<15> 街道の先に
早朝、目が覚めると、無残な調度品はすっかり片付けられ、新しいもので整えられていた。
横を見ると、すでにルーニーの姿はない。
もう一度見回した部屋の調度品は傷一つない。
──夢を見ていたのか。
一瞬、そう思ったグレイだったが、ふと目にした寝台の柱には無惨なヒビが入っている。部屋の調度品も昨日とは色や形が異なった。
ルーニーが横になっていたであろう辺りのシーツは、すでにひんやりとしている。起きてから時間が経っているようだ。
まさか、また夢遊病でどこかへ行ったのではないかと不安が首をもたげたその時、扉が音を立てた。
振り返ると、銀のトレイを片手にルーニーが入ってきた。そして、視線が合うとあっけらかんとした声で「起きたか?」と尋ねるではないか。まるで昨夜のことが嘘のような爽やかな笑顔で。
「おはようさん」
「……おはようございます。すみません、寝てしまいました」
「は? 別に起きてろなんて言ってないだろ?」
手に持っていた銀のトレイをテーブルに置き、ルーニーはグレイを手招く。
「昨日、何も食ってなくて、腹減っただろ? 朝飯にしよう」
布張りの椅子に腰を下ろし、並べられた食事を見たグレイは驚きの表情を浮かべた。
焼きたてのパンには、ベーコンと目玉焼き、チーズが挟まれている。湯気を立てるカップの中は腸詰めと乱切り野菜が入ったスープだ。小皿の果物は切り分けられているものの、皮がむかれていない。
全てが豪快で、料理人どころか、女性の用意したものですらないことは明白だった。
「これを、ルーニーさんが?」
「一人暮らしだし。これくらいはな」
「……じゃぁ、なんで、昨日は空腹で倒れてたんですか?」
「自分のために作るって、面倒だろ? 食う時間あるなら、仕事する」
「不健康ですよ。何事も身体が資本って――」
「ウィルみたいなこと言うなよ」
顔を引きつらせたルーニーは、分厚いパンに齧りつく。そして口の中のものを咀嚼して飲み込むと、黙り込んでしまったグレイをちらりと見た。
その眉間にしわを寄せて口を真一文字にしている様子は何か考え込んでいるものだと、知り合ったばかりだとしても察しやすい。
──ウィルを意識してるみたいだな。
ウィリアムの名を出したことで、比べられたと捉えたのだろう。そう感じたルーニーは嬉しそうに口元を緩めて笑った。
「たった三ヶ月でも、お前の中でウィルは父親になってんだな」
皿にこぼれた卵の黄身をちぎったパンで拭い、口に放り込みながら、再び様子を探るが、返事はない。
「旅が終わったら、ちゃんと話し合ったら良いさ」
「……はい」
「ったく、そんな眉間にしわ寄せんなって! せっかくの男前が台無しだ。ほら、食え!」
「いただきます」
温かいパンを噛み締め、自分が空腹だったことに気づいたグレイは、黙ってそれを飲み込んだ。
──昨夜のことを聞くタイミングを逃してしまった。
だけど、それで良かったのかもしれないと思いながら、グレイは黙々と朝食を口に運んだ。
その様子を見ていたルーニーがぽつり「似てんな」と呟いたことに視線を向けたが、それに対して何かを聞き返すことはなかった。いや、出来なかったのかもしれない。
そしてルーニーもまた、それ以上を語ることはなかった。
それから、雑用があるからと忙しく部屋を行き来するルーニーをちらちらと見ながら、グレイは渡された教本を広げて待つこととなった。
昼前には、馬にまたがり街道を南下していた。
青い空を羽ばたく鳥の姿を眺めれば、誰もが平和だと感じるだろう。しかし、昨日のウィリアムとルーニーの会話から、急を要する状況なのだとグレイなり分かっているつもりだった。
──緊急事態、なんだよな?
