第6話 なぜDQNが存在しているのか

質  問:近所にDQNな家族がいて、路上駐車はするは夜中に騒ぐは、地域のルールは守らないは、子供は放ってあるはでその非常識な言動に非常に不愉快な思いをしています。なぜこの世にDQNなるものが存在しているのですか。


カミカワ:同じようなDQN的な価値観を持った異性にのみ有効な求愛行動です。そういう生き方が自分に向いていて価値がって心地いいと思っているかだ

と思います。


私は基本的には

「自分の人生なので人に迷惑をかけなければ好きなように生きればいい」

と考えています。でも人に迷惑をかけるのは良くないと思います。

 「DQN」なるものについてはいろいろな形態があると思いますので、まず定義してみたいと思います。それから私なりに講釈をたれたいと思います。


「DQN」とは、軽率そうな者や実際にそうである者、粗暴そうな風貌をしている者や実際に粗暴な者かつ、非常識で知識や知能が乏しい者を指すときに用いる。

                           (ウキペディアより)


なるほど。そういうことですか。これってはっきり言って「悪口」ですよね。特に後半の「知能」に及ぶ部分は、これ以上ないくらいの下手すりゃあ人権にかかわるほどの悪口です。こんな悪口を言われても、周りから疎まれても、後ろ指刺されても親が泣いても、DQNとして生きることを選択しているのですから、彼ら彼女らにとっては、それなりに意味があるのではないでしょうか。その意味について考えてみましょう。


 まず考えられるのは「求愛行動」です。生物が生きる意味は「子孫を残すこと」つまり「種の保存」にあります。DQNだって子孫を残したいのです。回りの人を不愉快にさせる言動や存在は、一種の求愛行動ととらえるとなぜかすんなりとその存在意義が見えてきます。

 知の巨人と言われていた故立花隆大先生は「子殺しの未来学」という論文で、非常に興味深いことを述べられています。

「(暴走族の)騒ぎを見ていると、クルマを飛ばしているのも、野次馬で騒いでいるのも、みなこの競争社会からの脱落者だった。暴走族に性的吸引力を感じて声援を送ったりしているのは、明らかに同じグループ内の女の子で、騒ぐ人間とそうでない人間は、世代によってではなく、脱落しているかしていないかでくっきり分けられていた。」

「彼らはこのシステム化した、自分たちを弾き飛ばした社会がどんな形であれ破壊されることに喜びを感じるんです。アノミーとパニック状態を求めるんですよね。」

「(昔は)悪い遺伝子を持つ人はだいたい弱質で子供を作る前に死ぬのが通例だった。それが、最近では医学のおかげで助かって子孫を残すようになった。自然淘汰ではなく、逆淘汰現象が起きているわけだ。」

「もう一つの心配は、だんだん似た者同士が結婚することで、新しい階級文化が遺伝的に形成されつつあるということだ。(中略)趣味が合わない、話が通じないということで、社会的に優位なクラスの通婚がおこなわれず、それぞれのグループ内で結婚している。」

うーん。さすが立花隆大先生。多少こじつけ気味ではありますが、また問題発言もありそうですが、おっしゃりたいことはなんとなく分かります。ようするに、そういうことです。つまりDQNの存在意義は孔雀と同じような求愛行動であり、しかし欠点は同じ価値観をもった異性しか引き付けられないということですか。でもちゃんと種は残すことができるのですから、それはそれで価値あることなのでしょう。


 もう一つの観点は、なぜそこまでして人はDQNになるのかということです。

教育学者シュテルンの「輻輳説」によると、「遺伝」と「環境」が人を作るとされています。人がDQNになる過程、そういう価値観の形成には「遺伝」と「環境」が大きく影響しているのです。「遺伝」ついては、先ほどの立花隆先生の説明でなんとなくわかるような気がします。

 それでは「環境」とは何なのでしょう。なんとなくわかりますけど。

 ようするに物心ついたときから、偉そうに見える黒いシャコタンの大型車にのせて深夜まで連れまわし、身障者用の駐車スペースに堂々と斜め駐車し、タバコぷかぷかの空気を吸わせ続けて、茶髪でアクセサリーギラギラのファッションで、言葉使い汚く下品で威嚇的で、それでもプライドだけは異常に高く、勤勉とか勤労とかが大嫌いで、マックとコンビニで好きなものを買って好きな時間に食って、しかも犬食いで、その日暮らしで非論理的で今さえよければそれで良くて、社会とか周りの人の迷惑とか全く考えないで、そんな環境で育った子供は、きっと「遺伝」と「環境」が両立しているので、超一流のDQNになることでしょうね。キラキラネームもつけてもらえるし。

 そうです。そういうことは容易に想像できるのです。つまり「そこまでしてDQN」になるのではなく、それが当たり前で正義であるという価値観が自然に身についてしまうのだと思われます。

 もう一つ生物的な観点から申しますと「この世に必要だから」だと思います。自然界において、地球という生態系において、すべての生物はお互いに影響を及ぼしており、無駄な必要のない生物は存在しないという立場からの回答です。だからDQNな人々もきっと何かの役に立っているのだと思います。説得力ありませんけど。

 長くなりましたが「なぜDQNは存在しているのか」という質問についての回答ですが、遺伝学的にも環境論的にも、そういう価値観を持つ人間が自然発生的に生まれ育ち一つの文化を形成し、もしかしたら見えないところで役に立っている可能性があるから。というのが私の回答です。なんのこっちゃ(泣)




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教えて!ミカワ先生 詩川貴彦 @zougekaigan

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