃から胃酸だけが込み上げそうになり、透かさず、両手を口に当てて、出て来そうになった物を口内に留めた。

 ベッドから飛び起き、備え付けの洗面台に駆け込むと、それを吐き出した。

 蛇口の無い感応式の水道に手を翳し、水を出すとそれを何度も含んでは出して、口の中に残る酸味を拭った。

 正面を向くと強化硝子製の鏡があった。

 赤の他人が二人の最後の姿を俺と同じ様、実際に見たら、これほど胸焼けがするほど、精神的に苦しさを感じるほどの状況になるのだろうか?

 簡単にしか、伝えられないけど・・・、いや、簡潔にしか、言えない。

 二人の姿は原型を留めていなかった。

 二人の顔は顔として、認識できるような状況じゃなかった・・・。

 隼瀬香澄の時だってそうだ。

 彼女が海から引き揚げられた時に、俺は心の中で、

『その表情は貴斗と藤宮の時と一緒で微笑んでいた』と言っていたけど、本当に彼女の事を好きじゃなかったら、

 まともに隼瀬の顔を見たいとは思わないくらい形が崩れていた。

 彼女であるかどうか、認識できない程に。

 結局俺も、翔子さんと一緒だった。

 彼女と同じ様に記憶の捏造をしてしまっていた。

 隼瀬達の発見後の状態に・・・。

 人間の記憶なんて、結構曖昧なんだなって思うけど、今はその記憶を嫌気が差すほど、容易に思い出せてしまう。

「つれぇよ、タカト・・・。こんな思いになるのはお前の所為だからな・・・、お前の」

 洗面台の両脇を掴み、清潔な色を放つその場所の、排水穴に視線を落としながら、俺は・・・、泣いていた。

 何一つ、大切なな連中を、大事な仲間を護れなかった、自分が悔しくて。

 どれほど、どれほどに落下していく、貴斗と藤宮へ手を伸ばしながら、どれだけ、祈ったか、望んだか、二人を助けてやりたいと。そして、思い知った現実の厳しさを、この世界には神も、仏も、悪魔もいない。

 そんな連中は現実逃避な人間の創造した幻想に過ぎない絵空事だけの生き物だってな。

 現実には魔法なんて便利なものは無い。だから、復活の呪文を唱えたって、死んだ人間が生き返るわけねぇんだよ。

 ああ、俺は昔の貴斗みたいに、大分、後ろ向きになっている。

 俺の事を支えてくれようと、がんばってくれる人が身近にいるのに・・・。

 俺は顔を上げ、鏡の中の自分を除いていた。

「せっかくの二枚目の、俺の顔も、これじゃ、台無しだな・・・」

 自嘲気味にそんな言葉を漏らしていた。

 今度は硬い床の上で寝っ転がり、両腕、両足を広げ、天井を眺める。

「ああ、さっき先生、翠ちゃんや将臣君の妹が眼を覚ましたって言っていったけど・・・、二人とも大丈夫だろうか?涼崎春香が目覚めたときのような記憶障害は無いんだろうか・・・」

 乗り気じゃないけど、とりあえず、二人の確認だけはしようと思って身体を起こし、ここを開けてもらうように、看護師を呼んだ。

 看護職の人間を呼んだつもりだった。

 でも、俺が居る病室へ来てくれたのは、愁先生だった。

 翠ちゃん等の病室へ向かいながら、先生は二人の状況を説明してくれた。

 どちらも、涼崎姉の様な記憶障害は無く、いまがあれから、六年の歳月が経過してしまった事実を知っても、取り乱す事は無い様だと。

 涼崎春香は三年。翠ちゃん、弥生ちゃんは六年。

 涼崎姉よりも二倍も歳を重ねてしまったと言うのに身体機能の衰えは姉と然程、変わらないらしく、一ヶ月くらいの訓練で日常に戻れると先生は言う。

 ただ、二人とも俺と同じ様に心が下向きだと言う事。あの強かに前向きだったはずの翠ちゃんまでも・・・

「私が、慎治君を二人に会わせようと思っているのは、単に、二人が眼を覚ましてくださったからと言う理由では在りません。君と彼女等は共通の心の痛みを持っています。ですから、慎治君にそのケアをと考えまして・・・」

