第五話 愁の予 想

~ 2011年1月5日、水曜日 ~


「もしもし、愁だが、新年明けましておめでとう御座います、焔君。それと久しいですが・・・まだ、正月休みでしょうけど、今から時間を作っていただけないでしょうか?」

「愁兄さんっ、本当にお久しぶりです。兄さんの方から電話を下さるなんて、一体どのようなご用件で?」

「法曹である君の伝で極秘裏に、且つ法的に相手の所在を調べることの出来る方、誰かご存知でないでしょうか?」

「それは正当な仕事の依頼と思っていいのでしょうか、兄さん?」

「ええ、手付金と、成功報酬で二百くらいは出しても良い。詳しくは会ってから話したいのだが・・・」

「ええ、一人だけ居ますよ。私の後輩であり、兄さんも良くご存知の方です。では喫茶店トマトで14時集合ということで、良いでしょうか?」

「ああ、判った・・・、・・・、・・・、いや、別の所にしよう。そうですね、花水木という場所にしましょう」

「どうしてです?」

「理由はそこで話します。時間は同じでそこで会いましょう。では後ほど・・・」

 愁が電話の受話器を下ろした頃、慎治が歯ブラシを銜えたまま、

「ひゅうへんへい、はれとははにへふた?(愁先生、誰と話していたんですか?)」

「人と話す時は、口に物を詰めて話さない・・・、ですが何を言っているのか判ってしまうのは共同社会生活を昔から続けている日本人だけでしょうね、以心伝心」

「そんなもんなんすかねぇ?で」と台所の流しで濯いだ口で、聞き返し、

「ええ、私の弟に新年の挨拶を・・・」

「そうっすか・・・?ちっ、もうこんな時間かよ。うんじゃ、おれパートにいってくるわ。先生もトマトに献金に来てくださいよ」

 慎治は首にかけていた手ぬぐいで、口元を拭くと、其れを椅子に掛け、玄関へと歩いていった。

「では、夕食はそこで一緒にとりましょう。慎治君の仕事が終わりそうな頃に出向きますので」

 愁の返答に後姿で、手を上げ『了解した』と伝え外へ出てゆく慎治だった。

 慎治を見送った後の愁は書斎に入ると椅子に座り組んだ手を腹部へとあて、天井を眺めながら思考を巡らせた。

〈私は医者であるから、否応なしに、人の死に多く出くわしてしまう。

しかし、それは医療機関の中でに、於いて、という限定的な場所のみです。ですが、その場所とは全く違う所であまりにも多くの方々が亡くなっている。しかも、私の大切な方の弟で有る慎治君の周りで。果たして、これを単に偶然と片付けてよいものなのでしょうか・・・。今は慎治君の現状対処の件と、もし、彼が記憶を取り戻した後の考えなくては・・・〉

 愁は考えを纏めると、

「焔君に会う前に私も今日中に終わらせなくてはならない仕事を片付けてしまいましょうか・・・」

 そう言い残し、自宅から勤務先へと向かっていった。



 愁先生も知っているけど、何もしないでじっとしているのが嫌だった。だから、何でも良いからといって仕事先を探し、行き着いた場所が何の因果か知らないけど、今、喫茶店と偽るファミレス、トマトだった。

 この場所は俺の記憶に埋もれちまっている親友だった男が約三年仕事をしていた職場だった。だが、そんな事を俺が分かっているはずもない。

 ここに決まる前にも何件か、歩き渡っていた。その中に大学時代俺が働いている場所にも無意識に足を運んでいた。だけど、そこで働く気にならなかったのは店長と反りが合わなかったからだった。

