第 二 章 非ぬ現実

第四話 記憶の無い軋轢

 帰国してから、一週間後。

 記憶を失う前、あの事故に遭うまでに勤めていた会社から、連絡があって、今すぐにでも復帰して欲しいとのことだった。だが、現在進行形で、俺は記憶喪失だ。

 仕事なんて、前の様に出来るとは思えなかった。

 故、ありのままの現状を伝えた積りだけど、それでも出てきて欲しいと、懇願された。なのに・・・、


 出勤一月後。

 家にいて、一日中、今は偽りだって思っている家族といるよりも、仕事をしている方が気分を紛れさせられると思って働き戻ったけど、そんなに世の中、現実は甘くないみたいだぜ、俺にとっては・・・。

「えぇ、やだぁ~。アレって本当に八神くんなのぉ?」

「そうよねぇ。だって、ちょっと前までのやっくん、なんでもてきぱき熟せちゃって、もっと面白い人だったのにぃ。カッコいくて、好きだったのになぁ・・・」

 同僚だったらしい、女達が、俺の陰口、いや、聞えるからそうじゃないんだけど、其れを耳にした俺は握っていたボールペンの先を神経質そうに机の上に打ち付けていた。

 だけど、俺のそんな行動も気にしていないのか、女達は、まだ会話を続け、流石にむかついて、そいつ等に声を投げようとした。

「君たち、判っているのかね?今、八神はあれなだよ、あれ。少しは気を使ってやったらどうなんだ?それにそこで無駄話をしている暇が有るなら、外に出て営業成績上げてきなさい。まったく・・・」

 そう言ったのは俺の上司だった。

 其れを聴いて、声に出そうとした言葉を飲み込み、小さく息を吸っていた。

 上司様々、持つべきものは賢明な上司とはよく言ったものだ・・・。

 なんて、思っているのも束の間、数日後、悉く、その思いは裏切られる。

 頼まれていた書類が出来上がったから其れをもって上司に見せると、彼は煩雑にその紙切れを眺め、読み終わると整えないで、机の上に投げ置いた。

「八神、もう直ぐ、二ヶ月目だ。だが、なんだね、これは?こんなもの、君の仕事じゃない。以前の君にとって、片手まで終わる仕事のはずが、この程度のものしかできないとはな。たかが記憶喪失程度で、仕事能力が落ちるとは思はなんだ。さがっていいぞ」

 見下すような言いで、腕を組んでいる上司は言葉を綴ると、顎で、出て行けと示していた。

 その上司の顔に嫌気が差し、背中を向け、いらだたしげな表情を作ると、その部屋を後にしていた。

 酷く裏切られたような感じがして、精神が欝気味になり始めやがった。

 部屋に戻らず、屋上に向かい、その外に出て、ぼんやりと街を眺めようとしたが、目に飛び込んできたフェンスが、視覚と脳を刺激し、悪夢を思い出させる。

 蹲り、手で口を押させると、吐き気を催した。だが、出るのは胃酸ばかり・・・。

 そんな状態の俺に更なる追い討ちが迫ろうとしていた。

 それはこの外資系会社に勤めてから、ずっと、俺の事を敵視していると言うような奴で・・・、しかし、今の俺にとって、以前の記憶が不鮮明な状態ではそいつとの関係なんて分かるはずもなかった。

 嘔吐最中で、蹲っている俺の所へ、足音が近づいてきた。そして、其れが止む頃、

「墜ちるところまで、墜ちたな?ええ、八神さんよ。記憶喪失だか、なんだか知らないけどさぁ~~~、そんなことで、仕事の一つも満足にできねぇ~っておかしくねぇ?仕事の出来ない、お前なんて、うぜぇーーーんだよっ!唯いるだけだったら、ゴミと一緒。ここに居る意味ねぇ~~~んじゃねぇの?こんなんだったら、墜落と一緒にあっちに逝っちまえばよかったのになぁ、ええ、八神さんよ?」

 なんだ、こいつにここまでぼろくそに言われなきゃならないんだ、俺?

 そんなに、事故に遭う前、記憶を失う前、この男に酷いことをしたとでも言うのだろうか?だけど、この男の言葉の中に『いる意味がない』といわれた時・・・、確かにそう思っちまった。後ろ向きになり始めた。

 こいつに何も言い返せず、ただ、半分死にかけの双眸で見返すことしか出来なかった。

 陽は黄昏時、そいつは俺を残して去ってゆく。

 それからも、暫く、空に星が見え始めるまで、俺は冬の寒さが身にしみる会社の屋上でじっとしていた。

 で・・・、2010年12月24日、居心地の悪いこの場所を辞める事にしたんだ。

「八神なんだね、これは?」

 上司は訝しげに『退職届け』と封筒に書かれた文字を眺めていた。

「その文字だけを見れば、中身なんて見なくても大抵のことは察していると思うのですが?以前、私がドレほどここで腕を振るっていたか知らないけど・・・、今の私じゃ、どんなに頑張ってもこの会社の役に立てそうに無いな。それに・・・、・・・、俺・・、いや、私がいること、私のことを邪魔だって、無能だって、いう奴が多くて、記憶喪失の私にとって非常に居辛く、精神的にも苦しい。その様な訳で、本日限りで、辞めさせて頂きます」

