第六話 D R A M
~ 2011年2月21日、月曜日 ~
俺、慎治は今、構造生物何ちゃら、医学ほにゃららとか言う学会の会場に来ていた。どうして、俺がここにいるのかって?それは愁先生に無理やり連行されたからだ。
理由は先生が不在中、俺が不祥事などに巻き込まれないたくないからだそうだ。
要するに、常に先生の対応できる、目の届く範囲内に俺を置きたいからだろうな。
学会は一週間近く開催されるみたいだけど、先生は最後までいるみたいでその間、俺もパートを休まなくちゃならなかった。
せっかく、仕事も程度慣れてきて、調子が出てきたところだって言うのに・・・。
講演内容なんて、点で俺には理解できなかった。
聞いているだけで疲れてしまう。無駄に聞いているくらいだったら、眠ってしまいたかった・・・、でも、今でも眠りにつくのは怖い。
悪夢を見てしまうのではという恐怖感。
愁先生と暮らすようになって、それを観る回数はグッと減ったけど、観てしまう時は、見えてしまうんだ。だから、こんな所で居眠り扱いて、悪夢なんか見た挙句、素っ頓狂な声を上げたら、周りに迷惑だろうし、愁先生に恥を掻かせてしまうだろう。
眠ると言う選択肢は候補から外すしかない・・・。どうしよう?
隣にいる愁先生の顔を窺うと先生は真剣に講義を聞きながら、必要な事はTablet型ラップトップの中に記入しているみたいだった。
集中している先生は俺がきょろきょろとしている事に気がついていない様子だ。
よし、これなら、先生に黙って退出してもばれないだろう。
慎重にこそこそと、周囲に注意を払いながら、公会堂を出てゆく。
廊下に出た俺は、左右を確認し、足の赴くまま、適当に歩き始めた。
ここはの札幌。えぇ~~~と会場はホテル。どんな名前だったけな?
建物の中に入るときにS・・・、She・・・、ああそだ、Sheraton、シェラトンホテル。
記憶喪失なはずなのに、なぜか思い出せたぞ。笑い事じゃないけど。
そんな名前のホテルの廊下を上着のポケットに手を突っ込みながら、歩いていた。
外に目を向けてみると、流石、雪国だけに外界は一面、白く染まっていた。
それに、どんよりくすんだ空、吹雪いてはいないが、氷の結晶は静かに地表へと降っている。
館内は空調が行き届いているようだから、口から漏れる息が白くなる事はない。
「そとに、出たら、先生怒るだろうなぁ・・・」と呟くも、俺の体は外へ向かっていた。
自動ドアを潜り抜け、外に出ると、一人の少女?大人の女性?どちらとも判断しにくい容姿の女の人と目が合った。
でも、どんなに、見積もっても俺より年上には見えそうに無かった。
その女の人は俺の顔を見て、一瞬驚きと悲しそうな顔を見せると、何かを取り繕うかのようににっこりと微笑んでいた。
それから、その人はそのまま、俺とすれ違い、建物へ入ると思いきや
「慎治君、どうして、貴方がこちらへ参られているのでしょう」
相手は何の淀みも無く、俺の名前を口にしていた。
しかし、俺は彼女を知らない。
記憶喪失になってから、初めて会うのに俺を知っていると言う事は、俺の過去を知っている人なのだろうか?
すぐに彼女に対応できず、しどろもどろしている俺にまた声をかけてくれた。
どうしてなのか、惻隠を含んだ笑みで。
「記憶喪失の貴方がお戸惑いになりますのも、無理はありません。この度は、お初にお目にかかりますと、挨拶をさせて頂きたく思います。藤原翔子と申すものですわ」
したたかで、しなやかな動作で挨拶を俺に向けてくれるその人。
その動きは優艶で育ちの良さを無意識に受け入れてしまう、そんな感じを受ける人だった。
彼女の言いで自己紹介なんかしなくても、俺の事なんか知っているだろう事は分かったのに、釣られて、
「あっ、あああ、えぇ~~~っと、やっ、八神慎治です。よろしくお願いします」とそう答えていた。
しかも、何故か頬が熱かった。
藤原翔子と名乗った女の人は上品に笑い、
「慎治君、今から、どちらかへ、お出かけになるのでしょうか?もし、貴方のご都合がよろしければ、わたくしとお話になりませんでしょうか?」
彼女の誘いに答えに答えを迷わなかった。即答だった。
「君が俺と話したって、面白くないと思うけど、暇を持て余していた所っすから・・・。こんな寒い外にいても仕方が無いだろう。中に入ろうぜ。それとも何処かへ出かけましょうか?」
「君、ではありません。翔子ですわ。しょうことお呼びくださいませ」
「初対面の人に、しかも女の名前を口にする事なんてできないな」
「そうですか・・・、なら、慎治君が私の苗字ではなく、名前で呼んでくださるまでここを一歩も動きません。ですが、敬称をお付けになる事は構いませんわ」
俺は彼女の言いに、呆れた顔を見せたが、彼女は動じなかったし、俺が彼女の名で呼ぶまで、本当にそこからこの場から離れないと言う意志の強さが感じられた。
だから、俺の方が折れる事にした。
このままずっとここにいて彼女に風邪を引かれたら、後味が悪いからな。
翔子お嬢様と呼んだら、微笑みの表情に怒りが篭っていた。
翔子様と口にしたら、呆れ笑いをされた。
翔子殿と言葉にしたら、何の壺を突いたのか知らないけど可笑しそうに笑っていた。
無駄な時間をそこで費やして、最後に翔子さんといってみたら、彼女は歩みだした。
それから、彼女に先導され、ホテル内の喫茶店に連れて来られた。
翔子さんに好きなものを注文していいと言われたけど、特に腹が減っているわけでもなし、珈琲だけを頼むことにした。
「慎治君にとって、お詰まらない事でしょうけど、わたくしの昔話をお聞きしてくださらないでしょうか」
どんな昔話をしてくれるのか、興味は無いけど、断る理由も無かった。だから、俺は曖昧に首を振ると、彼女は同意と受け取ったみたいで、語り始めた。