国の緊急時には、神殿に設置される転送の魔法陣を使うことがある。魔術師も稀に転移魔法を使うものがいる。
朝食を食べ終えたルーニーが何かと忙しく用意をしていたので、てっきりそういうことなのだろうと思っていたので、屋敷を出る際に荷を積まれた馬を前にし、グレイは少々拍子抜けをした。
よくよく考えれば、ドラゴンウィングまでは一か月かけて向かうと伝えられていたのだから、馬で行くことは察しがついたものだが。
街道を行く途中、馬の速度をわずかに緩めたルーニーはゆるりと周囲に視線を巡らせた。それに釣られるように、グレイは辺りを見る。
芋の収穫を終えた広大な畑には秋まきの小麦の種をまく姿が見られた。
ひと月も過ぎれば若葉が茶色の大地を青く彩るだろう。その広大な畑を区切る小道を女たちが笑い声を上げながら籠を抱えて歩いている。向かっている先には紅葉が美しいこんもりとした林が見えた。
──ハシバミの実でも取りに行くのだろうか。
そんなことを思いながら、少し前を行くルーニーの先へと視線を移した。
整備されたこの街道の横も木々が美しく紅葉している。空はどこまでも高く、連日続いた雨が嘘のようだ。
小鳥のさえずりが耳に心地よく触れ、緊迫しているはずの旅路とはあまりにも程遠く感じた。
「この辺りは水はけがいいから、農作物の影響もな少なそうだ」
「そうですね。畑も荒れた様子がありませんし」
「まだ採り終えてないハシバミがやられてないかは気になるとこだが……笑顔なら大丈夫だろう」
ルーニーの視線の先では、畑仕事をする女たちが大きな口を開けて笑いあっていた。
「楽しそうですね。このあたりの雨量はそれほどではなかったのでしょうか」
「あぁ。特に酷かったのは西方で、王都フランディヴィルより南はそれほどじゃなかったらしいぞ」
安穏とした声音だが、彼の様子はまるで辺りを視察しているように見えた。
後ろからではその表情までは探れないが、その視線がゆっくりと周辺にめぐらされているだろうことは、揺れる赤髪の様子からうかがえる。
その姿に、グレイは一人の男の背中を重ねた。
『グレイ、商人はいかなる時も、その地に生きる人と生活の動きに敏感にならねばならんぞ。金を追うな。人を重んじろ』
幼い時分に馬の上で聞いた話をおぼろげに思い出した。見上げた先で厳しい目を緩めたその人を。
肩越しに振り返って笑ったルーニーに、記憶の男の笑顔が重なる。
「どうした?」
会話が途切れたことを不思議に思ったのだろう。馬の歩みがさらに緩み、並行して進むようになった。
「……メレディスの父が、よく天候が荒れた後に郊外や港へ出ていたことを思い出していました」
「へー。お前も一緒に出たのか? 期待されてたんだな」
「さぁ、どうでしょうか。母の連れ子でしたし、使い勝手のいい小間使いか護衛にしたかったのだとは思いますが」
感情のこもらない声で淡々と返すと、馬の歩みを止めたルーニーが目を見開いた。
手綱を引き振り返ると、見開かれた鳶色の瞳が日差しを受けて煌めく。
──綺麗な色だ。まるで宝石の輝きのようだな。
場にそぐわない、そんなことをぼんやり思ったグレイは、彼が何か言葉を探しているのだと気づき、抑揚のない声で「気にしないでください」と言った。
「母から実の父の話は聞いたことがありませんが、メレディスの父、それに兄と姉もよくしてくれました。それほど不遇の環境とも思ってません」
「……そうか、あの時はもう、お前が腹の中にいたんだったな」
「はい?」
「ん? あぁ、すまん。ちょっと思い出してたんだ。お前の母さんは知ってるからな」
てっきり、不憫な者への言葉かけに悩んでいるのかと思いきや、そうではなかったらしい。
ルーニーの台詞の意味が理解できず、グレイは眉間にしわを寄せた。
「あ、あの……どういう、こと、ですか?」
「ん? お前の母ジェマに魔法を教えたのは俺だからな。ジェマが嫁いだ経緯はある程度知ってる。あー、だけどお前の父が誰かは知らないからな」
それは聞かれても答えようがない。そもそもジェマ自身が話さないなら知っていたとしても自分の口から告げることは出来ない。そう語るルーニーの言葉は半分もグレイに届かなかった。
全く無縁の場所に放り込まれた。
グレイはそう思っていた。
母が魔法を使えるというのも初耳だったが、それ以上に不思議な縁を感じ、胸の奥がざわついた。それは期待や喜びと、得体の知れない不安のようなものが混ざり合ったような、言葉では言い尽くせない複雑なものだった。
「……母が魔法を使う姿は見たことがありません」
「そうか。ま、色々思うとこがあるんだろう」
グレイの傍までより、白い指を伸ばしたルーニーは穏やかに微笑む。
鳶色の瞳が日差しを浴びて、また輝く。
「いろいろ落ち着いたら、一度メレディスに行こうか? 俺も、ジェマに会いたいしさ」
花が咲いたようにぱっと笑顔になったルーニーに、考える間もなく「はい」と頷いたグレイは、はたと気づく。
彼は「魔法を教えたのは俺だ」と言った。
母ジェマが若くして出産したとはいえ、彼女も間もなく三十五を迎える。その母の容姿や顔を思い出してみるが、どう考えてもルーニーと年が離れているようには思えない。
「楽しみが増えたな。厄介ごとはさっさと済ませよう。行くぞ!」
「え、あ、はい!」
馬の腹を蹴ったルーニーに促され、後を追ったグレイは心の中で違和感に首を傾げつつも、まっすぐ前を見据えた。
長い並木道が続いている。
それはまるで、言葉に言い表せない、複雑な迷いから抜け出すための道のようにも思えた。
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