「いったい、今の俺に何が出来るって言うんだよ。おれ自身が、生きる事に絶望してるって言うのに・・・、俺に何が・・・」

「確信していますよ、慎治君にはその才能があるということ。何せ、皇女大先輩のご子息でありますからね」

「何を期待しているかしらねぇけど、親がどうとか言われる、比較されると子供は拗ねるぜ」

「ええ、劣等感の強い子でしたらね。ですが、慎治君は違います。子供では在りませんから」

 先生は笑ってそんな事を言うが、子供とか大人とか、関係ない。

 比較されるのが嫌な奴は、トコトン嫌だろうぜ。だが、俺は如何でも良かった。

 自分は、自分だと自覚しているし、何より、自分の出来る事をちゃんと知っているからな。でも心は下向きだから、今の俺は何もする気が無い。

 随分と、病院内を歩かされた。

 それほど、俺が居た場所と翠ちゃん達が居る病室は離れていた。

「こちらです」

 愁先生の言葉に病室番号の下に掲示されている名前を確認した。

 だけど、名前よりも番号の方が印象強かった。

 なぜなら、その番号、俺は好きになれそうに無いからな。

《606号室》[涼崎翠][結城弥生]・・・、

 二人は数年前、貴斗が居た病室で今まで過ごして来たようだった。

 先生は一緒には入室しないと言う。

 俺だけが入れと言う事だった。

 俺は扉を叩いてから、名前を告げ、入室の許可をもらう言葉を投げた。

 その時、返答してくれたのは将臣君だった。

 中に入る俺。最初に俺に言葉を呉れたのも彼だった。

「慎治さんっ!何の連絡も呉れないで今まで、何処に行ってたんですか。すげぇ、心配してたって言うのに」

 もしかして、将臣君はいままで、俺が記憶喪失だった事を知らないのだろうか?

 まあ、彼は忙しいから、俺の現状を知る機会が無かったのかもしれない。

っていうのか、俺が乗った航空機事故の事、日本の報道ではそんなに騒がれなかったのかと疑念に思うが、無理に笑いながら、

「いや、いやすまんな。言ってなかったっけ、海外出張で暫く日本から出るって」

 そんな風に答えながら、翠ちゃんと、弥生ちゃんの方を確認した。

 二人とも、上半身を起こしてはいたけど、魂が抜けている様に見えた。そんな雰囲気を二人は出していた。

「慎治さん、答えなんか殆ど返してくれないだろうけどさ、二人に何か言って欲しいんだけど・・・」

 俺は初めに、翠ちゃんに移動して、椅子を置き、その上に座ろうとした、その時、彼女は俺の服の裾を掴み、見ると俺もどん底まで落ちそうなくらいの、沈んだ表情を向けられた。

「八神さん、いままで、何処に逝ってたんですか。みどり・・・、翠。夢の中で八神さんが・・・、先輩が、落ちた飛行機と一緒に死んじゃったかと、思っちゃったじゃないですか。寂しかった、寂しかったのに・・・、先輩ひどいですっ!私たちを置いて先輩たちの所へ逝っちゃおうだなんて、ずるいです。嘘つきですっ!一緒にがんばろうって言ったのに・・・」

 俺は翠ちゃんが呟いた言葉に心の中で〝エッ?〟と驚いていた。だって、そうだろう?俺が事故にあって死に掛けたのは、この娘が既に昏睡状態になってしまった後だぜ。

 さっきの将臣君の言葉からすると、翠ちゃんも航空機事故に俺が巻き込まれた事を知らない筈だ。

 何で、そんな彼女が、それを知っているのか疑問に思わないほうが可笑しい。

 翠ちゃんはそれ以上言葉を続けなかったけど、俺の掴んでいた袖から手を放して、今度は両手で、俺の服を掴み俺の胸に頭をたらして、泣き始めちまったよ。

「彼氏が居るのに、不味いだろう、これは」

「俺は別に気にしないから、翠が泣き止むまでお願いします」

「ははっ、大人な事いいやがる。それはアイツを真似しているのか・・・」

 泣きたいのはこっちもだが、今は彼女の頭に手を回し、頭を撫でてやった。

 俺が翠ちゃんを抱擁していると、そんな姿を弥生ちゃんは屈んだ両足に腕を回して、嫉視の目で俺達の方を見ていた。

「いいですよねぇ、みぃ~ちゃんはそうやって心配してくれる先輩がいっぱいで、弥生にはだれも・・・、誰も・・・、心配してくれる人なんていないんだ・・・。だれも・・・」