翔子さんの聞かせてくれた内容は、ある高校の生徒たちの話だった。
記憶喪失の転校生、そして、その転校生と親しくなった男女含めて六人の友達を眺める先生の話だったんだ。
記憶喪失のその生徒、今の俺みたいに進んで、記憶の回復に努力をしないようだった。
古い記憶を取り戻すより、その生徒を友達として、仲間として受けいれてくれた連中との新しい記憶を築き上る事、新しい思い出を刻む事に励んでいたらしい。
だけど、不幸とは突然にも降って湧いて来る。
ちょっとした行き違いで、仲が深まりつつあったその関係に小さな亀裂が生じたらしくて、記憶喪失の生徒は交通事故に巻き込まれてしまう。
事故による怪我はたいした物ではなく、数日もあれば万全になる程度のものだった。だが、その怪我が元で、生徒は過去の記憶を取り戻してしまい、ある事実を受け入れなくてはならなかった。
それは生徒の命が長くない事。
昔受けた怪我の代償で、その生徒の寿命は持って、二十を超えられるか、そうでないか位だろうとの事だった。
しかしながら、たいした事故じゃなかったそれが、その寿命を縮めてしまっていた。
記憶を取り戻した生徒は、自分の死が間近に迫っている事を知っていた。
「その男の子はですね、ご自身の死をお悟りになると、親密になりましたご学友の皆様をそのお方が居ます、病室へとお呼びになり、次のようにお言いになったそうです」
『みんな、来てくれたんだね。有難う・・・、何も言わないで僕の言葉を聞いて欲しいんだ。記憶を取り戻したんだ・・・。その記憶の中には僕がもうそれほど長く生きられない事が含まれていた。僕の失言で今みんなギクシャクしちゃっているけど、僕は信じているよ、君達の仲が、こんな事じゃ、揺るがないって・・・、僕が居なくなっても君達の絆は変らないって・・・』
『そんな君たちと短い間だったけど、一緒にすごせて、楽しい思い出を残す事ができて僕は本当に嬉しかった・・・。記憶喪失で、変な劣等感を持っていた僕に隔てなく接してくれた君達が、僕は大好きになってしまった。ホントならずっと、君達と歩み続けたい。でも、僕には出来そうに無い。僕が居なくなっても悲しんでくれなくたっていい・・・』
『だけど・・・、だけど、僕が、僕という存在があった事だけは忘れないで欲しいんだ。君たちの心にとどめておいて欲しい。記憶喪失で、素っ気無い変わり者の友人がいたって事を・・・。今まで、僕を受け入れてくれて本当に有難う・・・。君達の未来と絆に幸福を・・・』
「その男の子は、見舞いに来てくれたご学友に、一切の口をお挟みさせませんで、その様に言い切りました。そして・・・、彼は口を噤み、無垢な微笑をご学友へと向けたそうです。それ以降、彼は一言もしゃべりませんでしたし、動く事もありませんでした。そう、その生徒は微笑んだまま、息を引き取ったそうです」
別に感動できるような話はどこにも無かった。
でも、俺の両目尻からは涙が流れ出していた。
「どうして、俺は泣いているんだ」
そんな風に呟いてしまう俺へ翔子さんはハンカチを取り出すと子供をあやす様な顔つきで俺の涙を拭ってくれていた。
どうしてなのか心が金縛りにあって、俺は身動きが取れないで居る。
近くに翔子さんの顔があった。
その距離で彼女は言葉を続ける。
「このお話にご登場します、教師はわたくし、藤原翔子でございますし、記憶喪失の生徒は私の弟・・・。それとご学友のお一人は、八神慎治君、貴方です・・・。記憶を失っている間の弟から、私を姉として接してくれる事は一度もございませんでした。それはとてもつらい事でしたのよ・・・」
「慎治君、貴方にもお姉様が、居ましたわね?慎治君が現在記憶喪失である事は変えられない事実ですが、本当のお姉様がご健在だという事実は変えようにございません。ですから、そのお姉さまを悲しませるような真似はお強いりにならないでください。私が、味わってしまいました心の不満を彼女にあたえないで頂きたいのです。無論、妹様にも。どうか・・・、ご賢明な判断を・・・」
翔子さんはそんな風に言葉を括ると俺から身を離し、椅子に座っていた。
彼女が俺の先生だった?えっと、今、俺はいくつだ。
俺は1986年生まれだから・・・、っと、違う1983年だ。そして今は2011年で差し引くと28歳。
この翔子さんって人が若し最短で教師になれたら、22歳なのか?先生が新任教師で、俺が高校三年生、17歳。
5歳離れていて、今俺の年齢にそれを足すと・・・、33歳・・・。それって、俺の姉らしき、佐京と一緒じゃねぇか・・・。
年齢と翔子さんの、顔を比較する。
じろじろ、彼女の顔を窺う俺を見て、翔子さんは不思議そうな表情を作っていた。・・・、詐欺だ。顔のつくりと年齢が合致していない。
どんなに高く見積もっても大学生成り立てフレッシュマンにしかみえねぇ。
こんなんで、俺よりも年上なんてありえねぇ・・・。
しかし、俺は大事な事を見落としていた。それは翔子さんの記憶の捏造。
彼女の昔話は現実にはなかった事のはずなのに、今、記憶喪失の俺が分かるはずも無い。
だけど、翔子さんの本当の思いは佐京という俺の姉を大切にしろ、って事なんだろうけど、それすらも俺は読み取れて居なかった。
それから、更に翔子さんの弟が、以前、愁先生が口にしていた俺と似たような記憶喪失だった男と同一人物だと言う事を関連付けられなかった。
それから、翔子さんは『無理に記憶を取り戻す必要などありませんわ。新しく作り上げますものをお大事にしてください』とも言っていた。
翔子さんが語ったその言葉にどんな意味が込められているのか、分からない。
しかし、他の誰もが俺の記憶回復を望んでいるのに彼女だけが違った。
なんだか知らないけど、その言葉に俺は安らぎを覚えてしまっていた訳で・・・。