 俺は呆気にとられている上司の言葉が出る前に背中を向けて、素早く立ち去った、

「おいっ、待ちたまえ、八神っ!」

 俺を呼ぶ上司の声が遠ざかっていくのを聴きながら。

 会社の建物を出てから、そのまま、現在の住処に戻るのが憚れた。だから、街の中を意味もなく歩き、気が付いたら、何度か以前来た事があるかもしれない、長閑な 公園の大きな木の下で寒空の快晴を眺めていた。

 小学生に成ったか、成らないくらいの子供達がぎこちない、危なげな動作で、サッカーボールを蹴って遊んでいた。

 球が転がる先、子供達が、走ってゆく方向、それらを腑抜けた表情と気力の無い瞳二つで追っていた。

 ぼんやり眺めていたから、いつの間にか、球の軌道が俺の方を向いていて、気が付けば、子供の蹴った物で大した勢いは無いけど、俺の顔面めがけて襲来してきたんだな。

 普段なら、簡単によけられそうな其れも、ああ、見事に、間抜けに、顔面直撃。

「おっ、おじちゃんっ、ごめんなさいですぅっ、あっ、あのあのぉだいじょうぶですかぁ?」

「おっ?おじちゃん?はははっ・・・はぁ~、おじちゃんねぇ・・・。だいじょうぶだ」

 落胆しながらひざに落ちていた球を片手で掴み、サッカーの真似事をしていた中にいた少女に其れを渡していた。

「気をつけて遊ぶんだぞ」

「はっ、はいぃ、ありがとうございますぅ」

 少女はぺこりと頭を下げ、友達の方へ走り去った。

「おじちゃんか・・・」

 呟き溜息を吐いていた。

 アイツなら、頑なに否定するだろうし、彼奴なら、多分、特に感情も出さず、素で流すだろうな・・・。

 ???、アイツ、彼奴ってだれだっ?

 若しかして、さっきのボールが当たった所為で、何かを思い出そうって言うのか?

 これは若しや、記憶回復の兆しかっ!と思い、頭の中の記憶をたどろうとした・・・。

 だけど、世の中、そんなに都合よく物事が運ぶなんて甘くなかった。

 頭を割るような激痛と、胸が軋む嘔吐感・・・。そして、俺はその場所に蹲り、気を失ってしまっていた。

 辛苦さに、心が折れてしまうような暗黒迷宮を彷徨い、いつしか、目の前から光が伸びてきた。其れはまるで、俺を導くように・・・。

 ハッ、となって、俺は瞼で覆っていた目に現実世界の色を取り戻していた。

 それから、呻きつつ、まだ痛む頭を押させ、上半身を起こす。

 体を動かした感触で、直ぐ様、自分が、寝台の上に寝かされていた事に気がついた。

 首を僅かに動かさなくても目に映りこんできた映像が、今、俺の部屋として使わせて貰っている八神家の一室だった。って、思ってしまうのは記憶喪失のため。だが、もともと、俺がここの家の長男である事は間違いないようで、それは証明されてしまった。

 世の中、自己とそっくりな人間が三人いるっていうのは良く耳にするだろう。

 だから、俺も其れに違いないと言ったが、DNA解析でその考えもあっさりと否定された。だが、それでも今の俺はこの家の家族に対して余所余所しく、接している。

 そんな事を、今は小さな頭痛のする頭で、言葉をめぐらせていると、扉を叩きもせずに入ってくる者がいた。

「シン?具合はどうだ」

「あんたか・・・」と佐京に言うと愁眉の表情を見せてくれる。

「いまだに、私の事を、姉とはよんでくれないのだな・・・。シン、今もお前が記憶喪失なのは変わらぬが、吾とシン、お前が偽り無く完全無欠に同じ血を分けた姉弟だと言う事は証明済みであろう?なぜ、その様な・・・、その様な心を隔てた風に接するのだ?私の事が、そんなに嫌いか?」

 彼女の言葉を聴いてはいるが、意味を理解しようとはしない自分がそこにいた。

 俺は顔を背け、別に答を躊躇っている訳じゃないけど見えない様に下唇を軽く噛んでいた。

「シンッ、答えろっ!」

「うるせぇって、なんで、そんな事にそんなに拘るんだよ。今はほっといてくれ」

「しん・・・」

 佐京は長く細い指を持つ掌で端麗な顔を隠し、項垂れる。

 その様はその雰囲気で相当、落ち込んでしまったことを感じられたが、俺は何も言葉に出せない。

 どんなに、今、俺が記憶喪失で、彼女の事を忘れてしまっているからといって、今の俺の態度は最低なのは明白だった。

 でも・・・、でも・・・、佐京と心がそぐわない。

 それは、母親である皇女に対しても、妹である、右京に対してでもあった。

「今の話はやめよう・・・。辞めたそうだな、会社を。だからいったであろう、あれほど。シンは誰から見ても、優秀だった・・・、狭量も狭く、程度の低い者共にとっては疎まれるほどにな。今のお前では以前の様には立ち回れなく、やっかみを受けるだろうと。だから、今は家でじっとしていろと・・・」

 佐京は表情を隠したまま、べらべらとそうしゃべり続けていた。

「なんだよっ、俺の事を知った風に・・・。姉だからって、何でも俺のことを判っているって言うのか?うぜぇよっ!うぜぇーーっ、うぜぇよっ。俺のことなんて気に掛けなくて構わない。だから、・・・、だから、・・・、・・・、・・・だから」