 言葉遣いは明らかに違う、でも、彼女の作る表情ははっきりと俺の知っている親友に似ていた・・・、藤宮詩織に。

 嫉妬心全開の彼女の顔に。

「弥生、子供みたいな事言って拗ねてんなよ」

結城兄が妹にそう言うが、余計に彼女は不機嫌になるだけのようだ。

「なにをいっているのかな、弥生ちゃん、君には将臣君ってお兄さんが心配してくれているし、君は知らなかったろうけど、君の事を案じて、見舞いに来てくれていた奴がいるんだな、これが・・・」

 弥生ちゃん、俺の言葉の後に、不機嫌の顔を、膝の上に隠すと、やっぱり泣き始めてしまった。

「慎治さん、二人を泣かせましたね。責任をもって、弥生と翠を宥めて下さいね」

「おい、おい、これはおれのやくめじゃねぇ~~~つぅの・・・。俺だって・・・、俺だって・・・」

 愚痴をこぼしそうになったけど、この中で年長者の俺が折れる訳には行かない。

 そんな自尊心が少しだけ、後ろ向きになりかけた気持ちが前向きに変わりつつあった。

 二人が泣き止むまで、二人が笑ってくれるまで馬鹿話を思いつく限り、永遠と話し続けていた。それから、暫く経つと笑っては呉れないが泣き止んでは呉れた。

「全然、八神さんのお話面白くないです。つまんない」

「みぃ~ちゃんの言うとおりです」

「面白いか、どうかなんてのは関係ねぇよ。君達がなきやんでくれりゃぁ、それでいいんだ」

「そんな事よりも、翠たちが、ずっと眠っている間、先輩は何をしていたのか、教えてください・・・」

「嫌だね。世の中には知らない方がいいてことあるって昔言っただろう?言いたくないし、教えない」

「教えてくれないと、また泣いちゃいますよ。ぐれちゃいますよ。弥生と一緒に。それでも教えてくれないと、将臣にぼこぼこにしてもらっちゃうんだから・・・」

「そうです、お兄ちゃんにぼこぼこです・・・」

「俺はそんなことしねぇよ、ばぁ~~~かっ!でも、俺も知りたいです。今まで何処にいたのか」

「しってどうするっていうんだ、俺だって大変だったんだ・・・死にたいほど・・・」

 後は嫌々言葉を続け、俺が航空機事故に巻き込まれ、死に掛けた事、記憶喪失になっていた事、記憶が戻ったときにどんな行動を取ってしまったのか、話してしまっていた。

 翠ちゃんが俺に怒った様な目を向ける。そして、ビンタを貰っていた。

 流石に彼女の行動に将臣君が驚き、謝りの言葉と一緒に何度も頭を下げていた。だけど、彼女はそれを無視して俺に訴える。

「八神さんのおお嘘つきっ!どんな事があってもがんばってみんなの分まで未来に向かおうって、翠と約束したじゃないですかっ!辛いのは先輩だけじゃないですよ、貴斗先輩や詩織お姉さまを失った悲しみのこの思いは・・・、この思いは八神先輩だけの物じゃないのにっ!将臣も、弥生も、翔子先生だって、先輩のお姉さまだって、みんな・・・、みんなそうなんですよ。」

「なのに・・・、なのに、なんで先輩だけ、逃げようとするんですかっ!どうして、自殺なんて馬鹿な事をしようとしたんですか・・・。とっても、とっても卑怯者ですっ!」

 翠ちゃんから、平手を貰うよりも、その言葉の方がよっぽど俺には痛かった。

「俺も、情けない男だな・・・。有難うよ、翠ちゃん。君の言葉で、自分を取り戻せそうだ・・・。時間は掛かりそうだけどな・・・。六年間も眠りっぱなしだったのに、凄いよ・・・」