「ところで、翔子さん、教師なんだろ?なんで、こんなところに居るわけ?」
「理由ですか?教鞭をとっていましたのは二年前までです。今は貴方が、過ごしていました学園の理事を務めていますし、ここへの来訪の理由は、今開催されています学会の一講演にメディカル・ファクトリーの研究員がおたちになりますからよ」
「メディカル・ファクトリーは私が去年より代表として取り締まる事になりました、製薬会社で御座いますわ。製薬会社としては創立されまして日の浅い、我が社。この度の講演で発表する研究成果がどれほどの物か、いか程に他の方々へ影響を及ぼし致しますのかを見届けるために来たのですけど・・・」
「きたのですけど?」
俺の復唱を聞いて、翔子さんはそこではにかむ様に可愛らしく笑いながら、
「わたくしには、てんで、何をご講義になっていますのか、ご理解できずに抜け出してしまい。お暇な時間を埋めますために、札幌の街を散歩していたのです。わたくしも・・・、私もお母様と同じようにこちらの才能が少しでもあり、興味をもっていましたら、講演の内容を理解できたのかもしれませんが・・・」
「その人の講演はいつなんですか」
「最初でしたので、今暫くで、終演になるでしょう」
愁先生が真剣に聞いていたやつか・・・。
内容がさっぱりだったけどDRAMって言葉だけは覚えているぞ。
パソコンのメモリーと薬にどんな関係があるのか知らないけどな。
???・・・、もう直ぐ、講演が終わるって?なら、先生の所に戻らないと説教を聴かされそうだから、戻るとするか・・・。
「それじゃ、翔子さん、俺戻るよ。愁先生に、居ないのがばれたら大目玉を食わされそうだから・・・」
「そうですか・・・、では、ご機会があれば、またお話いたしましょう・・・。それと、京ちゃん・・・、あっぃ、いえ、八神佐京さんに宜しくお伝えください」
何だろう?翔子さんは佐京を知っているのだろうか・・・。
だけど、そんな事を気にも留めないで、彼女よりも先に喫茶店から出ると、講演会場へと急ぎ早戻っていた。
こっそり忍び込み、先生の隣に静かに座る。
音を立てないように頑張って見たけど、少しだけ、作ってしまった。
でも、先生は真剣な表情で、終わりかけの話しを聞いているようで、俺の動作なんて眼中にないようだった。
何食わぬ表情で俺はだらけるように椅子に座り、先生の顔を眺めていた。
講義が終わると、愁先生は俺の存在を今まで忘れていて、思い出したかのように、
「済みません、慎治君。講義に集中してしまって、君には退屈な時間が過ぎているだけだったでしょうに・・・」
愁先生は今まで、俺がそばに居なかった事をマジで気が付かないのか謝罪の顔で言葉を呉れていた。そんな先生の言いに対して俺は悪戯に、
「はぁ~~~、こんなんじゃ、俺が一緒に来た意味なんてないんじゃないの」
「ふぅ、そうですね・・・。一週間もこのままじゃ、君には窮屈でしょう・・・。分かりました、私が学会に参加している期間、慎治君は札幌周辺の観光でも楽しんでくるといいでしょう。君が独りで出歩き、万が一何かあった場合、佐京に合わせる顔が在りませんので、頼れる友人を紹介しておきますよ。その方と一緒なら、事件や事故に巻き込まれそうになっても大丈夫でしょうから」
先生はそういって、次の講演が始まる間に友人とやらに連絡を取っていた。
愁先生の言った事からどんな凄いSP見たいな人が来るのかと、いやいやそうに待っていたけど???
俺と同身長くらいの女の人だった。
「はじめまして、僕。ふぅ~~~ん、これが佐京の弟さんねぇ。彼奴にはもったいないくらい可愛いじゃない。俺がこのまま、持ち帰りたいくらいだよ」
「はぁ、貴女と来たら、第一声がそれですか。それを口にする前に自己紹介が先でしょうに・・・、ええ、とこちらは」
愁先生が現れた女性の名前を言いそうになったけど、その人が、先生を退けて、進んで、名乗りだした。
「俺は道庁公安三課のサカモトケイ、坂本慧よ、よろしくなっ!」
「付け加えまして、佐京と同じ、この若さで、警視正ですが、つい最近の不祥事で、謹慎中で暇を持て余しているようでしたので、慎治君の護衛をと」
「調川、余計な事を言うな・・・。まあいいや、シンジ、早速出かけようぜ」
「なれなれしいな」
「ああ?文句でもあんのか、俺みたいな美人で凄腕の女と遊びにいけるんだ、ちっとは嬉しそうにしやがれ」
「自分で言うかよ、そういうこと。確かに美人系だと思うけどよ・・・。でも、性格捻じ曲がってそう」
「ああん?なんかいったか、シンジ。これでも悪を糾す、公安の人間だぞ。曲がった性根の者がつとまるかってぇ~~~の」
「まあ、まあ、落ち着いてください、慧君。では慎治君を宜しくお願いしますよ、手荒な真似しないでくださいね」
「わかっているって、じゃあ行ってくる。ほら、歩け、シンジ」
慧って公安の人は俺の腕をつかむと嬉しそうに歩き始めた。
おろおろと、愁先生と彼女の方を見返していると、先生は柔らかい笑みを浮かべ、離れてゆく俺へ手を振っていた。
愁は二人が見えなくなると、公会堂へと戻っていた。
それから、会場内に入ると、次の講義の為に席についていた。
ふぅ、慧君は見た目の性格は荒々しく見えますが、面倒見がいいから大丈夫でしょう。
物事の察しの良い慎治君ならその事にすぐに気が付いてあげられるでしょうし。ですから、今は彼女に任せて問題ないはずです。
まあ、この事を佐京に知られましたら、大目玉を頂くのは私の方でしょうが。
理由は簡単、佐京と慧君は犬猿の仲だったようですからね。
ですが、面白い事に親友でも有ったとか・・・。
「しかし、先程の結晶学で解析された蛋白質の構造体、DRAMは非常に興味深いでしたね。学会が終わったらもっと詳しく、聞いてみましょう・・・」
