<14> 傷痕



 ***




 鉄臭い血の匂いに息苦しさを感じ、ルーニーは乾ききった喉に粘ついた唾液を流し込む。汗ばむ手で愛用の剣を握り締め、暗い道を歩き続けた。


 ──耳鳴りが止まない。頭がおかしくなりそうだ。


 ここは何処だろうか。

 以前も来たような気がするのに、記憶に霧がかかって思い出すことは叶わない。ただ、痺れる手足が鉛のように重いことから、長いこと戦い続けているのだと予測できた。


 ──俺は何と戦っている。仲間はどこだ。


 意識が混濁するのを、頭を振って堪える。

 分からにことだらけだった。しかし、それでも前に進まなければならないことを身体が覚えている。ここに留まってはならないと、足が自然と前に出る。


 足音が重なった。

 他に誰かいるのかと横を見るも、立ち込める霧で、その顔を確認はできない。再び前を向くとその足音が止まり、釣られるようにルーニーの歩みも止まった。そして、無意識に視線が頭上に向く。


 そこに現れたのは、大きな時計塔。


 霧の中、迫りくるような大きな黒い影を前に、自分がひどく小さくなったように感じる。今にもそれは倒れ、押しつぶされるのではないかと思うほどの威圧感があった。


「……ここ、は……」


 霧がかかった時計塔は黄昏色に染まっている。

 どこかで見たことのある。馴染みの深いもののはずだと言い切れる。だが、その時計塔がどこのかと思い出そうとすると、何故か叶わない。

 耳鳴りがさらに酷くなり、頭の奥がずくずくと痛み出して考えるのが億劫になった。


 ──考えろ。


 自身に言い聞かせたその時、一つの影が塔より舞い降りた。

 暗い影が、静かに。

 その影を知っていると確信したルーニーは、全身から血が抜けるような錯覚の中、息苦しさに喉を詰まらせる。

 白い顔はさらに青ざめ、かさついた唇からやっとの思いで声を発した。


「……アン……やめ、ろ……アンジェ……」


 がくがくと手が震えだす。


「だめ、だ……もう、やめ……だめっ……」


 止めなくては。そのことだけに意識が向くが、どうしてか、足も手も動かなかった。


 視界が真っ赤に染まり行く中、動け動けと念じても、指一本動きやしない。ただ叫び声を上げるしか出来なくなったルーニーは、体の中が己の声で埋め尽くされていくような錯覚に陥った。


 体の中で渦巻く悲鳴で、頭が可笑しくなりそうだった。

 

 仄暗い虚無と後悔が広がると、時計塔も人影も、霧すら消えた。

 残ったのは、ルーニーただ一人。

 暮れゆく黄昏の空の狭間のような不思議な暗がりの中ぽつんと佇む。夜空にはまだ僅かに遠く、それでいて燃える炎の中のようなのに、ひどく暗い空。


 頬を涙が伝い顔を汚した。

 それを拭いたくても指一本動かず、ぎりぎりと唇を噛みしめれば口の中に鉄臭い匂いと味が広がる。その血の匂いは全身に広がり、まるでに血の海に落ちていくようであった。


 ルーニーは膝を折り蹲る。

 そして、なぜ今更に体が動くんだと、自己嫌悪に押しつぶされそうになりながら、を殴り、むせび泣いた。


 どれほどそうしていただろうか。ふと、身体がじんわりと温かくなり、冷え切っていた脚に感覚が戻った。

 うるさい耳鳴りが遠のき、血の匂いが薄れていく。

 黄昏は次第に闇となり、静まり返る。


 すると、別の音が届いた。


 聞きなれないそれを、誰かの声だと理解した時、自身の名が呼ばれているのだと気づいた。そう気づいた時には、すでに夢から覚めたのだと分かり、視界に色が戻った。


「……さん……ルーニーさん!」


 そこには見慣れない顔があった。

 随分心配そうな顔をして、自分を見ている。見ているというか顔が近い。そうぼんやりとしたまま思考を巡らせたルーニーは、指を伸ばすと、何気に彼の頬に触れた。


 ──温かい。生きてる。


 ほっと息をつき、次第に意識がはっきりとした。


「……えっと、あれ? 俺、いつの間に……」

「やっと、起きた。大丈夫ですか?」


 安堵のため息をつく相手は誰だったろうかと、一瞬考えた。そして、自分を覗き込むような黒い瞳に既視感を得て、ふと思い出す。


 そうだ昼過ぎに魔法騎士に育ててほしいと預けられた子だ。

 一瞬、古い記憶が重なり「ウィル?」と呟くが、すぐさま、そうじゃないと首を振る。


「……グレイ、だよな?」

「はい。良かった。突然、その……」


 グレイの筋張った指が、自分の肩を抱いていることに、ついで頬が涙で濡れていることにルーニーは気付いた。涙をこぼしたなんて可愛いものではなく、彼の胸元もずっぷりと濡れている。


