その⑪

 市雄の腕時計の針が午前零時を指した。


彼は三十年足らずの己の人生でこれ程大きな決断をしたことはなかった。それはこの


街に入った時同様に生活が百八十度一変してしまうことに加え短い期間であったが互


いに助け合って生きてきた五人の仲間たちとの別れが確実になることへの覚悟であっ


た。


親友のサムは市雄、純一とここを出るつもりだったのだが、前日になってここに残る


道を選択した。だが誰がサムを責めることが出来るだろう。人は皆各々自分の意志を


持っているのだ。市雄はサムを咎めることなく喧嘩別れすることもなかった。


マサルと徹は市雄に残留を勧めたが、市雄の決心の固さに最終的に折れて彼を快く送


り出すことにした。


市雄は身震いするのを辛うじて抑えながらあの門のあった場所へ急いだ。


元の世界に戻るだけなのに自分はこれより一世一代の大冒険の旅に出る。そんな心境


だった。モネも同じだろう。いや、彼女のほうが自分よりはるかに大きな決断だった


だろう。それに他にも自分と同じ考えを持つものが存在するということが何より心強


い。


今では歩き慣れた街の舗道を十五分ほど北に歩くといきなり霧靄の向こうに城壁の如


く頑強なる石垣が目前に現れた。そしてあの巨大な門があった。それを見るのはこの


街に入った時以来だった。なぜ今までこの門は姿を現さなかったのか。合点がいかな


い。


やがて門の前に佇む十人あまりの人影が目に入った。


近づいてみるとそこには年齢がまばらな男女十四人がいた。彼らは市雄を見ると同志


を迎え入れるように微笑んだ。その瞬間は市雄にとって生きてきた時代が全く異なる


人々と初めて心が通じ合った時だった。


その中にいたモネが市雄のそばに歩み寄った。


「覚悟はいいわね」


「ああ、後悔はしないさ」市雄はきっぱりと答えた。


時刻は午前二時となった。モネは門の前に立つと右手で天を指した。


「さあ、私たちはこれより時の報いを受けるの。いいわね」


残りの者たちはこっくり頷いた。


その時、にわかに雷鳴が轟き巨大な門は軋み音を響かせながらゆっくりと外側に開き


はじめた。外は煙が立ち込めたような深い霧に覆われていた。


「さあ、これから私たちの理想郷をめざして進むのよ!」モネは皆の先頭に立ち声を


あげると一目散に山の尾根を駆けあがっていった。


市雄たちもその後に続いた。その時、皆の行く手を阻むように俄かにつむじ風が吹き


荒れはじめた。それでも皆は必死で尾根を登った。


中腹まで達した時、市雄は振り向いた。街を囲む濃い霧は白煙のように天に向かって


流れ出す。やがて街全体が霧と化すと煙のように夜空に溶け込み姿を消した。これま


での出来事がすべて夢幻であったかのように。


その時、茫然と立ち尽くす市雄の耳にモネの声が突き刺さった。


「振り向いちゃダメ! 前に進むのよ」


市雄は我を取り戻すと正面から容赦なく吹きつける風に向かい足を踏み出した。


皆必死の思いで急な尾根を這い上がった。その次の瞬間だった。まわりの空間が俄か


に歪んだと感じると市雄の意識は遠のいていった。




 頬を撫でる冷たい風で市雄は意識を取り戻した。


そして他の十四人の姿がどこにもないことに気づいた。同時にまわりの状況の異様さ


をすぐに察知した。


枯れ落ち葉や木の枝に混じり白いものがやたら多くある。市雄はそのひとつに近づき


それを確かめるとーぎゃっーと悲鳴をあげた。なんとそれは人の頭蓋骨だったのだ。


それらはそこらじゅうに散乱していた。そして一体の白骨の傍に金色のネックレスが


落ちているのを見つけた。市雄はそれに見覚えがあった。それはモネが常に身につけ


ていたものだった。するとこの骨は・・・他に散らばる白骨は十人分以上あった。そ


の瞬間、市雄は悲しい現実を受け入れざるを得ないことを認識した。


いっしょに街を脱出した同志たちの身には膨大な時の流れが一気に降りかかったのだ


だがモネはこうなることを覚悟の上で自分たち同志を先導し街を脱出したのだ。そし


て彼らは自分たちの目指す理想郷に辿り着いたのだ。そして市雄自身も。


理想郷はひとつだけ存在しているわけではない。秩序、体制の異なる世界が数多く、


いや無数にあるのかもしれない。市雄たちが迷い込んだ理想郷は神が創った六番目の


街だったのだ。人は自分が希望する世界に入る自由が与えられていたのだ。そして市


雄は元の世界に戻った。自分の意志で。


気を取り直し尾根の頂上に向かって歩き始めたその時だった。市雄は背後から聞こえ


る微かなうめき声に足を止めた。振り向くと木の根元に人が倒れている。とっさに駆


け寄って見るとそこにいたのは皺だらけの白髪の老人だった。


市雄はそっと老人の体を抱え上げた。老人の顔には紛れもなく純一の面影があった。


「純一・・・なのか?」


「ああ・・・」老人はしわがれた声で頷いた。


「帰ったぞ。俺たちの世界に」市雄は純一に伝えた。純一の顔に後悔の色はなかった


「俺は永遠の命なんていらねえ。今まで精一杯生きた」


そういうとまた咳き込んだ。


市雄は両手でやせ細った純一の体を抱きしめた。


「俺だって同じさ。永遠になんて生きたくねえ」


この時二人は神の意図というものが少し読み取れた気がした。神はどのような環境を


与えれば人類がよりよく成長出来るかを試していたのだ。そして数多くの理想郷を建


設しその中の人間たちを観察しているのだ。


市雄は純一の体を肩で支えながらやっとの思いで尾根の頂上に辿り着いた。


「さあ、俺たちの理想郷を創ろう」市雄は呟いた。


谷間にあの理想郷の姿はもうなかった。二人は登りくる朝日に目を向けた。それと同


時に微かなエンジン音が耳に入ってきた。見ると朝日の方角から複数のヘリの編隊が


近づいてくる。


市雄と純一はそれを目を細めて眺めていた。








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理想郷 @kubota63

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