 言ってしまいたかった。言葉に出したかった。『俺の前に姿を見せるな』って、でも。

「今は落ち着かないんだ。独りで居させてくれよ・・・」

 淀むような声で投げかけると、彼女は大きな溜息を吐き、何も言わずに出て行った。その時の佐京の後姿・・・。

 複雑な感情が篭っているように見えた。


~ 2010年12月25日、土曜日 ~

 済世会総合病院、第三外科医局、八神佐京は机の淵にすらりとした姿勢で軽く腰を据え、ペンテルのハイブリッドのキャップを口に当てながら、医療報告書を読んでいた。

 外見、集中して其れを見ているように思えるが、彼女の瞳は字を追っていない。

 時折、佐京の口から漏れる精神的疲労を漂わせる重い溜息。それを吐いていた。

「しん・・・」とたまに小さく、漏れる弟の愛称。

「どうなさったのですか、その様な何かを悩むような溜息をついて」

 そう呼びかけたのは朝の回診から戻ってきた佐京の夫になる予定の男、調川愁だった。

「シュウ・・・、・・・、・・・シュウッ、聞いてくれ」

「貴女らしくないですよ、その様に荒立てるような口調は。落ち着いてください、佐京」

「これが落ち着いてなど居られるかっ、」

 どんな状況下でも、凛として、冷静な印象を周りに与えていた彼女の姿。だが、今の彼女は狼狽え、動揺し、困惑している、周囲の状況が見えないほどに。

 彼女の弟である慎治が其れほど、彼女にとって大切な家族であろうと言う証しなのだろう。

「ですから、落ち着いてください。ここには私と貴女以外にも多くの人が居るのですよ。皆さん済みませんね」

 第三外科局長である、愁は同僚に頭を軽く下げると、佐京の肩をとって、奥の部屋へと歩き出した。

 奥へ行こうとする佐京たちを見て云う。

「まったく、八神女史をあそこまで取り乱させてしまう、彼女の弟君ってのは罪な男だよ」

 小さく、仲間に呟いていた。そして、それに同意の様な頷きを示し返す他医者達。

 談話室に入るなり、佐京は愁の前に回ると、彼の白衣の胸元を握り締めると、凄い剣幕な表情を作っていた。

「なぜ、愁。お前はその様な済ました顔をして居られるのだっ!シンハッ、シンは、いずれお前の義弟に成るのだぞ。そのシンがっ、今、記憶喪失で、苦しんでいるというのに、心配せずに居られるものか・・・、心配せずに・・・ぅぅう」

 愁の白衣を握っていた佐京の握る力は弱くなり、彼女の頭が、彼の胸元に垂れ、その中で静かに嗚咽し始める。

 そんな彼女を優しく包むように腕を方に回す愁。

「まったく、毎度、お騒がせな、私の義弟になるやもしれない、慎治君・・・。状況はわたしだって、ちゃんと把握しております。ただ、佐京、貴女も、もっと深く、彼の事を考えてあげてください。貴女は女性で、彼は男性。女性の貴女には口に出したくないことだってあるでしょう?」

「私と、シンは姉弟だ。その様なことあるものかっ!」

「それは佐京、貴女の思い込み、驕りです。異性である以上、女性と男性では考え方に越えられない壁と言う物は存在します。人と接すること、理解しあうこと、それらの要素は学歴、地位、年齢、交友関係で培った共通認識の差など他にもありますが・・・、我々人間の関係の脆さや、均衡させるための難しさ、それを貴女は彼よりも多く学んでいるでしょうに・・・、知っているでしょうに・・・」

「しゅぅ・・・」

 佐京は涙を止め、憂いの瞳のまま、愁を見上げる。

「その様な顔をしないで下さい。何も、私が、彼を心配していないわけではないのですから。私だって、慎治君の救いになりたいんですよ。ですが、彼は一度たりとも私の呼びかけにこたえてくれることは無かったので、私の方から出向くことにします。」

「皇女大先輩にもお願いされていることだし・・・、早速ですから、明日、私は非番なので、彼が何処へも行かないように佐京、貴女の家、八神家から外出しないように見張っていてくださいね。そうですねぇ、朝、九時ごろにはそちらにつけるようにしましょう・・・、さて、このことは次にまわして、今日私たちがやるべきことを、しっかりと全うしましょう」

 愁はそう言いくるめると、最後に彼女の額に垂れる前髪を掻き揚げ、その額に軽く口付けを交わしていた。

 愁は談話室に佐京を残して、先に立ち去り、更に第三外科医局からも席をはずし、院内の廊下を何かを考える風な表情で歩いていた。

 白衣のポケットに入れていた拳を強く握り絞める。

「この現状が、私が、彼の言葉に従わなかった報いとでも言うのでしょうか・・・、・・・、・・・、いや、しかし、その様なことは、彼にこの様な神業的人間関係支配と因果の旋律など奏でられるはずもありませんね。その様なことありえることではありませんし、あってはならないのです・・・、あっては。もうこの世にはいないはずのあの男に」

 密かに、呟き、依然と目を覚ますことの無い彼女の病室へと足を急ぎ早に運んでゆく。

 愁はその病室前に立つと、二つ並ぶ名前を確認し、扉を叩いてから、中に入っていった。

「今日も、ご苦労様、結城将臣君」

「愁先生、こんにちは・・・、もう、あれから、六年近くが経つんですね」

 結城将臣と呼ばれた青年は愁に受け答えるように言葉を投げ、傍にいた眠ったままの少女?と言うべきにはもう、歳が過ぎている女性の手を彼の大きな手で握り締め、将臣青年の額へと登っていた。