「すみません。あまりにも暴れて危なかったもので」


 取り押さえるために抱き締めたら落ち着いたため、寝台に戻してからも、離れるに離れられず今に至るのだ。

 しどろもどろにそう説明したグレイは、腕の中で呆然としているルーニーに「悪い夢でも、見ましたか?」と尋ねた。


 ルーニーの形の良い眉が寄せられた。そして、思い出せないと言うように、首を横に振る。


「……俺、寝てたのか」

「ほんの一時いっときですが」


 そう答えたグレイが身体を離そうとすると、ルーニーは彼の手を掴んだ。


「ルーニーさん?」

「あ、いや……なんでも、ない。悪かったな」


 自分でも、どうして引き留めようとしたか分からないのか、慌てた様子のルーニーは手を引っ込めると、濡れる頬を拭った。


「……手、握ってましょうか?」

「は?」

「子どもの頃、悪夢を見た時、乳母がそうしてくれて……あ、別に子ども扱いとかじゃなくて、ルーニーさん、忙しくて休めてそうにないから、そうすれば休めるかな、と。明日から旅に出るのに、今日、休めないのは、いくら旅慣れしてたとしてもよくないか、と」


 早口でまくし立てたグレイの顔は真っ赤で、ルーニーは涙もどこへやら、ぷふっと吹き出して肩を震わせた。


「ルーニーさん?」

「おまっ……図体デカいくせに、手、握ってもらって寝てたのか?」

「え? だ、だから、子どもの頃って!」


 いつまでも肩を震わせるルーニーの様子が、次第に腹立たしく思えてきたグレイは口を真一文字にして、寝台から足を降ろした。


「……ありがとな」


 白い手が、日に焼けた武骨な指を引っ張る。それは傍に居て欲しいと伝える代わりのようで、驚いたグレイは振り返った。しかし、頭までシーツを引っ張り上げてしまった彼の表情を見ることは出来なかった。


「ちゃんと、魔法、教えてやるから」

「……読めないとこ、ありました」

「もうかよ?」


 ちらりと顔を半分だけ出したルーニーは、少し困ったような表情をしていた。それが、どうにも子どもっぽく映り、グレイは甥を相手しているような錯覚に陥った。


 散々遊んでもまだ遊び足りない。いなくなっちゃ駄目だからね。ちょっと寝て起きたらまた遊ぶんだから。

 そう言いながら、手を離そうとしなかった小さな甥。あの子は今、自分がいなくなって寂しいと泣いていやしないだろうか。


 グレイは無意識に、その白い手を握りしめていた。


「ちゃんと、教えてやるよ……」


 瞬きが増え、まだ眠いのだと見て分かった。


「あ、それと風呂場の場所も教えてください。掃除ができません」

「……なに、お前、アレ真に受けた、の? ほんと真面目だな……そんなん、竜骨兵が、もうやって……」


 うとうとと瞼を降ろしたルーニーは、再び意識を手放した。しっかりと、グレイの手を握ったまま。


 規則正しい寝息に、ほっと安堵したグレイは書庫の惨状を思い出した。もしやあの時も、眠って悪夢を見たのだろうかと。


 ベッドの天蓋を支える柱のヒビに目を向け、破れたカーテン越しに部屋を見渡した。その惨状は、あまりにも凄い。

 壁の絵画は破り捨てられ、花瓶は床で割れて花々が無残に散らばっている。扉も、テーブルやカウチがひしゃげている様も無惨だ。これらは全て、ルーニーが壊したもの。


 何度声をかけても視線は合わず、彼は力の限りあたりのものを壊していった。剣や魔法を使わずに、ひたすら自分の手で辺りのものを壊し、手が血にまみれても止まらない姿は狂気じみていた。


 すでに傷は癒え、乾いた血の跡だけが残る手をそっと撫でる。しかし、その驚異的な回復よりも、彼の奇行の方が強烈に記憶に刻まれた。


「……まるで、夢遊病だ」


 しかも自身まで傷つけているから、質が悪い。

 そんなことを考えながら赤髪をそっと撫で、謎だらけのこの魔術師と明日から始まる旅に一抹の不安を覚える。

 たった半日だというのに、受け止めきれないことが起き過ぎた。


 きゅっと指が握られ、白い頬に涙が伝い落ちるのが目に映った。その涙を拭ったグレイは何度めかの溜息を零した。

 受け止めきれないと嘆いても、明日はやってくるのだと、腹を決めるしかなかった。


 この夜、ルーニーが目をさますことはなく、グレイもそのままベッドで眠りに落ちた。

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