彼はその様な事を呟くと次の講演内容を確認していた。
それから、俺、慎治は、坂本慧に連れられて、函館まで足を伸ばしていた。
今、函館山ロープウェイに乗り、展望台へと向かっていた。
ここまでに来る間、ずっと慧と会話していて分かった事がある。
彼女の口調や態度は根っからのものじゃないって事。
多分、職業柄、無理に演じているんじゃないかって思えた。
「なんだよ、俺の顔をじろじろみやがって、惚れたか?可愛いやつめ」
そんな言葉を口にしながら、慧は俺に顔を近づけ、猫とじゃれるような感じで、俺の顔に彼女の健康美な頬を摺り寄せて、頭髪をわしゃわしゃと撫でられていた。
「やっ、やめろってば」
「恥ずかしがる事なんて無いだろう、ただのスキンシップだって」
慧は俺の頭を数度、軽くたたくと、満面そうな笑みのまま、顔を遠ざけていた。
「で、なんで、俺の表情なんて窺ってたんだ?」
「いったら、ざけんなって返されそうだから言わない」
「俺は小さい漢じゃないぜ」
「いや、女の人でしょう」
「オトコ、平仮名、漢字のカンって書いて漢と読ませるほうだよ。寛大ってことさ」
「はい、はいそうですか・・・、慧さん、無理してそんな性格作ってるんだろな、って思っただけだよ」
「年下のくせに、一丁前の口を聞くんじゃない」
どうも、図星だった様で、この人は腕を組んでそっぽを向いて、少なからず頬を紅く染めているようだった。
でも、周りの明かりの加減のせいで、そう見えていただけかもしれない。
「シンジ、ついたぞ。さっさとおりないか」
あまり、この人をからかっていても、いい事なさそうだから、従う事にした。
俺より先に表に出て、背中を向けていた彼女は、直ぐに俺の方へ向き直り、俺の腕をつかみロープウェイの筐体から外へ導く様に優しく引っ張り出してくれていた。
後はそのまま、彼女の隣に並んで、慧の動きを追っていた。
「ふぅ、やっぱ、観光客がおおいな・・・。騒がしいのは嫌か、シンジ」
「いまは、どっちかっていうと、いやかもしれない・・・」
「そういうと思ったよ・・・」
立ち止まって、話しかけてくれた慧はまた、別の方へ、歩き出した。
進んでいくと、人の数が、どんどん減っていく。
人がまばらになっていた。
彼女は手すりに近づき、両手でそれを握り、上半身を手すりの外へ出すような感じに眼下を眺め始めた。
俺もその隣に立つ。
俺の視界に広がる函館の街灯り、無機質な物体が寄り集まった中に燈されている無数の人工光の筈なのに何故、こんな作り物の風景を、ここを訪れ、この景色を眺める人たちは綺麗だと思うんだろうか。
ぼんやりと眺めている俺はただ綺麗と思うだけで、それ以上の感覚、感動という物は湧き上がって来なかった。
記憶がなくなる前の俺も、こんなにも鈍感な男だったんだろうか。
ふぅ、俺は記憶を取り戻すべきなのだろうか、それとも否か。
どうして、こんな事を思うほど、過去に未練が無いんだろう・・・。
分からない・・・。
ぼんやりしている俺に、沈黙していた慧が、不意に話しかけてきた。顔はこっちを向けていない。
「なあ、シンジ。お前、記憶喪失なんだってな・・・」
初対面の人にそんな言葉を投げかけられても、特に驚きはしなかった。ただ、簡潔に、
「ああ」
「いまから、言う事は戯言、独り言だ・・・、・・・、・・・、思い出って何なんだろう?記憶って人にとって、どんな意味があるんだろう。公安三課ってな、犯罪組織対策課なんだけど、一般人が思っている以上に危険な所なんだぜ。世間に明るみになっていない危険な組織犯罪は後を絶たない」
「それを解決する中で、どれだけの仲間が傷つき倒れ、逝ってしまったか・・・、その度に俺は悔やんだよ、一秒でも早く、行動していたら、誰よりも早く判断をくだしていたら被害は最小限に出来たかもしれないのにってな・・・。失敗は次の成功の糧となるから、忘れようとは思わない。だけどよ・・・、大切な何かを失ってしまったときに受ける悲しみ、そんな記憶は消し去りたいと何度思ったことか・・・」
「そんな、ご都合よく、記憶なんて消すことなんかできはしないさ・・・。記憶喪失になったって良い事なんか何も無いさ・・・。ただ、苦しいだけだ。自分の存在があやふやに感じるから・・・、地面に足が付いていないようで、不安を感じる事のほうが多いな」
「ふぅ~~~ん、そうか、なら聞くぞ。シンジ、お前、そんな事を言うくせにあんまり、記憶を取り戻そうって気になってないらしいな。それはどうしてだ?」
「分からない。俺は、俺だけど。自分の心を自分で完全に把握できているわけじゃない。人間、誰だってそうだろう?自分や他人の事を簡単に理解できるはずが無いんだ」
「なら、答えを聞かせろ。仮にお前が記憶をたどる事に本気になって、その記憶の中につらい思い出があっても、記憶の詰まった箱を開けたいと思うのか?」
「ああ、勿論。開けるさ、その記憶の中すべてが辛いことだけじゃない筈だからな。一欠けらでも、大事な思い出があれば、俺は開けるよ。そして、屈しはしないさ、どんなに辛い思い出があっても・・・」
「強がりな言葉だよ、それは。でも、聞いたぞ、しっかりと。忘れるな今、自身が言った言葉の意味を・・・」
俺はなぜか、調子のいい答えを返してしまった。
現実はそんなに甘くないはずなのに。
人間の心はそんなにも単純に答えが出せるほど、安易なものじゃないのに。
本当に俺が記憶を戻したときに、どんな行動を取るのか知る事ができない。だって、欠けてしまった記憶の中にどんな思いが秘めていたのかを今は分からないんだからな。
「せっかくの夜景を見せたくてこの場所にきたっていうのに、時化た事、聞いちまって済まなかった」
「別に良いよ、きにしちゃいないから・・・」
