<6> ワーカホリックは眠らない
グレイが別途に横たわり寝静まると、ルーニーは静かに起き上がった。
すでに怒りは冷めていたが、寝る気分ではなかった。
──仕事を片付けるか。
荷物の中から厚い冊子を取り出すと簡素な椅子に腰を下ろし、その古びた羊皮紙でくるまれた表紙を開く。さらに項を捲ると、何も書かれていない紙に文字がすらすらと浮かび上がった。まるで、今まさに誰かがそこにペンを走らせているように。
次々に浮かび上がる内容は、ヒエラス山の現状報告だった。
大雨は嘘のように止み、復興も順調に進んでいるようだ。物資も滞りなく届き、人員も足りている。懸念していた被災現場を狙う盗賊の動きなどにもうまく対応が出来ている旨も記載されていた。最後には近隣の村で感染症が広がりを見せていることが懸念されると書かれていた。
現場を任せたマーロックが上手いこと立ちまわっていることが伺え、ルーニーは安堵の息をついた。手にしたインクの付いていないペンを走らせ、一つ二つと留意点を書き留める。すると、不思議なことに文字が確かにそこに刻まれた。最後に、ルーニー・ラスヴェスパーとサインを記すと文字は光を放った。
次の頁をめくると、再び文字が浮き上がる。それを読み込み、再び留意点や指示を書き込んでいく。そしてサインをする。
月明かりの下で、どれくらいそうして時間を費やしていただろうか。
「ルーニーさん?」
伺うような声に顔を上げたルーニーは、ベッドの上で怪訝そうな顔をするグレイに「まだ朝じゃねぇぞ」と応えると再び冊子の頁をめくった。
窓の外を見たグレイは眉間の皴をさらに濃くする。確かに、窓の外の月の高さを見れば、今が深夜を回っていると分かった。
「寝ないんですか?」
「眠くなったら寝る」
「……そう言って、また、寝ないんですよね?」
静かにベッドを降りたグレイは、ルーニーの横に立った。
ぺらりと音を立てて冊子の頁が捲られる。
「寝るよ」
「嘘、吐かないで下さい」
苛立ちに語尾をわずかに強くしたグレイは、冊子を取り上げるとそれを閉じてテーブルに置いた。
「俺、まだルーニーさんのことよく知らないですけど、でも、その目の下の隈みれば、寝てないことくらい分かります」
「お前って、低血圧と無縁そうだな」
「話をそらそうとしないで下さい!」
起きたばかりだと言うのに饒舌に話すグレイを笑ったルーニーが誤魔化そうとしているのは明白だ。それに苛立ちを募らせたグレイはたまらず声荒らげた。
鳶色の目が見開かれた。
まさか彼が怒鳴るとは思いもしなかったのだろう。ぱちくりと瞬きを繰り返すルーニーはばつの悪い顔をして視線をそらした。
「……あー、うん、悪い。でもな……寝れないんだ」
わさわさと髪を掻き乱してルーニーは笑う。別に休んでないわけではないし少しは寝ている。酒場でもうたた寝をしてただろうと、居心地悪そうに口籠りながら言い訳を口にした。
「俺は大丈夫だから」
「寝れないって……悪夢のせい、ですか?」
「まぁ、それもあるけど、いつものことだから」
他の要因が何なのか口にする気はないようで、ルーニーは曖昧に笑うとテーブルの上の冊子に手を伸ばした。
今は、話したくないと言うことなのだろう。あるいは、この先も語る必要はないということか。どちらにせよ、そこに壁を感じたグレイは悲しくなり奥歯を噛みしめると、冊子をさらに遠くへ退けた。
「また手を繋いでます。ルーニーさんが寝るまで傍にいます」
「ダメだ」
即答したルーニーは、訝しむグレイに溜息をつくと立ち上がった。
「ダメって……」
「俺は寝なくても平気だけど、お前は寝ないとダメだ」
「なんで、平気って言いきるんですか? 若い俺が言うならまだしも、俺の倍は生きてるとか言ってましたよね。それが本当なら、寝るべきはあなただ!」
むきになるグレイの言葉にびくりと肩を震わせたルーニーから笑顔が消えた。細い眉がひそめられ、薄く開いた唇が震えると何か言い淀んだ。
一度、彼の瞳が閉ざされる。白い手が胸元を握りしめ、僅かに丸められた背が震え出した。
「……ルーニーさん?」
明らかな変化に戸惑ったグレイはその肩に手を伸ばした。だが、気安く触れて良いものかと躊躇していると、ルーニーの手が胸元に伸びてきた。
細い指に掴まれたシャツがくしゃりとシワを寄せる。
「頼むから、寝てくれ」
肩口に寄せられた赤毛からふわりと甘い香りが立ち、グレイの鼻孔をくすぐる。
突然、寄り添われたグレイは身を固くした。
「ルーニーさん?」
「……勘違いしそうなんだ」
「勘違いって?」
「頼むから」
「……俺と誰を……父上のことですか?」
「頼む、もう……」
噛み合わない問答に、それ以上どうすることもできないグレイは押し黙った。そのまま棒立ちでどのくらいたのか。果てしなく長い時間を過ごしたような気がした。
揺れた赤毛が遠ざかろうとした。それに思わず手を伸ばしたグレイは、ルーニーの肩を強く抱き締めた。無意識だったのだろう。彼自身もとても驚いた顔をして、黒い瞳を見開いている。
乾いた喉に唾液を流し込み、喉をゴクリと鳴らしたグレイは「意味分かんないです」と唸るように低く溢した。
「……勘違いでもなんでも良いですから、寝てください」
腕の中の肩が強張るのが手に取るように分かった。
自身の冷静な部分が「これが正解でなかったら、明日からどうする気だ」と問いかけてきた。急に抱き締めるなど変な男だと思われ、距離を置かれて旅を続けるのは、想像するだけでも辛い。
──それでも……
上げられたルーニーの顔は泣き出しそうだった。まるで、悪夢に怯える子どものようで、どうして放っておくことが出来ようか。
複雑な思いを抱きながらも、ルーニーを放っておくことが出来るほどグレイは薄情になどなれず、また言われるままの子どもでもいられなかった。
しばらく、時が止まったようだった。
何も語らず動かずに、二人はゆっくりと息を繰り返す。
「……悪かったな。けど──」
困り顔に無理矢理笑みを貼り付けたルーニーは、グレイの胸を強く押す。そして「余計にダメだ」と言って離れた。
「ちょっと頭冷やしてくる。朝までには戻るから」
「ルーニーさん!」
離れようとするルーニーの肩を再び掴もうとした手は弾かれ、拒絶される。
「呑まないから、心配するな」
「そうじゃなくて!」
ルーニーの前に立ちはだかったグレイは、伸びてきた指先に身を固くした。瞬間的に、酒場で目撃した人を縛る魔法を思い出したのだ。どう頑張ろうとも、彼を止められないことは、頭の片隅で分かっていた。
「ばーか、お前に魔法は使わないよ」
小さく笑い、伸ばした手でグレイの胸元を掴んだルーニーは、彼を自分に引き寄せる。
予想外の力強い引きに驚き、目の前の悪戯っ子のような笑顔に黙ったグレイは、あまりにも近すぎる顔に思考を停止させた。
「ちゃんと寝るんだぞ」
甘い香りと柔らかいものが頬に触れる。
それが、おやすみのキスだったと気付いたのは、扉が閉ざされて数秒経った後だった。
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