「わたし、翠はすごくありません、ただ、言いたい事だけをいっているんです・・・。みんなが、居てくれるからです・・・。もし、目を覚ました時に八神先輩も、将臣も、弥生ちゃんもいなかったら・・・。私だって・・・」

 彼女はそれ以上言葉を出さなかったけど、思いは理解してあげられた。

 愁先生は二人とも塞ぎ込んでいて、手のつけ様が無いような事を口に出していたけど、そうでもなさそうだな。

 彼女らが入院中はまた、見舞いに来ると言って、病室を出ていた。

 二人の病室を出ると、愁先生は居なかった。

 別に出歩けないと言う程の怪我をしている訳じゃない。

 病室に戻ってもやる事はなかった。だから、夜だってのに病院の敷地内にある公園に行くために外へと出ていた。

 夜だから、入院患者は一人も居なかった。

 人工灯のくせのその明かりが、周囲と俺をやさしく照らし出してくれた。

 夜、患者がここへ来る事なんてないのに、前方に見える噴水はライト・アップされていた。

 俺はそこへ歩み、その淵に座る。そして、夜空を眺めた。

 照明の光りの所為で、星は多く見えないけど、月明かりだけははっきり見えていた。

 そんな、煌々と月光りが差し、ぼやけた輝きが瞬く星々の広がる空を観察しながら、考えた。

 これから、どうすべきなのかを。

 時間がどれくらい、経ったのか判らないくらい、悩んだ・・・。しかし、答えはすんなり出ず、溜息をつく。

 あまり、周囲に気を配っていなかったから、足音が近づいてくる事に気がつけない。

 しかも、走っている様子だ。

 その音が、本当に近くに来るまで俺は空を眺めたままだった。

「シンお兄ちゃんっ!さがしたんだよっぉ、ばかぁ~~~」

 声の主は、俺をそう呼び、俺の胸に飛び込んできた。

 主の勢いを受け止められず、二人で、そのまま、噴水の中に落ちてしまった。

「つめてぇっ!ばかっ、右京、状況を考えろ、状況を」

 俺は妹を抱きながら、体を噴水から出すと、妹を見下ろした。涙をいっぱいにためている右京。

「馬鹿は、おにいちゃんだよっ、ばかぁあ。病室に居ないから、病室に居ないから・・・、とおもちゃったよぉ。シンおにいちゃんが、お部屋に戻ってきてくれないから、愁おにいちゃん、サッチャンおねえちゃんにすっごく怒られちゃっているんだからね」

 妹の言葉の状況を想像して、心の中で、愁先生に頭を下げていた。

「ああ、わかった、わかったよ。俺が悪かったって、もう泣くな、早く戻ろう。お前に風邪を引かれちまうと、後で、母さんと、姉貴に何をいわれることやら・・・」

 そういって、妹の手を引きながら、病院のほうへと歩き出した。

「でも、右京、俺の居場所、よくわかったな・・・」

「だって、シンおにいちゃんの、妹だもん・・・、だけど、よかった。本当にお兄ちゃん記憶が戻ったんだね。これでまたみんな一緒に暮らせるんだね・・・」

「ああ、そうだな。それと、右京いままで、心配掛けさせてすまなかった・・・」

「右京にはシンおにいちゃんがどれだけ大変なのか、ちゃんと判ってあげられないけど、何も役に立ってあげられないけど、辛い事があったら、わたしに・・・、わたしをいじめてもいいだよ・・・」

「ばぁ~~~ろっ、可愛妹に手を挙げられるかつぅ~~の」

 生意気な事を言う、右京の濡れちまった髪を撫でながら、照れくさそうにそんな事をつい口走っていた。

 病室へ戻ると、そこにはのほほんとしている母親の皇女と、殺気を放つ、姉貴佐京と、冷静な振りをしている愁先生が居た。

 その後、散々、そのお三方に説教を喰らったのは言うまでも無いが、ちなみに、まったくそのお説教を聴かされても俺は反省していなかった。

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