「街の方へ行くか?どうも、シンジはここの景色を見せても感動していないようだからな・・・。まっ、本当なら、俺とじゃなくて、彼女と訪れたんなら、心境も違うんだろうけど」
「へいへい、感動屋じゃなくで、悪うぅ~、ございましてねっと」
「シンジ、食に、好き、嫌いはあるか?」
「いや、とくにないけどな」
その後、俺達は函館の山を降り、繁華街へと向かおうとした。そして、ロープウェイの乗り場近くまで戻り来たときの事だ。
詰襟の数人が慧と俺を取り囲む。その相手は男だけじゃなかった。
その内の一人が、
「貴女には用はありません、その青年を差し出しなさい」
「ざけんなよっ、誰に喧嘩売ってんだてめぇら?シンジを渡せって?やなこった」
統括らしい詰襟の男が、手を上げ合図を送るような動作をすると、数人が一斉に慧の動きを封じようと襲い掛かっていた。
なんで、俺が必要なのか知らないけど、彼女が動けないうちに俺を奪取する事なんて容易いだろう。
俺は自分で自分のみを護る術を知らない。
格闘技なんて知らないから、どうしようもない。
相手はどうみても、熟達者だ、素人の俺が抵抗した処で何にもならんだろうし。
だから、動かなかった。っていうか、慧のあまりの強さに唖然として、居るだけといった方が正しい。
「貴様らには、指一本どころか、そのくせぇ息すりゃ、シンジにはふれさせねぇぜ」
時間なんか計っていわけじゃないから、どれだけ過ぎたのか分からない。
でも、慧が俺を拉致しようとした連中を地に伏せ終わるのに長い時間は経っていない。
慧は付いても居ない汚れを払うかのように、両手を叩いていた。
それから、携帯電話を取り出すと、倒れた詰襟の男を踏み下にしながらどこかへ連絡を入れる。
警察だとは思うけど。
暫く待つ。
倒された連中が目覚める前に、慧が倒した数の倍以上の人達が集まっていた。その中の一人に、
「本郷、あとは頼んだぜ。どういう理由で、こいつを拉致しようとしたのか、みっちりはかせろよな。それと事件経過の取調べにこの子は渡さないぞ」
「えぇ、謹慎中の君が、また、そんなむちゃな事を言う」
慧はその男の口を無視して、到着したロープウェイの中に俺を入れてから、続いて搭乗していた。
間合いを計っていたのか、彼女が乗り込んだ瞬間に、筐体の扉が閉じていた。
「いいのかよ?」
「シンジが気にすることじゃない」
「それよりも、助けてくれて有難う御座います」
「素直に、そういってくれるのかい?うれしいね、ふふ。まあ、お前のもしものことがあったら、調川の頼みを達成できない事になる。それだけは避けたいんだよ」
「でもさっ、慧さんって、つよいっすねぇ」
「お前の、姉貴の佐京だって似たようなもんさ」
「あの人が?」
「あの人?記憶喪失だから、そんな風に言うのかもしれないが、実の姉弟だろう、あの人とか言うなよ。姉貴とか、佐京姉とかいってやれよ。あいつ、あれで、そうとうなブランコだから、傷つくぞ・・・。ああ、ちなみに俺や、佐京の強さは熊や虎を素手で殺せるな風に噂が立つほどらしいぜ、フフ」
慧は俺にそんな言葉を呉れるとおどけた顔で笑っていた。
なんだか、見とれてしまいそうなそんな笑いの表情を浮かべていた彼女へ顔を向けているのが恥ずかしかったので、窓の外へ顔をずらしていた。そして、思う、なぜ、あんな連中が俺を拉致しようとしたのか・・・、その答え。
分かるはずが無い、うん。
それと、展望台での彼女との会話。
記憶を本気で取り戻したいのか?その答えも今は曖昧のままだ。
~ 2011年2月28日、月曜日 ~
学会も無事に終わった。
慧も慎治君をちゃんと預かってくれていたようだ。
この一週間の間、慎治君と行動をともにしてくれていた慧は隠さず、すべてを私、愁に話してくれていた。
彼が拉致されようとした事件とかを。
その拉致理由は未解決のままのようですが。
そして、この学会での収穫は二つ、DRAMとMACという、アミノ酸構造体、所謂、蛋白質の存在だった。
二つの研究成果を発表した研究員はお互いに関係していないようだったが、その構造体の発見の第一人者が知っている方だとは思いもしなかったのです。
暫く、海外、マレーシアで研究されていた人物なのですが、現在、その方は、日本に戻ってきているらしく、場所は私の住む街と同じだったのですよ。
ですから、三戸に帰省すると、学会で発表されたことよりも更に詳しい事実を確認するべく直ぐにその方の下へ訪ねました。
そう、その研究者とは柏木夫妻。
数年前に嫡子を亡くされた方で、皇女大先輩の旧知の方々でもありました。
「はじめまして、調川さん。君の事は廉々、皇女さんから聞かされていましたよ。有望な方だという事は、その、君が俺にどんなようだい?」
「ええ、柏木司さんが研究されているDRAMと美奈さんの解析したMACについてです。その発見されたアミノ酸構造体DRAMは医学応用で副作用がまったくない安眠剤で、不眠症の方々にと、MACの方は、PTSD患者の精神的障害治療に役立てられると、学会で発表されましたが、その物質が身体にどのような影響を及ぼすのかという詳しい事は伏せられてしまいましたので、それを知りたく・・・」
「それじゃ、最初にこっちから、質問させてくれ。なぜ、そんなことをしりたい?」
「私は今、明確な答えを返す事はできません。ですが、聞かせていただければ、それも可能になるでしょう」
「ウマい、返し方だよ・・・。しょうがない。話が長くなりそうだから、分からない事があったら、説明をとめて貰ってもかまわないから、遠慮なく、尋ねて呉れよ。でさっ、話を始める前に、珈琲と紅茶どちらがすき?遠慮は要らない」
「わたしですか?紅茶ですね」
「美奈、用意してくれ。時間も昼に近いし、昼食もいっしょにな・・・」
それから、それから司さんからDRAMについて説明を受ける事になった。そもそも、DRAMとは何の略なのか?