 俺が居た頃の店長だったら働いていたかもしれないけど・・・、とそんな事を考えられる様な状況に俺はいない、記憶喪失だからな。

 記憶があったころ、ここには何度も来ていた。だから、人事が変わらなくて店員の何人かは俺の事を知っているはずだ。

 然れど、仕事前の挨拶の時、ここで働いている全店員と顔を合わせた時、だれも驚きはしなかった。

 実は、俺が来ていたころと違って、俺の知っていた連中が全員異動、または辞めて、本当に俺の誰も知らない連中だけなのか、

 それとも、唯単に俺の事を忘れちまっていて素で普通に接してくれているのか、

 あるいは、誰かの根回しで、俺が記憶喪失な事が伝わっていて、其れ相応の対応をしてくれる様にと頭を下げに来てくれた人物が居るのだろうか、

 などと色々と探索してしまうけどな、でも、どれにしろ、現状で相手が俺の事を気遣いながら接していると言う事を俺が勘付かなければ、自身負い目を感じず、精神的な負担が掛からないから仕事がし易い。

 有り難い事この上ない・・・。

「八神さん、ちゃんと休憩を取ってください。店長として、私の監督責任を組合の方たちにとやかく言われたくありませんので」

「何も考えたくないくらい、忙しいほうが俺にとっては好都合なんだ。だから、気にしないでくれって毎回お願いしているだろう?それにこの状況で一人でも抜けるのはまずいんじゃないのかな」

 俺は店長にそう言って、呼び出し席番号の点灯している座席へと向かった。

 俺の我侭にむっくりと可愛らしく膨れる年下の店長の桜木夏美。

 慎治が忙しく働いているその頃、調川愁は神無月焔と花水木という紅茶専門の喫茶店で会っていた。

 彼ら二人は異母兄弟の関係にありながら、非常に仲のよい間柄だった。

「愁兄さん、草壁君を連れてきましたよ。兄さんもご存知でしょう?」

「お久しぶりです、調川先生。弁護士なりたてで、仕事のイロハもまだ、分かっていないですが。刑事だった頃の勘は鈍っていないと思います。で、僕にどういったご用件でしょうか」

 愁は始めに注文することを促し、その品が運ばれ、一杯口に運んでから語り始めた。

「こちらのディレクトメールの発行会社の存在の有無。存在しているのであれば、その登記簿が本物かどうか、関連会社など出来るだけの情報が欲しい。もう一点。私の知り合いに直接頼めば手っ取り早いのですが、いろいろと事情がありまして・・・。こちらのディレクトメールから微かに香る匂いの成分分析をお願いしたいのです」

「それなら、私の知り合いに頼みましょうか、兄さん」

「いいえ、焔君には別件でお願いがありますのでこの件は全て、剣護君にお任せします。期間は出来るだけ早いほうがいいですね・・・。二週間くらいでどうでしょうか?」

「ええ、大丈夫でしょう。では、必要経費その他は調査が終わり次第、受け取ることにします。それと、成功報酬が僕の身上ですから、手付金は一切受け取りません」

「それは残念です・・・。まあ、それが君の性格なら仕方がないのでしょう・・。ではよろしくお願いします」

「はい、依頼をお受けいたします。では、早速本件に取り掛かりたいので、先に失礼させていただきます。神無月先輩、また後ほど」

 草壁剣護という男はそう二人に告げると、花水木を後にした。

 それから、愁は焔になぜ、このような事を調べようと思ったのか、聞かせていた。

「兄さん、それはほんとうですか?」

 かなり、突拍子もない事を聞かされているが焔は冷静にそう返し、

「あくまでも、これは推論です。証拠がそろえばその信憑性も高まるでしょう。焔君は私とは違う場所で周囲の状況を把握してください。私も、君も家督を継ぐという全権を捨て家との繋がりを断ち今に至りますが、私達の家系に関することなので・・・。それと私も出来るだけ探して見ますが、プロジェクト・アダムとは何なのかを探って欲しいのです」

「兄さん、なら、八神君のご家族の身辺をしっかり護らないと次に誰が狙われるか分かりませんよ。将かそんなことのせいで、藤原君や、藤宮さんが・・・。それが本当なら、非常に許せないことですよ・・・。分かりました。本家には気づかれないように情報を集めましょう」

