<13> ノスタルジー

 カウチで伸びをしたルーニーは満足そうに「持ってきて正解だな」と言った。

 耳に被せられたカフスに触れ、グレイは曖昧に頷く。


「もう少し時間があるなら、下位古代語から教えるんだが……魔法解析の道に進まないなら、そう本気になる必要もないしな」

「解析?」

「あぁ、その道に進まないなら、それほど真面目に下位古代語を学ぶ必要はないぞ」

「そうなんですか? 魔法はすべて下位古代語で唱えるのかと思ってました」

「あー、よく言われるな、それ。そもそもだけどな、俺たちが使う古代魔法ってのは、神族が用いていたものを研究して改良したものだ。そこに使われる下位古代語を知らなきゃ、新たなものは読み解けない」


 過去を調べて解析し、新しい魔法や魔術を作る研究所もある。さらに、研究を進めて魔術を簡略化して道具を作り出す技師もいる。

 グレンウェルド国は魔術師が多くいるだけではなく、そういった開発にも大きく力を入れている。その研究や開発に下位古代語が必要になるわけだが、実際に多用される魔法はそうとは限らない。手慣れてくれば火を灯したり明かりをつける魔法などは仕草一つでも行える。


 つまり、魔術師が下位古代語を学ぶのは、開発者や研究者を育成する目的があるからだ。そう言ったことを掻い摘んで説明され、グレイはただただ驚いて聞き入った。


「はぁ……想像していたものと、ずいぶん違うというか……」


 いまいち冒険譚の魔術師にあるイメージから自分は抜け出せていないのだなと思い、グレイは己の貧困な知識に対して眉間の皴を濃くする。それを見ながら果実水を飲み干したルーニーは、どこか懐かしむような眼差しを向けた。


「魔術師は覚えた呪文を唱えるものだと思ってましたが、そうではないのですね」

「まぁ、同時に多くの学生に教えるにはその方が楽だから、初級魔法は共通呪文もあるけどな。本来、そんなものは存在していないんだ」

「呪文が存在しない?」

「あぁ、詠唱ってのは、術式を構築する段取りを確認するためものだから、人によって選ぶ言葉が違うし、声に出さず文字に書きだすのもいる。簡単なものになれば詠唱なんて必要ないな。まぁ、パフォーマンスが好きな奴は、わざとらしい技名つけたりするけど……それこそ、魔術師によって千差万別だ」


 教本を前にグレイが渋い顔をしていると、ルーニーは彼の眉間の皴を人差し指でぐりぐりと押して「皴取れなくなるぞ」と笑い飛ばした。


「そんな身構えるなよ。とりあえず、それは本当に初級だし、魔法学校で使う子ども向けの教本の元になったやつだからさ」

「これがですか!?」

「まぁ、下位古代語を習得した子達が使うやつだけどな。内容はそう変わらないぞ」


 だからそう身構えるな。そう言われても、グレイは唸ることしかできなかった。


「魔術師は、本当に頭がいいと思います」

「そうか? 案外、脳筋だったりするんだけどな。ま、お前は魔術師とはちょっと違う道を目指すんだし、気楽にいけばいい」


 ぱしぱしとグレイの背を叩いたルーニーは、彼が少しだけため息をつくと肩をすかして笑った。


 自分の意思で弟子になったわけではないのだから、尻込みするのも仕方がないだろう。ここで諦めるなら、それまでのことだ。

 そもそも、期待は往々として裏切られるものだ。そんな念は抱かない方が己のためだと身をもって知っているルーニーは、グレイから視線をそらそうとした。その瞬間、顔を上げた彼の表情に目を奪われ、動きを止めた。

 真っすぐとした視線が向けられる。


「努力します」


 そこに、迷いなどないように見えた。

 真っすぐな黒い瞳は、懐かしい眼差しを思い出させた。真摯で純粋で、疑うことなど知らない。


──まるで、静かな夜の海のような。


 思わず彼の頬に手を伸ばしそうになったルーニーは、ハッとする。そして、行き場を失った手はグレイの大きな手を掴み、彼を引き寄せた。

 突然手を引かれ、ルーニーの行動を予想などしていなかったグレイは目を瞬いた。

 傾いだ大きな体は容易くルーニーの腕の中に納まった。

 ややあって、唐突に抱き寄せられたと気づいたグレイは慌て、体を起こそうとカウチに手をついた。


「良い返事だ! 素直な奴は、嫌いじゃないぞ」


 無造作に、グレイの髪がわしゃわしゃとかき乱された。

 まるで子どもを褒めるように髪を撫でる仕草に硬直したグレイは言葉を失う。


 目の前にあるルーニーの懐から、ふわりと優しい香りが届いてきた。花の香でもお菓子のような甘ったるいものでもない。だがそれは、どこかで嗅いだことのある、とても素朴で懐かしい香り。まるで、母の腕の中のような──


 不意に、グレイは母の膝で甘えた幼い記憶をよぎらせた。

 顔を上げれば、満面の笑顔がある。華やかで、温かで、それでいて無邪気ささえ感じさせる。

 言葉もなく見つめ合っていたのは、どのくらいの時だったのか。あるいは一瞬だったのか。


 何か言葉をかけなければと、グレイが焦りを見せる。それに彼は気づいたのか、気づいていないのか。何事もなかったかのような顔で「それじゃ」と口を開いた。


「報告書を届けてくるな」


 ルーニーがグレイを押しのけるようにして立ち上がると、彼の言ってる意味が分からないグレイは首を傾げた。

 振り返った窓の外は、当然だが真っ暗だ。


「届けるって……今からですか?」

「疲れたら寝てていいぞ」


 ルーニーを仰ぎ見るが、彼は視線を合わせることなく文机に歩み寄った。そして、報告書を収めた箱と立てかけていた杖を取る。


「朝までには戻る」


 床を杖の先で小突くと、浮かび上がった白い光は帯となり、次第に文字となった。そして、床から浮き上がった円陣に飲まれるようにしてルーニーの姿は掻き消えた。

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