<9> 悪戯が過ぎる師匠

 グレイの向かいに腰を下ろして彼の指に手を重ねたルーニーはゆっくりと顔を近づけた。わざとらしく体を寄せ、胸元へと彼の掌を引き寄せると張りのあるふくらみに固い指先を押し付ける。


「生態を知ってるものになら簡単だ。異性にもなれる」


 馴染みのない高い声に、グレイは困惑しながらルーニーを見つめる。

 指が僅かにめり込むふくらみからは、ぬくもりと鼓動が伝わってくる。その姿は幻覚や作り物ではない、紛れもない本物だ。

 不覚にも頬を赤らめさせたグレイの様子を面白そうに見たルーニーは口元を緩めて笑った。彼の頬をつっと指先でかすめ、半開きのままの唇に触れる。


「お前、女の免疫なさすぎ」


 息がかかるほど近い唇はべにを差しているのかと思うほど赤い。

 芳ばしいナッツのような香りと共に甘い蜜のような芳香が漂う。それがルーニーの持つ魔力の色香なのかもしれない。そう思った瞬間、グレイは腹の奥が熱されるような錯覚に陥った。

 息を呑み、視線を逸らすことも身動きをとることも出来ずに見つめる。そして、喉を鳴らして息を呑むと、呻くように低く声を発した。


「ふざけるのも、大概に……」 

「他人の色恋に口出す前に、少し経験積んだ方が良いぞ」


 さらに顔を近づけたルーニーは「こういうのが好みか?」と、揶揄からかい半分で尋ねた。

 今にも触れそうな唇から漂う香りを吸い込むと、脳が痺れるようだった。


 ──眼の前にいるのは師匠だ。男だ。女の姿をしていても、そうじゃない。


 そう言い聞かせるも、昨晩、頬に触れた柔らかい唇が脳裏に蘇り、グレイは黒髪の女にルーニーを重ね合わせていた。

 じっとりと汗をかいた拳が握り締められる。

 どのくらいそうして見つめ合っていたのか。不意に、ルーニーはグレイの額をピシッと爪で弾いた。


「しっかりしろ、ひよっ子。そんなんじゃ、すぐ色仕掛けに騙されるぞ」

「別に俺は……」


 言いかけたグレイは視線を逸らすと口籠った。まさか、女の姿に昨夜のルーニーを重ねていたなど口が裂けても言えるわけがない。

 押し黙るグレイの様子をどう思ったのか、ため息をついたルーニーは指を鳴らす。

 ふわりと光をまとった風が舞い、まるで花吹雪に視界を奪われた。光に視界を奪われながら目を凝らしたグレイは元の姿に戻ったルーニーを見た。


「まぁ、旅をしてたら恋愛どころじゃないだろうけどな」


 声も耳に馴染んだ柔らかなものに戻り、それにグレイは安堵すると肩の力を抜いた。


「女も恋も知らないうちに、こんなおっさんと旅とか、ほんと不憫だよな」

「別に……俺は親が決めた相手と結婚するもんだと思ってましたし」


 口ごもるグレイに憐みの眼差しを向けたルーニーは、風に揺れた髪を耳にかけた。それを視界の隅でとらえたグレイははたと気づいた。その髪色は元の鮮やかな赤に戻っているが、長さは長いままだ。


「髪の長さは戻らないんですか?」

「ん? あぁ……伸ばすことは出来るんだけど、縮めるのは面倒でな」


 すっかり忘れていたと言わんばかりに、ルーニーはローブの下からフォールディングナイフを取り出すと無造作に束ねた髪に刃を当てた。

 ジョリジョリと音を立てて切り落とされた赤毛が足元に散らばる。


「髪は伸びるもんだろ? そういったことわりの逆行は魔力の使用量が半端ないんだ」

「はぁ……て、そんな切り方してたら髪の長さが」

「いいって、邪魔にならなきゃ」


 髪型にこだわるような歳じゃないと笑い飛ばして切り落としていく様子を、グレイは呆気に取られて見ていた。しかし、あまりの雑さと髪の長さがちぐはぐしていく様子に黙っていられず、ルーニーの腕を掴むと「貸してください」と言ってナイフを取り上げた。


「もしかして、いつも髪はこうやって切ってるんですか?」

「伸びすぎたらな。たまにウィルが切り揃えてくれるけど」

「……はぁ」


 また父上か。と言うことも出来ずにため息をついたグレイは、器用にナイフを髪に当てて削ぎ始めた。


「次の町についたら、ちゃんと鋏を買いますからね!」

「何怒ってんだよ」


 きょとんとしたルーニーに「怒ってません」と言い切ったグレイは、なめらかな髪を撫でながら何度目か分からないため息を溢す。

 しばらく黙って髪を切られていたルーニーは「なぁ、グレイ」と彼を呼んで、少し顎を上げるようにして見上げた。


「動かないでください」

「やっぱ、怒ってるだろう」

「怒ってません。それより何ですか?」

「……お前の人生に口出す気はないんだけどさ」


 すでに大きく関わっているだろうに、今更何を言い出すのかと食って掛かりたくなる気持ちを飲み込み、グレイは最後の毛束を削ぎ落すとナイフを折りたたんだ。


「お前、次の町で童貞捨ててこい」

「はい!? なんでそういう話になるんですか!」

「あ、やっぱ童貞なのね」

「……だから、どうしてそういう話が出るんですか」


 真っ赤な顔をしたグレイはナイフをルーニーに押し付けると顔をそらした。


「女になった俺に落ちそうな顔してたからさ。お前、自信なさすぎだし色仕掛けにも合いそうだし。とりあえず、男になってこい」

「意味が分かりません」

「……そういう固いとこだと思うんだよね。お前の悪いとこ」


 肩口についている髪を払い、ルーニーはやれやれと言って笑った。

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