「さてと、用件はこんなものです。今日は将来私の義弟になる慎治君と夕食を彼の勤め先でいただくことになっているのですが、君はどうします?」

「はい、ご一緒させていただきます。その時間になったら連絡をください、兄さん。で、どうなんですか、八神君の方は」

「以前、藤原貴斗君を診ていた時と一緒で本人が記憶を取り戻すことに積極的じゃないようです」

「そうですか・・・、あの頃、藤原君には多くの支え、友人や藤宮さんのような存在がありましたが、八神君には・・・。私達でどうにかできるのでしょうか?」

「そうですね、こういう状況下では親友などの支えは家族よりも強いときがありますから・・・。ですが、私には彼を健全に戻すためにも責務があります。佐京が心を痛めているのを見るのは忍びなく、辛いですからね・・・」

「のろけですか兄さん、ふぅ~」

 愁は腕時計で時刻を確認すると、いったん別れようと、焔に告げ、喫茶店を出て行った。

 愁先生達がその様な会話をしていたなどと知らない俺。

 書き入れ時の時間が過ぎても、客足は途絶えることはなかった。だが、今は全員が立ち回らなきゃいけないほどの状況じゃなかった。

 それでも俺は手を休めずにレジの前で会計を済ませる客の対応についていた。

 お札を先に渡し、機械仕掛けの小銭出しから出てきた硬貨を目で素早く数え、こんな機械に頼っていちゃ、人間馬鹿になるよなと思いつつ客に金額とともに渡していた。

 客が背中を向け玄関に向かうときだった。

 俺の背中に刺すような視線を感じる。殺気の様に・・・。

「八神さん、今度こそ休憩取っていただきますよ。店長命令です。言うこと聞いて下さらないのであれば減給ですからね」

「それは越権行為だな。休憩取る、取らないは俺の自由。桜木店長は俺のことなんぞ、気にせず店長が今やらなきゃならない仕事してくださいよ」

 店長はお冠な様子で俺に近づき、

「いいから、休憩しなさいっ!」と言いながら、俺の腕をつかみ、強引に休憩室の方へ歩き始めた。

「ああっ、わかったって。休むから手を離して呉れよ・・・、ほんと、店長、女のくせに男と同じくらい腕っ節が強いんだから・・・」

「お褒め頂光栄ですわ、八神さん」と言葉は穏やかに、表情は怒りを無理やり抑えた笑みを零していた。

 休憩室に来ると、店長自ら俺に珈琲を入れてくれ、更に遅い昼食として、サンドウィッチを出してくれた。

 あまり、この時間帯は多くを胃が受け付けてくれないのに、その量は一人前以上あった。

 これは店長が俺に対する当て付けかと思いきや、俺よりも先に店長の手がそれに伸びていた。

「えっ、何、店長もお昼取らなかったのか?」

「社員やパート、アルバイトの人たちばかりに任せて、私だけ何もしないのは、私の性分じゃないですからね」

「流石、上に立つ人は違うな」

「ほめてくれたって、先程の減給の件は取りやめにしませんよ」

「マジかよ、本気だったのか?大人気ない店長だな、まったく」

「うそです。八神さんにはここ本店の経理のほうも担当していただいているので、今の分でも少ないと思っているんですけど・・・。お父さん、あ、いえ、社長、本当は八神さんに店舗全体の経営や企画をやってもらいたいようなことを言っていましたが、その件の答えはまだ、出していただけないんですか?」

