<2> 女神ディエリエール
門をくぐり、屋敷につながる石畳の左右には手入れの行き届いた庭木や、伝承が刻まれた石碑などが並んでいる。それらを横目で見ていたグレイは、噴水の中央にある乙女像に目をやった。
「あれは……」
「どうした、グレイ?」
「こちらはディエリエール神を祀られているようですが、兎を抱えた乙女像というのは見たことがなかったもので」
「あぁ。メレディスでは蛇を腕に巻いていたり、犬を従えている姿が一般的か。この辺りでは、繁栄を意味する兎を抱く乙女像や絵画も多いな」
「そうなんですね」
よく見れば、体の線も表情もどことなく異なるようだ。豊満な体と朗らかな微笑みは、よく言えば穏やかで家庭的な印象だが、メレディス育ちのグレイには馴染みのないものだった。
豊穣を司るディエリエール神は農耕や狩猟を司り、繰り返される生命の営みの象徴でもある。そのため、ただ美しいだけの乙女ではなく、生きるための雄々しさを秘めた女神と伝えられている。
豊かさの象徴であるため、メレディスの商人たちがいつ頃からか商売繁盛を願うようになり、地方によっては子孫繁栄の意味が強い。幼い時分にそう習っていたグレイは、見上げた像のあからさまな肉感を見せる姿に馴染めそうになかった。
そんなことを考えていると、先導の司祭が屋敷の前で足を止めた。
彼はちらりとグレイを窺うそぶりを見せ、次いで町長を見た。扉を開けてよいかと問うているのだろたい。頷いた町長がルーニーに声をかけた。
「賢者様、お聞きするのが遅れましたが、そちらの方は護衛の方でしょうか?」
「私の弟子だ」
「お弟子様……左様ですか」
「見たものを触れ回るような男ではない」
グレイを置いていく気もなければ、とやかく言われる筋合いもない。そう言葉にせずとも意図が伝わったようで、グレイをチラチラと見ていた町長は肩を強張らせて司祭と顔を見合った。
司祭は異を唱えることができないと察し頷く。
「この先の案内は私一人で行います。町長はこちらでお待ちください」
「……娘を、どうぞお救いください!」
司祭が扉を開けるのを見届け、町長は声を張り上げて”賢者”の背に願った。
己でも思ったより声が大きくなってしまったのだろう。一瞬、彼は驚きの色を見せて目を見開くが、ルーニーが振り返ると慌てて頭を下げた。
「町長殿の娘か。最善を尽くそう」
そう告げれば、小太りの体が縮こまり頭がさらに深く下げられる。そして、扉が再び閉ざされるまで彼が頭を上げることはなかった。
重苦しく開け放たれた扉の先に広がる光景は一般的な礼拝堂だった。
長椅子が整然と並び、中央奥にはディエリエール神の絵画を背にするように祭壇が設置されている。絵画の飾られる壁の左右端にある質素な扉の先に司祭の居住空間や客間等があるのだろう。
この場には乱れもなく、特に異常は感じられない。
静かに先を行く司祭の後に続きながら、ルーニーはちらりとグレイを見ると、町長と司祭の困惑した表情を思い出して少しばかり苦笑を浮かべた。
旅の道中ということもあり、グレイの出で立ちは肩当にマント、革の胸当てといった軽装だ。
魔術師にも剣や短槍を扱う武闘派も少なからずいるが、そう言った戦闘狂は一般的ではない。そのことを考えれば、彼を護衛と勘違いしても可笑しくはない。何せ、恵まれた体格に身につけるマントには国章が施され、腰に剣を下げているのだから。
──どちらかと言えば、俺が守る方だけど。
可笑しさが込み上げ、ルーニーは堪らず口元を手で覆い隠した。意識しなければ気が緩み、笑い声をこぼしてしまいそうだった。
緊迫した空気に似合わない笑みを一瞬だけ見たグレイは不思議そうに眉をひそめた。
ふっと息をついたルーニーはグレイを見る。
「道すがら話した魔人の話の続きをしようか」
しんっと静まり返った屋敷の中、足音とともにルーニーの声が響いた。
司祭の肩が、僅かに反応する。
「まず、妖魔の核とは人を魔獣化させる目的で、サマラが生み出した術式を物質化したものだ。だがそれには膨大な魔力が必要で、術を施された者が魔力に耐えられなければ暴走する欠陥だらけの魔術だった」
「では、今から向かう被害者は魔獣に……」
魔獣化という言葉に喉を鳴らしたグレイは、恐ろしいことを想像した。いや、魔獣の実物など見たことはなく、想像すら難しかったため、仄暗い得体の知れないものを想像したに過ぎないのだが、それでも緊張感は増した。
だが、ルーニーは頭を振ってその予想を否定する。
「魔獣になるわけじゃない。サマラは、欠陥品だった核を改良し、魔獣化させた赤子を産ませるという非道なものを作り出した」
「……産ま、せ、る?」
「核は宿主の中で魔法生物となる。例えは悪いが、核は卵のようなものだ。それに組まれた魔術が作動すると、本人や周囲から魔力を取り込み成長を始める。魔力の相性もあり、時として定着せずに消滅するが……不幸にも出産に至れば、人知を超えた魔力を持った赤子が生まれる」
奥の部屋からさらに地下に降りる階段を進み、階段を降り切ると、ルーニーは静かに息を吐いた。
薄暗く冷えた地下は、他の町にある神殿と違わず墓地となっていた。
さらに奥へ進めば、一角の床が跳ね上がり、その下に通じる暗い穴がぽっかりと現れる。小さな穴は大人一人が通るのがやっとの大きさで、先に広がるのはより深い闇だった。
まるで人ならざる者の国へと繋がっているようだ。
「ただし、魔人による被害の報告はほぼない」
「魔人は脅威でないのですか?」
「脅威だ。その実例もあるからな」
司祭が手にする杖の先に灯る光がさらに強く輝いた。
暗い穴を照らせば、石造りの階段が浮かび上がる。そう長くない底を降り切ると、明かりで照らされた先の光景が目に飛び込んできた。
「数が少ないとは言え、脅威にだと判断したグレンウェルド国は──」
狭い空間はまるで牢屋だった。
鉄格子の向こうには、簡易のベッドと手洗場があるのみ。地下深いので明り取りの窓すらないのは分かるが、カンテラどころか楼台一つすら火が灯されていない。
影が蠢き、それが人だとグレイは気づく。
「核を埋め込まれた宿主を発見次第、保護と核の排除を、国の高等魔術師と神殿に義務づけた」
ガシャンっと音を立て格子を掴んだのは痩せた娘だった。その眼が縋るように向けられる。
「司祭様、お許しください!」
細い指が鉄格子を揺らしながら、しゃがれた声で叫ぶ。もう長いこと訴えて声を枯らしてしまったのだろう。
娘の頬はこけ、眼窩のくぼみが黒ずんでいるように見える。栄養状況が悪く寝ていないだろうことが、素人目にも明らかだ。身なりは上質の絹で繕われた服で、ほつれているが纏められた髪を彩る飾りは庶民が身に着ける類のものではなかった。
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