Directive awaking Restrain AMino-acid、
日本語に訳すと指向性覚醒抑止アミノ酸という物質らしく、睡眠をする生物には必ずといってあるそうです。
司さんはこのアミノ酸を熊の冬眠が人間の医療に利用できないものかと、研究を始めて、その過程で発見したものだと聞かせてくださいました。
これはどの様な作用を齎すかと言うと、眠りを司る睡眠系神経と覚醒系神経に同時に働きかけ、睡眠状態を持続させる作用があるという事です。
通常の睡眠周期と一緒で、第一段階から、第五段階(所謂REM睡眠と呼ばれる物)までをしっかりと巡るようです。
生態維持で眠りに関係するホルモンの一つ、メラトニンと呼ばれる物が存在しますが、それとの決定的な違いは、睡眠状態が長く続いたときの、身体にあたえる影響だと教えてくださいました。
冬眠しない生物、或いは長期休眠できない生物が無理に、通常の体温で睡眠状態を維持しようとし、身体の運動機能を停止させると筋肉萎縮、後退、骨格や関節間の癒着が数週間のうちに起きてしまうが、定置以上のDRAMが分泌されると運動を止めている筋肉繊維に刺激をあたえ、衰退を抑制するようです。
定期的に筋肉が動けば関節も動くので、骨格間の癒着もなくなるとのことでした。
要するにDRAMが身体機能低下を抑止してくれると言う事ですね。
それと、人が長期休眠を摂ると身体機能が低下するのはそのDRAMを低下抑止可能な程、脳が分泌できないからだそうです。
DRAMは代謝アミノ酸で代謝の速さは脳内の保持量が少ない場合、変換消費が急速で、多い場合は緩慢であるようでした。
「どうです、ここまでの説明で、何か分からなかった事はあるかな?」
「ええ、学会の講演とほぼ同じでしたので、しっかり把握できました。では、もし、仮にそのDRAMを人に大量に投入したら、永遠に眠り続けてしまうのでしょうか?」
「答えはNOです。DRAMという、アミノ酸構造体の面白い所は一定以上を脳が保有しないとその効果を発揮しないし、更に許容上限があってね、限界を超えるとDRAM同士が攻撃為合いその数を減らそうとするんだよ。まあ、DRAMが争うと、その衝撃と言う事なのかな?面白い事に、身体が飛び跳ねたりするんだよ、ハッハッハ」
何故か、笑う司さんを私は軽い咳払いをして、止めさせていた。
笑いを堪えた彼は更に言葉を続けた。
「そんなわけで、大量に摂取したからといって持続する時間ははっきりと決まっている。臨床実験で人間はDRAMを上限まで与えた場合でも十一時間三〇分しか、眠りを維持できない。外界から、人間が生産できる量以上にそれを投降すると脳の神経細胞とのやり取りで、DRAM量が下限値より低くなると、眠りから、強制覚醒させられます。まあ、DRAMで三時間もねむりゃぁ、身体も精神も十分休んだ事になるんですけどね」
「司さんの説明ですと、定期的に定量を与え続ければ、眠りを維持させられると言う事になりますが、それも不可能な事なのでしょうか」
「さすが、皇女さんが君の事を褒めているだけのことはあるね。ああ、そうだな、そうすれば、一個人を継続的に睡眠させる事は可能だろうよ。だが、そんな事をしても、何の特にもなりはしないさ。眠っていても新陳代謝は繰り返しているから、常人と変らず歳を重ねる。残念な事にDRAMは冷凍睡眠には効果ないし、今の所、人を長期休眠させるメリットは発見できていないよ」
司さんはそこでいったん話しをやめて、珈琲を一口飲んでから、美奈さんが用意してくれたサンドウィッチを二つまとめて掴むと、それを食べ始める。
私は、彼の咀嚼が終わり、呑み込むのを待ってから、再び、質問を投げかける。
「DRAMの研究結果は十年位前から出来ていたそうですが、どうして今頃になって公開されたのか疑問を感じます、その理由を」
「発見したのが一五年前、十年前にやっと、その働きの解析に成功した。それからは臨床実験、五年前には人間に使用した場合の効果も大よそ、検証できましたよ。ですが・・・、倫理的な問題で公表すべきかどうか、悩んじゃいましたよ」
「入手経路に強い規制を布かないと、犯罪に使われてしまうのではと思いましたから。私の下で働いていた研究生達が不眠治療のため、絶対公表すべきですって、何年も懇願するものだから・・・。その生徒達に、一つの課題を与えて、その答えが私の満足いくものだったら学会で発表してもいいと約束した結果、今回に到ったと言うわけです」
彼はまた、一息吐く様に、そこで声を出すのを止めて、珈琲を飲み始めた。
空になったマグカップを美奈夫人へ渡し、御代りを要求していた。
彼女が出て行くと、彼は食べ物に手を伸ばす。
私も、お腹が空いていたので、彼女が用意してくださったサンドウィッチを食べ始めた。
食べている間、私は十一年前の涼崎春香君の事を考えてみた。
彼女の長期無覚醒は実はDRAMによる物で、誰かが仕組んだものではないのかと。
今回の翠君や、結城弥生君の件に関しても。
ただ、本当に過去のあれが仕組まれたものなのかを検証できる材料はどこにもなかった。
司さんは急に口にサンドウィッチを詰めている状態で、それを噛みながら、
「今から、言う事を信じるか、どうか、君の判断に任せるよ。研究生達には教えていなかったDRAMの特性が一つだけあるのだけどさ・・・」
彼は一旦、喋るのをやめ、噛んでいた物を再び注がれた飲み物と一緒に喉を通してから、会話を続けた。
「DRAMを摂取し、眠りについた状態で、睡眠の第五段目、レムに入ったときに、奇妙な現象が起きる。どんなものかと言うと、異常な精神感応。夢の中で現実を体験するとか、他人の考えが見えてしまうというもの・・・。ただ、臨床例が少ないので、DRAMとの因果関係が在るか、どうか、分からないし、こんな事を公表で示唆したとしても、狂った学者だと評価されるくらいなら、触れずに居た方が損はない」
私は、それを聞いて、何かを確信した。しかし、それを証明するにはどうすべきなのだろうか?