「どうして、そんな話が出てきたのか知らないけど、俺には無理さ。才能なんてありはしないよ・・・」

 俺はそれ以上言葉を返さず、食べようとしていたサンドウィッチを摘んだまま、下を向いてしまった。

 店長の方も俺にどんな言葉を返していいのか分からなかったみたいで、暫く、沈黙が続き、無言で食事が進んでいた。

 非常に気不味い雰囲気が漂う。

 自分がもどかしい。

 記憶喪失の前の俺だったら、どんな風に受け答えるのだろうか、明るく返せたんだろうか、それとも今のような感じになってしまうのだろうか・・・。

 記憶喪失であることを意識してしまったために、俺の表情に更に影が差したようで、店長が不安を顔に表し始めてしまった。

「何、そんな時化た面してんだ、店長?にあわねぇな」

「八神さんのせいですよ、それにどうして、八神さんこそ、そんな顔をするんですか?」

「さあなぇ、俺にもわかんねぇのさ・・・、記憶喪失だから・・・」

「えっ?」

「なんでもないさ、さてと今日の仕事もあと少しで終わりだ、残りもせっせとがんばりますかね、店長・・・」

 俺はそう答えて、握っていたサンドウィッチを口の中に詰め込むと、店長よりも先に休憩室から出て行った。

 その時、彼女がどんな思いで俺の背中を見つめていたかのなんか、知る由もないし、ましてや、桜木夏美が俺の過去と接点を持っている人物だってことを分かる事もできはしなかった。

 記憶喪失だから・・・。

 午後七時、パートを終えた俺は、愁先生と一緒にトマトで夕食をとっていた。

 先生以外に先生の弟で神無月焔という、人物も同席していた。

 その人は俺の大学時代の先輩だったらしいが、その先輩との接触によって、俺の記憶が突然目覚めることもなかったし、先輩が聴かせてくれる大学時代の思い出話に感慨耽る事も出来なかった。

「そうですか、残念です。私の話を聞けば、君も少しは記憶を取り戻してくれるのでは、と思ったのは私の驕りだったようです・・・。ですが、君と過ごした大学時代はとても有意義なものでしたよ、本当に・・・」

 焔先輩は俺の大学時代の交友関係の広さとかを聞かせてくれたけど、

その中には俺にとってもっとも大切だったはずの連中が含まれていなかったようだった。

 それは先輩が意図して口にしただけなのか分からない。だが、その名前を告げられても俺は何にも感じないのだろう・・・、多分。しかし、本当にそうなのだろうか、親友たちの名前を耳にしても、俺の心は何にも感じず、素通りさせてしまうのだろうか・・・。

 でも、所詮今のこの思考も俺の中の無意識部分が勝手に巡らせているだけの思い。

 表面上の俺が知ることなど到底かなわない。

「どうかしたのかい、八神君?」

「いえ、何でしたっけ?」

 俺の無意識が何かを思っていた所為で、表層の俺も呆けていたみたいだった。

「ですから、気晴らしにどこか遊びに行きましょうといったのです」

「えっ、誰と?」

「私とですが」

「遠慮する。どこにも遊びに行きたいなんて思わないし、今は・・・、今は何も考えず、仕事だけをしていたい気分だから・・・」

 俺がそんなことを言うと、愁先生は思慮深い顔のまま、鼻で溜息をついていた。

「まあ、この通り、慎治君の心が中々前向きになってくれないから、大変ですよ私も。さて、夕食も済ませましたし、帰宅しましょうか・・・」

 愁先生は会計伝票を見ながら、立ち上がり、ロングコートを腕に乗せると、俺が先に出るようにと目で促していた。


~ 2011年1月7日、金曜日 ~

 済世会病院の朝会を終えて、各々職員が持ち場に移動し始めた頃、同じように動き出そうとしていた、調川愁の腕をつかみ、真剣な表情で問い掛ける八神佐京。

「愁、慎治は・・・、慎治はしっかりと生活しているのであろうな?」

「何を聞くのかと思えば、私の事を信頼してくださらないのですか、佐京?」

「いっ、いやそんな事はないのだが、あいつの顔を、あいつの姿を見ないと落ち着かないのだ」

「それだけ、佐京が慎治君のことを大切に思っているからでしょう?ですが、過剰な愛情は彼を傷つけますよ。ですから、今は、慎治君の記憶が戻るまでは我慢してください」

「あっ、ああ・・・。お前はどう思うのだ、愁。本当に慎治は記憶を取り戻した方がいいのだろうか」

「その様なことを佐京が言葉にするとは・・・」

「ちっ、ちがうぞ、愁。私は慎治に記憶を取り戻してもらいたい、ちゃんと私を姉であると認識して欲しい。だが・・・、だが・・・」

「佐京、貴女の葛藤理解できないわけじゃありません。記憶を取り戻せば・・・」

 愁は言いかけの途中で、同僚に呼ばれ、佐京に軽く、挨拶をすると、彼女の場所から立ち去った。

 愁は午前十時少し過ぎから始まり、午後二時を回るとか、回らないかの時間まで、人工心臓の交換手術の執刀医を勤めていた。

 無事、それを終えた、彼は手袋など身に着けていたものをゴミ箱に捨てると、何かを思う風なしぐさのまま、術室から廊下へと歩き出していた。そんな彼を追いかけるように一人の同僚が、

「流石、愁、見事な捌きだったぜ。感心しちまうよ」

「補佐が、君だったから、これだけ早くできたのです。無論、他の方の支援もあったからこそ・・・」

「謙遜、謙遜。それよりも、来月の構造生物応用医学会、お前も出るんだろう?もう出張手続き済ませないと事務の連中うるさいぜ」

「君とちがいまして、すでに準備していますよ。その言葉、そのまま、直行、君に返します」

「・・・、ははは、何を言っているんだね、愁。すまん、いっておきながら、まだやってねぇ。それよりも、309号室の患者等の様子はどうなんだ?今年で何年になる?」

「今年で六年目です」

 愁と直行という医者がいう患者とは涼崎翠と、結城弥生であった。

 六年前のこの時期に、その二人は交通事故に遭遇し、重傷を負ったものの、何とか一命は取り留められた。

 身体的な回復は順調だった。

 事故による傷痕も、整形外科医奇才、直行によってほぼ、きれいに拭い去られていた。しかし、どうしてなのか、二人とも一度たりとも、今まで目を覚ましたためしがなかった。

 脳波は穏やかだというのに・・・。

 まるで涼崎春香の再来を思わせるように。しかし、彼女よりも年月は倍も長かった。

「お前としての見解はどうよ?」

「必ず目覚めさせます・・・、私は諦めませんよ」

「まあ、せいぜいがんばれや。俺のできることはもう済ませちまったからな・・・。後は目覚めるように祈ることぐらいだ」

 愁は直行の言葉に返そうとしたが、思いとどめ、分からないくらい軽く、溜息を吐くと、歩く速度を速め、医局へと向かった。

 医局には愁と一緒に昼食をとろうと待っていた佐京が待っていた。

 ミルで豆を丁寧に引き、その砕いた粉で入れたての珈琲を彼と、医局で仕事をしている同僚たちに配ると、彼のその部屋に置かれている簡易食卓へ彼を手招きし、彼女の作ってきた、弁当の包みを開いていた。

 先ほどまで行っていた愁の施術の様子を聞きたかった佐京。だが、彼女は彼が食事中に仕事の話をする事を嫌っているのを知っていた故に、それを尋ねることを我慢した。

「佐京、先ほどのこと、気になるのですね。それについては動画記録もある事だし、後でゆっくりと」

「見透かされてしまったな、私の今思ったこと・・・。それよりも、愁。来月学会で家を空けるのであろう?その間、慎治をどうするつもりだ?独りでおいておくというのであれば・・・」

「だめですよ、彼の記憶が戻るまで、または、私の憶測が、憶測じゃなくなるまでは面会は許しません」

 愁の言葉にあまり不機嫌な顔を作ることのない佐京がそんな表情を彼に見せていた。

「そんな、顔見せてもだめです。学会の時には彼も一緒に来てもらいます。彼にとっては何の興味もわかない場所でしょうけど」

「なら、私も行くことに」

「我侭を言わないでください、貴女らしくない。それに学会の出席メンバーは決定していることです、今更変えられませんよ。仮令、皇女大先輩から院長へ口添えがありましても」