「こんなにも、翠の生きているという、脈動を感じるのに、弥生の息遣いが聞えるのに、どうして、どうしてっ、二人は目を覚ましてくれないのでしょうか?俺の頑張りが足らないからですかっ!先生・・・、・・・・、・・・・・、俺のやっていることは無駄な事なのでしょうか?」

「その様なことはないと思います。以前、涼崎翠さんが、お姉さんである、故春香さんのために水泳で勝ち続けるという、願を賭けてお姉さんの目覚めるように努力し続けました。そして、三年と言う月日が掛かりましたが、彼女は目を覚ましたのです。それは彼女」

 愁はそこで言葉を区切り、涼崎翠の顔を覗くと再び、

「の願いが届いたのだと、私は信じたいです。ですが、今回はなにせ、二人ですからねぇ・・・、君の妹の弥生さんと、将臣君の恋人の翠さん・・・、二人がこの原因不明の昏睡状態から目を覚まさせるには其れ相当の努力が・・・と言いたい所ですが、私も目下、二人の目を覚ます手段を探していないわけではありません。何か、糸口がつかめれば、二人が目を覚ますための切っ掛けがつかめるでしょう・・・」

「そうですか・・・、それでは二人を宜しくお願いします、愁先生」

 弥生の兄、高校を卒業して、大学には進まず、辞めようと思っていたボクシングを続け今や、ボクシング界で彼の名を知らないものは居ないと、言うほどに名声を得た青年は紳士的に愁に接し、病室を後にしようとする。

「もう、帰ってしまわれるのですか?」

「ええ、次の防衛戦。また勝つためにも、しっかりと鍛え上げないといけないんで」

「そうですか・・・、ああ、そうそう、このあいだの試合、とても感動しましたよ。次も頑張ってくださいね。応援していますから」

 結城将臣は廊下側に立つと、調川愁に深々と頭を下げてから、病室を後にした。

 愁は二つの寝台が並ぶ中央、部屋の中央に立ち、顎に左手を当てると交互に翠と弥生を見やると、下唇を軽く歯で撫でながら、心中で、

〈彼女等のこの未覚醒状態・・・、どうも不自然すぎるのは何故でしょう?というよりも、なぜ、私はその様な考えを起こしてしまうのでしょうか・・・。そう、あの時も同じ感覚を覚えていたのでしたっけ〉と語っていた。

~ 2010年12月26日、日曜日 ~

「おいっ、何するんだ。ここから出してくれよっ。俺を閉じ込めて何をしようというんだっ!俺は出かけたいんだ」

 どうしてか、自室に閉じ込められ状態の俺はふさがれた出口の扉を何度も叩いて、その向こう側の主に呼びかけていた。

 だけど、一向に其れを明けてくれる様子は無いみたいだ。

「今日はおに大事な用事を作った。だから、今はその中でおとなしくしていろ」

「あんたっ、勝手なことスンナよ。勝手に用事なんて作りやがって、俺が其れを守らなきゃいけない理由なんて何処にもないんだぜっ!」

 俺が佐京に『あんた』って言った時、扉一枚向こうの彼女が、どんな思いで其れを耳にしたのなんか、気付いてやれず、ただ、この部屋から出たい、一心で喚き散らしていた。

 今はどうしてか、部屋に篭っていることの方が、じっとしていることの方が、とても辛く感じる。転寝してもあんな悪夢を見るくらいなら、ずっと起きていて、不眠不休で体を動かしていて悪夢との関係を断ち切りたかったからなんだ。

〈そうかよっ、なら、俺にも考えがあるんだよな、これが・・・〉と心の中で声を出すと、

「判ったよ、おとなしくしてりゃぁ~~~いんだろう?ちえっ」

「判ってくれたのか、シン・・・」

 扉向こうで安堵したような声を漏らす佐京。

 俺はそんな見えない彼女に、鼻で蔑むと・・・、まだ一度も履いていなかった新品の靴を部屋の中で身に付け、窓を開ける。

「ばぁ~~~ろぉ、そんな約束事できっかよっ!」

 そう、ほざいた俺は、三階もある自分の部屋から外に飛び降りていた。

 なんて、無謀なことはしないで、実はちょうどいい高さの樹があってそれに飛び乗り、樹を伝って芝生の上に降りていた。だけど、その時、飛び降りるという感覚に酷く悍ましさ感じたけど、既に体は宙を飛んでいて、びくびくする様な風に大樹へつかまったって事は内緒にして欲しい。

 俺の行動に気が付いた佐京は、部屋に入るなり、開けっ放しの窓から、悔しそうに拳を握り俺を見下し、俺は彼女を見上げ、あかんべぇをして、逃げ去ろうとした。

 とても記憶喪失な人間がやるとは思えない、子供じみた行動だが、今はここに居たくないからしょうがない・・・。何となく幼児後退しているような・・・。

 いや、これは悪夢から俺の心を守る自己防衛本能だっ!けっ、決してこれが俺の本来あるべき姿なんかじゃない・・・、多分。

 俺は遠ざかる姉らしい人物を見ながら、前へと走っていた。要するに顔は前を向いていないと言う事さ。そして、ちょうどその頃、調川愁は日産のSKYLINE GT-Rに代わる新世代スポーツ・カー、KUHGA(空雅)GT-Rと言うそれから、出ると背広の襟元とネクタイを直し、八神家邸宅の門に備え付けられた呼び出しの鐘を鳴らした。

「おはよう御座います、愁です。調川愁が参りました」

 彼は監視用CCD付きのマイクに顔を近づけ、訪問を報せていた。

「あら、しゅぅ~ちゃん、おはように御座いますぅ~。シンちゃんのために来てくださったのですね。どうぞ、おあがりになってくださいませ」

「おおっ、そのお声は皇女大先輩ではありませんか。では上がらせていただきます」

 愁が皇女に応え、門の引き戸を横にずらし、その場所から広い庭へと移ろうとした時、物凄い勢いで愁に突進し、体当たりをかけた物体があった。

 そうそれは慎治である。

 体当たりと言うよりは前方不注意の正面衝突と言った方が正しい見解であろう。

 慎治より長身であるが、見た目は貧弱そうな愁。だが、慎治の猪突猛進もなんのその、涼しい顔で受け止め、倒れこむことは無かった。そして、爽やかな笑みを作る。

「慎治君、何処へ向かおうというのですか?」

「だっ、だれだよ、あんたっ!」

 結構な力でぶつかった男へ怪訝そうな声で、言葉を投げながら、姿勢を戻す俺。

 体勢を整えながら、相手の顔を見ていた。

 だけど、顔に見覚えは無い。

 記憶喪失になる前は知っている人物だったのだろうか?相手は俺の名前を知っているようだから、そうなのかも。

 いや、いやそこで結論付けるのはよくないな。

 ただ、相手が俺のことを一方的に知っているって可能性も捨てきれない・・・???うぅん?しかし・・・、この声、どこかで聴いたことがあるような?どうしてだろうか。

「ひどいですねぇ~~~、慎治君。その様な言い方。本当は初めましてなどという言葉は私と君には不釣合いなのですが、記憶を失ってしまった慎治君とわたくし、調川愁と顔を合わせるのは今回が初めてですから、初めまして・・・。と挨拶をしておきましょう。どうです、顔は知らないと思いますが、私の声を聴いたことがありませんか?日本へ帰国されてから、何度も」

 俺は愁と名乗った男の声を聞いて、今ある記憶の裡から引き出そうとした・・・、・・・・、・・・・・、・・・・・・・っ!?

「はっ、最近やたらと俺に電話をくれる、誰だっけ?」

「ですから、今、調川愁と挨拶したでしょう?」

 にこやかな表情で俺に応えてくれるようだけど、なんかちょっと怒ってるっぽいように眉間がぴくぴく震えているような・・・。

「いやぁ、さいきんさぁ、記憶喪失で、物忘れがひどいんだよなぁ、なんて。そうそう、最近やたらなんかの勧誘とかで、俺の携帯に電話してくる人だな」

「いいえ、はっきりと申しまして違います。慎治君、貴方の記憶喪失を直すお手伝いをさせていただくために誠心誠意をこめて、行動しております、医者の調川愁です」

 何か一部分を強調させるように言うこの男が、言葉を追えた頃、俺を追ってやってきた佐京の声が届いた。

「まちなさいっ、シンッ・・・、愁?」

「やべっ、ここでつかまったら、何されるかわかったもんじゃないっ。じゃあな、愁先生とやら」

 俺は涼しげな表情で軍人風に手で挨拶を交し、そこから逃れようとしたけど、

「どちらへ、向かわれるのですか、慎治君。今日は君に色々と聞かせたいこともありますし、聴きたい事もありますので、遊びに行かれては困りますよ」

〈冗談じゃない、つかまって成るものか〉

 心の中で思うが・・・???くぅ、この人、かなり屈強?逃げられねぇ・・・、俺は敗北を悟り、項垂れた表情を浮かべる。

「わかってくださったのですね、慎治君」

「愁、手間をかけさせてしまったな。済まぬ」

「いえいえ、いいのですよ。いずれは私の義弟になる方ですからね?」

「はぁ?」

 俺は愁って奴が、口にした言葉を聴いて、間抜けな顔で声を漏らしちまった。

「何をその様な顔をしている、シン?愁はいずれ、吾の夫となる方だぞ。粗相の無い様にな・・・、気が回らなくと、すまない。外で立ちっ放しの様だった。さあ、なかへ」

「佐京、気になさらぬように」

 愁って野郎が佐京に返事を戻すと、彼女は淑やかに微笑み返していた。

・・・、ナンだよ、この妙な雰囲気は・・・、と思いつつ、しょんぼりした気分で俺は愁に連行されていった。

 愁と俺は皇女に応接間へと案内され、ソファーに座るよう促された。

 次いで、右京がお茶らしき物とそのお茶請けを盆に載せ、愁にだけじゃなく、俺にも勧めてくれていた。だが、更に器の数は三つ多く・・・?佐京までやってくる。

「申し訳御座いません、皇女大先輩、それと佐京、右京ちゃん。慎治君と二人だけでお話させてくださらないでしょうか?」

「なぜだっ、愁?これは吾々家族が一緒になって考えねばならぬ、問題なのだぞ。その当家の私達が、席をはずすとはどういった了見なのだ?」

「うふふっ、しゅぅ~ちゃん、もう、大先輩なんて言い方をされるのは嬉しくありませんわ。義母といってくださってよいのですよ、クス」

 普通だったら、引いてしまうような皇女の言葉も愁って男は変わらずの健やかの笑みのまま言葉を出さず返していた。

「佐京、皇女大先輩、わかってください。異性が居ては話しづらいこともあるでしょう?仮令、親兄弟でも超えられない心の敷居、その一線と言う物は存在するものです。ましてや、皇女大先輩は今では精神科医の権威でしょうに、それを理解していないはずがないと、私は思っていましたが、勘違いでしょうか?」