「司さん、DRAMが人体に投入されたかどうか、簡単に検出する事は可能なのでしょうか?」
「ええ、あるよ。RDRAM(ReDirect Restrain AMino acid)、転換アミノ酸ってのを投入すればいいのだけど、RDRAMと外部摂取DRAMが喧嘩して、拒絶反応を起こすから、人体内で分泌されたものか、そうでないかの判断が出来る。ただし、脳障害を起こしてしまう可能性があるから、人には使えません・・・」
「なぜ、その様な質問をするのか、判らないが、そんながっかりした顔をしないでください。他にも方法はあります。大よその場合、DRAMを摂取したときにレム状態の脳波で見られるθ波がワン・フェーズ前にシフトするんですよ。今言ったワン・フェーズはπ/30です」
私は、司さんのその言葉を聞いて、直ぐに病院に戻り、翠君や、弥生君の脳波を調べたかった。
いままで、何度も計測したことはあるが、多くて一時間程度、個人差があるのでレム睡眠になる周期を待つのには一時間半から二時間は計測を続けなくてはいけない。だから、今まで脳波におかしな点を見つけることが出来なかったのだろうと、机上の空論を頭の中で展開していた。しかし、ここで、話しを区切って、戻る訳には行かないのです。
なぜなら、DRAMよりも、MACの方が今の私にとって重要だと感じているからですよ。
慎治君に若しかすると、関係しているかもしれないので・・・、あるいは彼、もう亡くなってしまった藤原貴斗君とも・・・。
「司さん、DRAMについて、説明有難う御座いました。これだけ、聞かせていただければ、十分なほどに医療に役立ちそうです。次にMACについてお話をお願いしたいのですが」
私が、その様に頼みますと、今度は司さんに代わって、美奈さんが、説明をしてくださるようです。
「はじめに、教えておきますね。MACの存在を提唱したのは、調川さんもご存知の皇女ちゃん、えぇっと八神皇女さんなんですよ」
「精神治療の役に立つものと言う事で私は彼女に代わって、MAC(Memory information transporter Attracting Carrier)、メモリー・インフォメーション・トランスポーター・アトラクティング・キャリア、記憶情報輸送誘惑体というものに関して研究をはじめました」
それから、美奈さんは丁寧にそれについて解説してくれる。
そもそも、提唱しただけで、実際にその様な構造体が自然界に存在するなどと言う事は誰もが否定的だった。
その様な理由で無い物なら、人の手で産み出そうと開始された研究だったようです。
生物の記憶媒体である脳。
これは優れた記憶保管庫で、一度、情報が記録されると物理的に脳が破損しない限り、脳死に到っても、脳細胞が壊死しなければ情報が消滅する事が無いのは、脳医学の研究で証明されています。
では、何故、一度覚えた事を忘れないはずなのに、覚えた事を直ぐに引き出せなかったり、意図的に読み起こす事が出来なかったりするのでしょう。
一般的には脳の神経細胞同士を繋げる化学シナプスの発達が大きな役割を果たしている事は知られています。
そのシナプスを道路と例え、Aと言う出発地点から、Bと言う目的地へ記憶を運ぶ、車が在るとします。
道は単純な一直線ではなく多岐に亘り、太かったり、細かったり、綺麗に舗装されていたり、畦道だったりします。
で、ここで重要なのは車を運転する、情報の運び手。
賢い運び手も居れば、馬鹿な運び手も居る。
運転の上手な運び屋も居れば、下手な者も居る。
付け加えて、健康的な、運び手なら、もっとも正しい、情報を目的地に運んでくれるだろうし、優秀なら次に必要は情報をも予想し一緒に運んでくるし、も逆に不健康な運び手なら、目的地に到着する前に倒れてしまい、いい加減な者なら、間違った物を運んできてしまうでしょう。
しかし、健康な運び手であっても誘惑に負けやすく、目的地に到着する前に仕事を放棄してしまう事もありますし、運んでいる最中に車の燃料が切れて、補給するまでに時間がかかり、目的地に遅れる事もあるでしょう。
更に道路状況も常に、空いているとは限りません。
どれだけ大きな幹線道路でも、様々な理由で渋滞するときは、渋滞する。
情報の運び手は一人だけではありませんのでこのような状況もありえます。
要は脳という都市の中にどれだけまともな運び手が住んでいるのかによって、記憶のやり取りの容易さは大きく変わって来ると言うことですね。
で、美奈さん達の研究団体が着眼したのは情報の運び手を目的地へ到着させない事だったのです。
はじめに道路と例えたのはその運び手が目的地へ辿り着けないように、その場所に続く全ての道を閉鎖すると言う考えでした。しかし、道路網は複雑で、どの情報が、どれだけの量で、どのような経路で運ばれてくるのか予測し、封鎖すると言う行為は不可能だったようでし、その様な都合の良い物を作り出す事はできなかったようですね。
なら、今度は運び手の能力を低下させて、情報を運ぶと言う仕事効率を悪くさせようと考えました。
実験の方は順調に進み、生体の中にその様な行いをさせるアミノ酸構造体がある事を発見できたのですが、記憶の伝達速度を鈍らせる程度で、まったく、思い出す事のできない状況へは出来なかったようです。
次に考えたのは誘惑して、目的地に辿り着かせないと言う方法。
彼女達はその方針で研究を進めたそうです。
一個人の脳の中という、微小世界でも、人間社会という極大世界でも物事と言うものは非常に似ていたようで、運び手も誘惑には弱い者が多く居るようでした。
美奈さん達の研究グループは遂に、それになりうる構造物を、人口ではなく自然界から、生命体の中から発見したのです。
それがMACでした。
約十一年前に発見できたそうで、それからは今日まで、臨床実験を行って、医療に役に立つかどうかを検証していたようです。そして、晴れて、この前、参加してきました学会で発表され私の知るところになったのでした。