 今度はその言葉に落胆色を顔に塗る佐京。そして、どう答えたら、彼女の機嫌を損ねた顔を元に戻せるかを悩む愁であった。

 何とか機嫌を戻してもらって、昼食をとり終えて、それから愁は309号室へと足を運んでいた。

 涼崎翠と、結城弥生の様子を窺うために。

 病室へ足を踏み入れた愁は今まで会った事のない人物と面会し、

「こんにちは、そして、はじめまして、こちら二名の主治医を勤めさせていただいています、調川愁と申します。どちら様のご関係の方でしょうか」

 愁に答えるように相手は静かな物腰で、座っていた椅子から立ち上がると、頭を下げ、あげた後に、

「結城弥生の父親の結城将嗣です。長い間、一切娘の見舞いに来ることのできなかったものですが、どうかよろしくお願いします」

 結城将嗣と名乗った男はずれ掛けた眼鏡の両側端を左手の親指と中指で直すと、再び、愁にお辞儀をしていた。

「貴方が、弥生さんの・・・。将臣君から聞かされていましたよ、海外でお仕事されていると、今回は一時帰国なのでしょう、お見舞いに来てくださったのでしょうか?それとも」

「いいえ、一時ではなく、任期を終了しての帰国ですので、これからは毎日とは行きませんが、娘のところに顔見せるくらいはできるでしょう・・・。ですが、ずうっと放って置いてしまったので、年頃の娘にどう接してよいのか・・・。今はこのような状況下であるようですが・・・」

 しかし、そうは言うが将嗣は愁にうそを吐いていた。

「今は、弥生さんが目を覚ましてくれることだけを祈ってください。親子の溝を埋めるのはその後からです・・・。私はいったん席をはずしますので、何かありましたらおよび下さい、では」

 愁はそう言い残すと、将嗣の前から離れていった。


~ 2011年1月11日、火曜日 ~

 愁は慎治が休憩している時間帯を見計らい、彼に電話を入れていた。

「お忙しい中、申し訳ない」

「本当に忙しいのは俺じゃなくて、愁先生のほうだろう?で、どうしたんですか?」

「今日は友人と待ち合わせがありまして、帰りが遅くなるかもしれないので夕食は先に摂って頂きたいと」

「なら、俺も、ここで暫く働いているさ。だから、先生も用件が片付いたらトマトに遊びに来てお店の収益に貢献してくれると嬉しいな。職場の同僚とかを連れてさ」

「皆さんとの時間の都合が合えばいつでもそうしましょう。まあ、そういう訳ですが。用件を終えたら、慎治君の職場に行きます。では後ほど」

 要件を告げ終えた愁は、医局内の電話の受話器をあるべき場所へと戻していた。

 愁は慎治に友人と口にしてはいたが、草壁剣護の事であった。

 数日前に依頼した一件の経過報告である。

 本日、運良く愁は重要な受け持ちが特に無く、暫くの間、病院から離れても特に問題が無かった。

 その様な理由で、彼は同僚に一、二時間席を外すと告げ、医局を出てゆく。

 周囲に気を配りながら、八神佐京に気付かれない様に済世会の表に出ていた。

 車に乗るときも、病院内の敷地から出るときも、念入りに周囲の様子を窺い目的地へと走り出させる。

 佐京に悟られず出られた事に愁の詰めた緊張が解け、小さく、溜息を漏らす。

 彼女が車を運転できないことを知っていた愁はTAXなどが追ってこないかと後方鏡を覘いた時、自分の目を疑った。

 鏡に映る畏怖堂々と両腕を組み毅然とした態度で座る人物がいた。

 幻覚を観ているのではと思った愁は運転中だというのに一瞬片手で顔を覆い、軽く頭を振り、再度、鏡の中を確認していた。

 紛れも無く、彼女だった。

「愁、どこに行くつもりだ?勤務中だぞ?しかも、私に黙って」

「なぜ、私は気がつかなかったのでしょうか・・・」と内心の動揺を言葉に出さず、冷静に彼女にその言葉を伝えていた。

「吾にとって、気配を消すことなど造作も無い。フフッ、それよりも、吾が先に質問したのだぞ、愁?答えを聞かせてもらおうか?うぅん?」

 かなり横柄な態度で愁に言い返す佐京。

 かなり彼女はご立腹な様だった。

 逆らえないと思った愁は、諦め、

「貴女も、本当に困った方だ。私の行動に疑いを持つとは・・・。仕様が無いですね、このまま一緒に行きましょう」

「疑っているつもりなど無い。隠し事をされるのが嫌なのだ。愁も分かっていよう、私の性格を・・・」

 佐京は愁へ不満そうな表情を作った後に、申し訳なさそうな顔を見せ、それ以降、言葉を噤んでしまった。

 愁は目的地に急ぐために、運転に集中することにした、時折、後部座席に座る佐京を後方鏡で窺う彼。

 その折、人前では見せることの無い、思い詰めた表情。医者であるため清潔である事を心がける彼女。

 仕事中はマニキュアを塗っていないが、それでも手の行き届いた綺麗な爪。

 その親指の爪を彼女は噛む。

 彼女の婚約者である彼は思う。

 佐京も相当精神的な不安を抱いているのではと。

「佐京、どうしたのですか、その様な浮かない顔をして・・・」

「いまさらながら、思い知らされたのだ。これほどまでに辛いとは・・・」

「何をです?」

「愁、お前は藤原貴斗殿を知っているな?」

「ええ、いろいろと手を焼かされましたからね・・・。故人を悪く、言いたくはありませんがね」

「・・・、・・・、・・・。貴斗殿も記憶喪失であった時期があるのを覚えていよう?その時の心友翔子の心の痛みをだ・・・」

「そうでしたね・・・。翔子さんも、貴女と同じくらい、人の心を数として測ってはいけないのでしょうけど。その弟、貴斗君を大切にする気持ちは、佐京以上だったように思えます。貴女には黙っていましたが、その思いの強さが、何度、彼女を自殺の感情に走らせたか・・・」

「それは、まことか、愁」

「ええ、嘘ではありません。ただ、彼女は貴女の言葉が、それをとめてくれたとも言っていましたが・・・」

「記憶に無い」

「時に、些細な言葉でも人の心は動きます。それが、幸であれ、不幸であれ・・・」

 愁がそこで言葉を止めたのは目的地、今から会う人物の待ち合わせをした場所に到着したからである。

落合の場所は東京都の埼玉県境にある図書館だった。その人物は大学時代佐京も何度か面識はあった人物だ。

 草壁剣護の途中経過報告によると、

1.ディレクトメールに付着していた香料が判明した事。

剣護の協力してくれたのは東京薬科大学の林友則教授とその下に就く、研究生達だった。

 彼らの成果から得られた、化学式と、それがどの様に人に作用するかという二点である。

 その結果から、剣護は警視庁麻薬捜査課に似た様な、薬が犯罪で使われていないかと調べてもらったそうだ。

 そして、分かった事は最近、イタリア系マフィアから出回り始めた、新しい製法の合成麻薬だという事。

 その麻薬の特性は常駐性が無く、使用する物によって、症状がまちまちな幻覚を見るという。

 更に、男に対しては強い性の欲求を起こさせ、女に対しては極度の食欲をそそると言う。

 軽く匂いをかぐだけでも、その効果は少なからず現れると言うこと。しかし、ある一定量を超した服用をすると死に至るという。

 その新型合成麻薬の名を麻香リリムと言うらしい。

2.ディレクトメールの差出人。

 架空会社ではなく、登記簿もしっかりとあり、登記簿記載の住所に向かえば、しっかりと会社はあり、成人向けの動画のディレクトメール案内は事業の本の一部だとわかった。そして、剣護が、愁から預かった郵送物も、確かにその会社がディレクトメール代行業者を経由せずに流しているものだと言うのだ。

 ではなぜ、正規で配布されているそれに、新薬が染み付いていたのかだ。

 それを今、剣護が追っていると愁達に、調べた事を書き留めたPDAを操作しながら、丁寧に口頭で伝えていた。

「ええ、そちらの薬に関してはある程度、予想はついていましたて、確認の意味での調査依頼でして・・・、本件は後の方です・・・。期限はまだあります。しっかりと調べてください、よろしくお願いします」

