好きでもないし、嫌いでもない。

I.F.

第1話 悲しみとソーダの偶然の出会い

 数時間前、私は彼氏からひどいことを言われ、振られた。自分が悲しんでいるのか、怒っているのか何も分からなかった。ただ、お腹の奥がツーンと痛くて、身体がうまく動かなかった。それでも、彼が私を置いてどこかに行ってしまったから、私は私の家に向かうしかなかった。

 いやにクリアな視界とぼんやりとした思考。電車を乗り継いで、最寄駅から家へと歩いていた。もうすぐ家に着く。そのことに気が付いた途端、「嫌だ」と思った。きっと、ひとりぼっちになったら、心の中の暗いところから戻ってこれなくなってしまう。そのことがどうしても怖かった。

 私は目の前にあった小さな公園に入った。公園のベンチは薄汚れていたけれど、座ることになんの抵抗もなかった。すべてのことがどうでもよかった。

 硬直した心のまま、ぼうっと公園の前を通り過ぎていくサラリーマンや小学生を見つめ続けていた。すると、公園に私と同じ年くらいの男が入ってきた。

 人畜無害そうな風貌をしたその男は、スマホをいじりながら、隣のベンチに座った。私のことをちらりとも見ずに、必死にスマホに文字を打ち込んでいく。男の世界に私はいないのだ。別にいいのだけど。

 公園が暗くなる。サンダルのつま先に吹く風が冷たい。きっともうすぐ秋になる。

 寂しい。そう思った。

 元彼と付き合ったのは去年の夏だった。夏祭りの帰り道、けだるい空気の中で、手を握られた。汗と混じった香水の匂い。ビールと焼き鳥のすえた匂い。びっくりするくらい鮮明に思い出すことができる。

 サンダルの下にある落ち葉が輪郭を失っていく。どうしたのだろうと思う間もなく、涙が私の頬を流れる。あふれる涙を止めることができなくて、私の目に映る落ち葉はもはや色しか持たない。

「一緒にいることにどんな意味があるの?」

 彼はそう言った。もっと冷たいことを言われた気がするけれど、思い出せるのはこの言葉だけだ。

 「意味なんて必要なの?」とは、言えなかった。すがりつくほど、彼のことを好きではなかったのだと思う。それでも、私は彼に恋をしていたし、彼と一緒にいて幸せだった。もう少しだけ一緒にいたかった。

 うー。うー。

 唇の隙間から、唸り声みたいな泣き声があふれ出した。

 隣に座る男が、「何の音だろう」というように、私のことを見た。

 私が泣いていることに気が付き、男は少し身じろいだ。

 恥ずかしいというよりも、清々しかった。

 思い通りにならない世界の中で、男が私の思い通りに動揺してくれることがたまらなく嬉しい。

 調子に乗った私の泣き声は次第に大きくなっていく。

 うー。うー。

 男が声をかけてきても、立ち去っても、私の勝ちだと思っていた。しかし、男の行動は私の予想を超えていた。

 おーん。おーん。

 私のものではない泣き声が公園に響く。

 驚いて、思わず2回瞬きをすると、涙がぽたぽたと落ちた。私の目に、落ち葉たちがとてもクリアに映る。

 おーん。おーん。

 こっそり隣を見ると、男が大口を開け、泣いていた。涙だけでなく、鼻水まで溢れさせて。

 「何であんたまで泣くの?」って、私は悔しくてたまらない。

 負けたくなくて、私は空に向かって泣く。男よりも大声で泣こうと、元彼を必死に思い出す。私のことを好きだと言った顔。好きじゃなくなったと言った顔。

 うー。うー。

 おーん。おーん。

 思い出せる元彼との記憶がなくなり、涙も底を尽きたころ、あたりはもう真っ暗になっていた。

 隣の男と顔を見合わせる。

 白目も、鼻の下も、唇も真っ赤に染めたその顔は、びっくりするくらい無様だ。でも、きっと、私も同じ顔をしている。

 見つめ合う時間が流れる。泣き疲れた私たちには悲しみを語ることができないから。

 喉の奥が無性に渇いてきた。炭酸飲料でも飲んで、すっきりさせたい。

 口を開こうとした時に、男が言った。

「ラムネでも飲まない?」

 私から言いたかったのに。悔しい気持ちを抱えながらも、私はそっと頷いた。

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