「あら、あら、私としたことが、ふふっ、そうでしたわね。ここはしゅぅ~ちゃんにまかせることとしましょう」

「しかしっ、母様っ!」

「さっちゃん、彼に従いなさい。うぅ~ちゃん、行きましょう、あちらの部屋に」

 右京は不満な表情を俺と、愁に浮かべて見せるが、彼女は皇女に従い、応接間を出てゆく。しかし、未だ、佐京の方は出る気がないようだ。

「さっちゃん、いい加減にしなさい。貴女が、そのような子供じみた態度をとってどうなるというのです?」

「母様・・・、判りました」

 佐京は俺に悄気た表情と、愁には睨む様な視線を向けると、嫌々、その部屋を出て行った。

 皇女が扉を閉める???何かがおかしい、応接間に人が三人いる。

 一人多いぞ。俺と愁だけのはずなのだが?

「皇女大先輩、冗談のお積りですか?扉を閉めるなら、反対側に出てからにして頂きたかったのですがねぇ」

「てへっ、私としたことが、失敗、失敗。次回の時はばれません様に姿を偽装しませんと、おほほほほぉ・・・」

 とても三児の母親とは思えない、おどけた表情を作るとその顔のまま、本当に部屋を出て行ってくれた。

「さて、慎治君立っていても仕方がありませんので、座って話しましょうか・・・、とその前に・・・、皇女大先輩っ、佐京っ、右京ちゃん、ドアに耳をつけて欹てる様なことは一切しないで下さいねっ」

 張りの有る大きな声で廊下の方を向いて、愁は言った。その時、廊下で物音がする。

「慎治君、毎日、大変でしょう。いや、大変だったでしょうといった方がいいのでしょうか、今の君には」

 そんな風に言葉を俺に向けながら、その男は軽い苦笑の表情を見せてくれた。

「では、本題に入りましょうか。あまり緊張しないで下さいね。男同士なのですから」

 何回も電話越しでは聴いていた落ち着いた声に俺は本当に自分が落ち着いて行くのを感じていた。

 こんな人をずっと、俺は無碍にしてしまっていた、のかと思うと、少しばかり、罪悪感を覚える・・・、だから、今はこの人の話を聴いてみようと思った・・・。

「まずは、現在の慎治君、君の事を出来るだけ詳しく聞かせていただきたい。無論、今君が記憶喪失と言うのは存じておりますので、そのこと以外で・・・」

 愁・・・、いや、愁先生といった方が良いんだろうな。

 先生の柔らかい物腰の問いかけは、俺に安心感を与え、冷静な感覚で物事を順序だって話せそうだった。

 やっぱりそれには理由がちゃんとあって、相手が男だと言う事、どうしても女の人である、仮に本当の親子だとしても・・・、実際に親子の様なんだけど皇女や佐京や右京には聞かせたくない事だってあった。

 俺は頭の中で何から話そうか、ちゃんと整理して、愁先生に伝えていった。

1.毎晩の様に見続ける悪夢。悪夢の内容は同じではない事。

どれも、これもが最悪な結末を迎え、何も出来ない自分に苦しんでいるそんな悪夢。

2.その夢のお陰で、眠りに就く恐怖感。

3.自己の存在を肯定してくれる人たちが居るのに、どうでもいい連中に言われる些細な言葉で、どうしようもなく己の存在感に希薄さを感じ、自分は偽りの存在でいつか消えてしまうのではと言う焦燥感。

4.こみ上げてくる、殺したいほどの近親憎悪、それと獣の様な近親陵辱感。

それが行動に移らないようにする為にも、彼女達と壁を作って居ること。

5.そして、最後に記憶を取り戻そうとする努力をしないこと、その気力がおきないと言う事。何故だかは判らない。

 それら、俺の言葉に出来ること、全てを事細かく愁先生に聴かせていた。

 話し終えて、俺が俯き、膝に乗せていた両拳握り締め、先生が静かに茶を啜る。

「私は慎治君本人ではありませんので、君の受ける感覚全て正確に理解する事は到底不可能です。ですが・・・、ことは深刻ですね。ここまでとは・・・」と言って先生は何かを考え始める。

 たった、数分間の流れでも俺には何時間にも感じた。

 先生が言葉をくれるまで、何度も、何度も目線を応接間にあった壁掛け時計に向け、どれだけ、経ったのかと確認してしまっていた。

 仕舞いには足を諤諤と震わせる始末。

「落ち着いてください、慎治君。・・・、・・・、・・・、君に一つ、話しておきましょう。以前、私の患者の中に、君と同じ様に記憶喪失だった男性が居ましてね・・・、その方は記憶を取り戻そうという努力はしませんでしたが、生きる事には前向きでした、君と違いまして。置かれた立場や条件が違うと否定されてしまうと、身も、蓋もありませんが・・・」

 愁先生がそう告げたとき、その言葉に俺は非常に興味を惹かれた。

 その男に会えば、俺のこの苦しみを判ってもらえるんじゃないかって、訳のわからない孤独感も消えてなくなるんじゃないかって、先生の言い方が過去形だから、今は記憶も戻っているんじゃないのか?

 なら、どうすれば記憶を取り戻せる、切っ掛けがつかめるのか聴けるかもしれないと思った。だからっ、

「愁先生っ、その人に会わせてください」

 俺は応接卓に両手を突き付け、勢い良く立ち上がり、そう言葉にするけど、秀眉に皺を寄せ、軽く困った顔をしてくれた。

 何かを思い悩んでいる風に。しかし、愁先生の性格がその真実を俺に突きつける。

「君には酷かもしれません。ですが、正直に話しましょう。その男性は不幸が幸いとなって記憶を取り戻しました。しかし、半年もしないうちに彼は不慮の事故に遭い、今は居ません」

 俺は同じ姿勢のまま、頭だけを下に向けると目を剥き愕然とした表情で硬直してしまった。

 何かが俺の脳裏によぎる・・・、悪夢が・・・、硬直していた体が今度は急に震えだし、立てない状況になると、愁先生が俺の体を支え、

「確りしてください、慎治君。君はその彼とは違うのです。何をその様に怯えているのですかっ!君が、君が記憶を取り戻したら、同じ運命をたどるとでも?バカなことを考えるのはよしなさいっ!慎治君っ!」

 頭を抱え、震えだす俺を包むように必死に訴えかけてくれる愁先生。

 だが、この時、先生が何故、こんなにも俺が怯え始めたのか、その理由をちゃんと理解していたなんて、俺がわかるはずがない・・・。

 それから、三十分、やっと落ち着きを取り戻した俺へ、

「落ち着いたところで申し訳ないが、君の部屋を拝見させてもらえないでしょうか?」

「俺の部屋を見て、何か分かるっていうのかい?」とまた虚脱感の残る声で答える。

「それは行ってみるまではわかりません。医者は預言者でもありませんし、超能力者でもありませんから・・・」

 先生は廊下に出ると左右を確認し、俺の血縁が盗聴していなかったかどうか、確認していた。

 俺達は応接間を後にして、三階へと続く階段を登り始めた。

 そんな俺達の行動をそっと覗き見する皇女とその他二人。

 それに気が付いた愁先生は振り返り、彼女たちを睨んでいた。

「先生どうしたんすか?」

「なんでもありません・・・、ここが慎治君の部屋ですか、開けてもよろしいですね?」

「確認なんて必要ないよ。化け物が出て来る訳じゃないし、怪しいものを隠しているわけじゃないんだしな」

 そんな受け答えで返すと、先生は俺の方へ顔を向けたまま扉を開けて、中に入ろうとした。

 その時、俺はなにも臭わなかったけど、鋭敏な鼻をもち、特に薬関係の臭気に詳しい愁先生には其れに類似する何かを感じ取ったみたいだ。

 先生は鼻に布を当て、その根源へ歩み寄ると、その一つを摘み上げ、確りとにおいを嗅ぎ採っていた。

「効用が聴くほどの残量は付着していませんが・・・、これは・・・。慎治君、ほぼ定期的に殺意や性欲に身悶えすると申していましたが、それはこれが届いた日ではありませんか?」

 今、手に持っているディレクト・メールを俺に見せる。だけど、

「若しかすると・・・、そうかもしれないけど、はっきりしないな・・・」

「これら、お借りしてよろしいでしょうか?」

「なに、先生、先生もそう言うのを見るんですか?」

「馬鹿を言いなさい。その様な事・・・、佐京に知れたら・・・おっほん・・・、いいえ、なんでも有りません。君の為です」

「それで何がわかるってんですか?何かが解決するとでも」

「確証なきことは言葉にしたくありませんので、結果が出るまで辛抱してください。ですが、一つくらいは君の憂いも解消できるでしょう・・・。では、皆さんに相談がありますので一階へ降りましょうか・・・、慎治君、このカバン借りてよろしいですか」

「ああ、構わないけどな」

 愁先生は貸すといった鞄にエロDVD通販の案内の封筒全部を詰め込み、其れを背負って先に廊下へと出ていた。

 その際に、机の上に飾って有る写真を見て・・・、悲しそうな表情を浮かべていた・・・、様な気がするのは、俺の気のせいだろうか・・・。

 再び、俺は先生に連れられ、応接間へと戻っていた。

 その時は皇女、以下二人も同伴だった。

 で、正面に皇女、以下二人と、反対側に愁先生。

 俺が先生の隣に座り、愁先生が腕組みで、右手を顎に当て、双眸を閉じ、軽い溜息をした後、


「状況は大凡にして、理解いたしました。その結果、しばらく、慎治君の記憶が戻るとまでは言いませんが、彼を私の所で預からせていただきます」

 愁先生が口にした言葉に俺は驚いたが、一番驚いていたのは佐京だった。

 彼女は卓を平手で叩き付けるように立ち上がる。

「愁っ、今何と言った?慎治を連れて行くだと?幾ら愁でもそれだけは許さんぞ」と凄い剣幕で先生に牙を剥いていた。

「佐京、落ち着いてください。貴女が、慎治君を心配する気持ちは十二分に理解している積りです。ですが、今のこの環境では慎治君に精神的な負担が掛かりすぎて、記憶回復に影響を及ぼさないとは限りません、故。しかし、佐京、何故、貴女はそこまでして、慎治君がここに留まる事に拘るのですか?それに、貴女達は知っているのでしょう、彼の苦しみを・・・、どうせ、盗み聞きしていたのでしょうから」

 皇女は愁の言葉に平然と知らぬ振りを通し、佐京は僅かに眉を吊り上げ、右京はおたおたしていた。

 右京の仕草が、盗み聞きされた事を証明しているような物だった。

 俺は心中で大きな溜息を吐く。

 佐京が右京の狼狽を抑え、

「決まっているだろう。確かに今、シンは記憶喪失で、シンの才有り余るあらゆるものが喪失してしまっている。だが、運転は別のようでな」と佐京は腕組みし堂々と言い張り、

「所謂、だめだめ、シンちゃんは今、私達の足代わりです、クス」

 はっきりと皇女は言葉にした。

 其れを耳にした、俺の背にどんよりと影が差し、愁先生は美顔を手で覆い、情けないという仕草を見せて、

「家族の中で、男が独りだと心労が耐えないと耳にしたことはありますが・・・、明確な事実だったようですね・・・、・・・、慎治君」

 愁先生は俺に〝一緒に来るか〟と言う風に俺の名前を声にしたので、俺ははっきりと、頷いた。

「決定です。良いですね、皇女大先輩」

「しゅぅ~~~くん?皇女お義母様」

「大先輩、言葉遊びをしている場合ではありません。ちゃんと、返事をお願いいたします」

 皇女のボケを平然と聞き流し、答を要求する愁先生に、なおもこの人は、

「しゅぅ~~~くん、お義母様ですよ」

 愁先生のこめかみ辺りにじんわりと脂汗が垂れる。

 ハンカチをとりだすと、微妙に遣る瀬無い表情で其れを拭っていた。

 俺は、先生がどんな風に応えるのか、わくわくしながら、眺めている。

 はたして、先生は折れるのか、折れないのかを。

 しばしの沈黙が、応接間に経つ。そして、判決が降される時が・・・、

 愁先生は軽く咳払いをして、皇女から、若干視線をそらし、今までの明朗な口ぶりと違って、躊躇いがちに、

「みっ、みぃぃいい・・・、皇女・・・、おっ、お義母様、慎治君を暫くあっ、預からせていただきます。よっ、宜しいですね?」

 俺は先生の言葉を、双眸を閉じ、聴き終えた。

 心の中で酷い、敗北感を感じてしまっていた。

 何故、その様な思いになったのか、わからないけど・・・。

 愁先生に言葉を言わせた張本人は満悦な笑みで、

「了承しますっ!シンちゃんをよろしくお願いしますね、しゅぅ~くん」

「母さまっ、何故ですっ!私は反対です。断固として反対します。愁、シンを連れてゆくなら、貴方がここに一緒に住めば良いではないかっ!いずれはそうなるのだからな」

「さっちゃん、今、この家の決定権は全て私に有るのですよ。私に従いなさいっ!」

「かっ、かあさま・・・」

「しゅぅ~くんも、明確な答を私たちへ提示してくださったでしょう?私や、貴女がしんちゃんの心の負担になっているのなら、仕方がないことなのです」

 佐京は皇女のその言葉に右拳を胸に当て、諦め切った様に項垂れるが、今まで黙っていた右京が、

「いやっ、いやぁぁ、ぜったいにいやぁあああっ、シンお兄ちゃんが、どっかにいっちゃうなんて絶対嫌ぁぁっ、右京はシンお兄ちゃんに暴力振るわれたって、えっ、えっちなことされたっていいのっ!だから、一緒じゃなきゃ嫌なのぅぅうう。皇女お母様も、さっちゃんお姉ちゃんもなんとかいってよ。シンおにいちゃんが行っちゃうよっ!右京はそんなの嫌なの。さっちゃんお姉ちゃんっ、皇女お母様っ!」

「右京ちゃん、いい加減にしなさい。もし、そんな事が現実になってしまったら、一番苦しむのは慎治君なのですよ。慎治君・・・、もう皇女せぇ・・・、お義母様からの了承はいただきました。行きましょう」

 先生は俺の肩に手を置き立ち上がり、俺は其れに従うように動き出すと、泣きじゃくり、暴れる右京を取り押さえている皇女と佐京の姿を後ろめたい気分を抱かされたまま、その場を出てゆく事になってしまった。

 愁と慎治が居なくなった応接間。

右京は母親の皇女と、姉の佐京に挟まれる様に抱かれる中で、嗚咽し続け、

「お母様っ、お姉ちゃん・・・、どうして、どうして、シンお兄ちゃん、元気なのに右京達と一緒に暮らせないの、記憶喪失なんて関係ないじゃないですのぉ。どうして、一緒に居られないの?どうして。ホントの兄妹なのに右京のお兄ちゃんなのにっ!大好きな、大好きなおにいちゃんなのに・・・、こんな酷いよ・・・、辛いよ」

「右京、吾々が挫けてどうする?今はシンが一刻も早く記憶を取り戻してくれるように吾々がしっかりしなければ・・・。私だって辛いのだ、右京」

「うぅ~ちゃん、泣かないで下さい。我慢してください、シンちゃんは必ず、私たちのところへ還って来ますから、必ず・・・、・・・、・・・、ですが、二人とも聴いてください」

「しゅぅ~ちゃんが応えてくれましたが一番辛いのはシンちゃんなのですからね。そして、本当に大変なのはシンちゃんが、記憶を取り戻した時、シンちゃんが記憶を取り戻した時、知ってしまう真実に、思い出したくない事実に、お友達思いのシンちゃんが苦しまないように助けられるのは私たちなのですよ・・・、私達だけなのですよ・・・」

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