 愁は深々と剣護に頭を下げてお願いする姿勢に、頭を下げるなどとよしてくださいと言う風に剣護は手を振って愁に示していた。

 佐京は剣護の口頭報告の最中それを聞きながら、脳内で整理し、何かを考えている風な仕草を取っていた。

 剣護が、愁の依頼の続きをする為に図書館から出て行き、その二人が同じように館内から外へ、愁の車に乗り、それが動き出してからも、暫く、佐京は黙っていた。

 愁は佐京が言葉を出すまで静かに待っていた。

 彼女の言い出しそうなことが、大よそに予想できていたから。

 今から彼女が口にするのであろう言葉が他者に聞かれたくないと彼女が思っていることに気がついていたから、愁以外の存在に。

 そして、佐京は、

「私は・・・、私はそれでも良かった。それでも、一緒に私達の家にいて欲しかった。右京とて多分、いや、絶対同じことを思うだろう・・・。無理に我慢せずに、私、私達に吐き出してしまえばよかったものを・・・」

 愁は黙って彼女の言葉が終わるのを待った。

 一体、佐京は何を言っているのだろうか?

 それは、先ほどの愁と剣護の会話中で、愁が、『なるほど、やはりその麻香の為に、慎治君は常々・・・』と続きの言葉を出そうとしたが、佐京が隣にいるのでそこで言葉を止めていた。

 しかし、彼女が彼の口にしたことをそのままにするはずが無く、その後に続くことを白状させていた。

 それは慎治がリリムの香気を吸って、性的に狂い、姉妹を慰め物として、手を出そうとしていたこと。

 だが、慎治はその衝動を無理やり押し殺していた、その行為に至れないために伴う、半端じゃない肉体的な苦痛に耐えて。

「なぜ、慎治は私を頼ってくれない、私たち家族を・・・。どうして・・・、慎治が責め苦を味わうくらいなら、私など・・・」

 佐京が次の事を口にする前に、愁が遮る様に淡々と言う。

「馬鹿なことを、考えてはいけませんよ、佐京。貴女が、どれだけ、慎治君のことを大切に思うか分かりますが・・・、しかし、それでも、今佐京が言い出そうとしたことが現実になるなどと、あってはいけません。いいですか、佐京?今の貴女の考えは未来の慎治君、記憶を取り戻した後の慎治君の事をまったく考慮に入れていません。もし、仮に慎治君が貴女や右京君を穢した状態で記憶を取り戻したら、一体、彼は何を思うでしょう。自分を酷く責めるでしょうね、間違いなく」

「どんなに、記憶喪失で、普通だったら気がつく事などできない麻薬の影響で及んだ行為と言う理由があったとしても。そんな形で、彼が自分を取り戻したとしても、彼の心を深く傷つけるだけです。その様な状態に陥ったら、彼はどうするでしょうか?私達の前から姿を消してしまうかもしれない・・・、最悪・・・自ら死を選ぶかもしれません」

「佐京、その様な事になっても、貴女はいいと言うのですか?本末転倒甚だしい。冷静になってください。いつもと同じように毅然としていて欲しいものです」

 佐京は愁の言いに、悔しそうに唇を噛んだ。

 姉弟である自分より、彼の方が、正しく、弟の事を理解しているのだと思い知らされたからだ。

「愁のほうが、今の私よりも、慎治の事を理解してくれていると言う事実は凄く、癪に障るが認めないわけにはいかぬのだな・・・。記憶が戻るまでは愁に任せる。だが、誓ってくれ、必ず・・・、必ず、弟の、慎治の忘れてしまったものを取り戻してくれると」

「ええ、愛する貴女に誓って、いずれ、私の義弟になる彼ですから・・・」

 愁は悠揚な表情で佐京に言い返すと、彼が行った事を耳にした彼女は嬉しそうに微笑んでいた。そして、その会話の終わりで愁の運転していた車は職場の駐車場へと戻ってきていた。

「時に愁、今日の夕食、慎治の店で摂るのであろう?」

「なぜそれを」

「剣護殿と会う前に、慎治と電話で話していたであろう?会話の流れから大いに予想できるぞ。吾もついて行くからな、拒否の意は一切受け付けぬ、いいな?」

 今までの会話の事など忘れたのか、再び、大風な構えで愁に告げる佐京。

 両手で握った操舵へ、頭を押し付け、項垂れる彼だった。

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