しかし、まだまだ、人が思うようには扱えません。
人間の脳内のどの場所に、どの様な情報が記録されているのか、どの運び手がどの情報を移動させるのか解明できていないために、現状で、特定の記憶だけを封じる事はできません。
現段階では、MACの投入量により、大よそ、何時間前、何日前、数年、もしくはそれまでの記憶全てを閉じてしまう程度の選択肢しかありません。
簡単に言ってしまえば、逆行性健忘を擬似的に作り上げるような物のようです。
まあ、それでも早期発見のPTSD治療には使えるでしょう。心的障害が発生したと思われる時間分の記憶を封鎖すればよいだけですからね。
これで、特定の記憶だけを封印する事ができるようになればPTSDになってから、時間経過が長くなった患者でも治療を受ける事が可能になるでしょう。
この分野が更に解明され、躍進的に発展すれば、多種の記憶障害、所謂に健忘という病の治療の担い手になり、既存の薬物治療や、催眠療法に変わる新機軸になる事は間違いないと思いますが・・・、やはりDRAMと一緒で倫理的な問題を解決する事は簡単じゃなさそうですね。
「調川さん、少しゆっくりとした口調で説明させていただいてしまって、ご気分をお悪くしていません?」
「いえ、その様な事はありません。整理しながら聞くことが出来ましたので、大変助かりました。司さんの説明も、美奈さんの説明もわかりやすかったので、大変、楽ができました。有難う御座います」
私は謝辞を述べながら、二人に頭を下げると、司さんは満足な顔を浮かべ、美奈さんはしとやかに微笑んでいた。そして、頭を上げた私は、
「その、MACは自然消滅しないということで、一生記憶が戻らないとの事でしたが、もし、状況によって患者の記憶の封印を解除しなければならない場合どのような方法をとるのでしょう?今は、手段が無いとか?」
「いや、そんな事はないぜ。剣と楯、両方発見したさ。WIN(waken Intelligence Networks)、ウェイクン・インテリジェンス・ネットワークス」
「覚醒情報網って名前をつけたんだけど、インテリジェンスっていうのを捜査員とすると、MACのアトラクティング・キャリアは悪組織の勧誘員。捜査員は勧誘員を取り締まって、運び手に再度、情報伝達の依頼をするって感じさ。まあ、これに関してはまだ、極秘だけどな。さて、君の欲しがっていた情報を提供させたんだ。答えてもらいましょうか、最初の俺の質問に」
私は隠す必要性が無いし、柏木夫妻は知って置かなければ、ならない様な気がしたので、順を追って説明した。
現在、八神慎治君は事故により記憶障害中であり、その障害が事故的で無いのではないか、と言う疑惑。
彼等、夫妻が涼崎翠君や、結城弥生君の事をご存知であるか、知りませんが、現在、その二人は昏睡状態だというのに、肉体の衰えが無い。
逆にしっかりと年齢分の成長をしていると言う事。
更に、故人となった藤原貴斗君の記憶障害が慎治君の時と症状が似ている事、涼崎春香君の昏睡状態が矢張り、妹と似ている点。
最後に、夫妻のご子息で在られた、宏之君の死亡の原因が特殊な薬物による物と・・・。
これらは何か一つの事件に繋がっているのではと言う疑念。それらを柏木夫婦に伝えたのです。
「そんなばかな、それはありえない。甥である、貴斗君にMACが使われていたかもしれない、って言うのか?あの子が記憶喪失になったと聞いたのは、龍輝の野郎が死んじった時だって言うだろう?MACの種を見つけたのは、・・・、・・・、・・・、彼がそうなる一週間も経たないうちだ。そんな簡単に情報がもれるはず無いっ!」
司さんは本当にありえないという、驚きの顔で、その様に断言し、
「DRAMでしたって、そうです。葵チャンの長女の春香ちゃんが、事故にあったことも知っていましたわ。でも、DRAMの情報は極秘中の極秘で、研究も海外で行っていて情報漏洩が無い様に厳重な体制で行っていたの。それが私達の知らない間に日本に入ってゆくなんて有り得ない事よ。それに、宏之が・・・、ひろゆきが・・・、事件にだなんて・・・」
美奈さんは、何かを思い出すように泣き始めてしまった。
二人が教えてくださった内容に興奮してしまって、冷静さを欠いてしまっていたようです。
私の余計な一言、宏之君の死は意図的に仕組まれたものではないかと言う勝手な想像が彼女を泣かせてしまったのだと思いました。
それが顔に出てしまうと、司さんは私のせいじゃないと言う、動作を見せてくれていた。
「司さん、お願いがあります。WINを譲ってください。慎治君がもし・・・、」
「判ったいいだろう。今の所、健康体に投入しても無害なのはわかっているから、慎治君が仮にMACに犯されていなくても、問題ないはずだから。ただ、準備するのに少しばかり時間が掛かる、最低でも一週間は必要だ。それまでまってくれ。それと、WINを使ったからと言って直ぐに効果が現れるかは個人差があるみたいだからその事を念頭に入れておくように。最後に忠告しておく、君は医者だ。医者以上のことをするな・・・」
一体どのような意味を込めて、司さんは私にその様な事を言ってくれたのか判りませんでした。
もしかして、彼は私が事件と決め付けたその真相の近くに居るのかもしれません。
ですが、今の私にとってそれは大した事ではありません。
何故なら、率先して、私が遣らなければいけないことは、慎治君の記憶を取り戻す事。
大切な方が目覚めないまま、毎日、己に渇を淹れ続ける結城将臣君の心の痛みを拭い去ってあげる事ですから。 そして、私は、司さんに連絡先を伝えると即急に自分の勤め先へと戻っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます