<5> 書庫にて
浴槽から上がり、用意されていた服に袖を通したルーニーは、足早に西の書庫に向かった。
マーロックが言っていた「何か要因があるんでしょうか?」と言う疑問が、どうも引っ掛かっていたのだ。
駆け付けた現場に、魔獣の痕跡はなかった。これは間違いない事実。
魔獣とは自然発生する狂暴化した大型の害獣を指す。多くが何らかの魔法を使い、倒しても一定の周期で再び現れることが長年の研究で分かっていた。しかしこの十数年は、各地に被害を及ぼすような大型魔獣の出現は確認されていない。
マーロックの懸念はそこなのだろう。
ガーランド各地で異常気象が続けば、魔獣の出現の予兆のように思っても仕方のないことだ。
この異常気象ととれる現状で、地方騎士団や商工ギルドと連絡を取り合い復興に足りない物資と支援部隊を国から派遣している状態が続いている。今、サマラの妖魔どころか大型魔獣が現れただけでも、混乱が生じることは容易に想像できる。
──サマラよりはマシだが……。
薄い唇に触れながら思案するルーニーは、立ち止まると壁にかかるガーランドの地図を見た。グレンウェルド国、メレディス国、サマラの地、そしてジェラルディン連合国と視線を移動する。
ジェラルディンの東部に位置するドラゴンスケイル国は、国内唯一サマラに接している地だ。過去にも曰くありげな事件が繰り返されているのだから、悪い噂が常に足りないのも致し方ない。
「……奴が動きだしたのは間違いない」
脳裏に黒い仮面の魔術師を浮かべ、奥歯を噛み鳴らす。
とすれば、やるべきことは分かり切っていた。だからと言って、直近の問題を放置するのも後々厄介になるような気がしていたため、マーロックに調査を任せるとしても、参考資料を送るくらいの手助けはしておく必要があると直感していた。
こういった時の直感と言うもは、恐ろしいことに、大方当たるものなのだ。
「めんどくせぇ……けど、万に一つってこともあるからなぁ」
自身に言い聞かせ、地図から視線を外したルーニーは薄暗い廊下の突き当りを真っすぐに見た。その先に目的の書庫がある。
ほんの少し歩き、眼前に現れた重厚な扉を静かに押し開けた。
中に足を踏み入れると、等間隔に設置されているカンテラの中にある魔晶石がポッ、ポッと僅かな音を立てて淡く青い光を灯した。
ひとまず必要なのは、魔獣の出現の報告書と周期に関する報告書。過去のものが現在の不確定要素の否定要因になるか、あるいは確定要素になるかもはっきり言えないが、それでも考察の足しにはなる。
インクとカビの匂いが鼻腔を撫でる中、薄暗い書庫を見上げたルーニーは首を傾げて口を引きつらせた。
「どこだったかな……」
定期的に調査と研究の報告はされているため、最新版はそう古くない。五年ほど前に一度出されていた記憶があるし、一階層にあるのは間違いないのだがと、うんうんと小さく唸りながら探した。
棚に記した識別番号を辿っていくと、それらしい棚が見つかった。
指で宙を撫でると、際に寄せておいた梯子がひとりでに動いて設置される。それを上った先を眺めると、思いの外すぐに目的のものを目にした。
なめされた厚い羊皮紙で綴じられた紙束がぺらっと音を立ててめくられる。
「そうそう、これこれ。発生事例は……」
魔獣の出現周期の研究と調査は、大魔女が若い時分に同僚とともに過去の統一されていない記録をまとめることから始まった。現在は、グレンウェルド国の研究機関にある調査班に引き継がれている。五年前の調査によれば、直近で発生の可能性が高い地点は国内にない。だが、想定外の出現が否定できるわけでもない。
それに関する考察や過去の想定外の発生事例もあるはずだったと、ルーニーはさらに項目を辿った。
パラパラと紙を捲り、ふと指を止める。
「想定外の出現記録は……十年前……あぁ、あれか」
指を止めたルーニーは、そう古くない想定外の発生事例に関する考察を読み進めると顔を強張らせた。
その一件はジェラルディン国内で起きたために、手出しができなく解決が出来なかったのだ。そして、前国王の指示で魔獣絡みとして処理された。
再び、黒い仮面の魔術師を思い出す。
いつだって嫌な記憶にはあの仮面がつきものだ。それに小さく舌打ちをしたルーニーは薄暗い天井を睨むと、長い息を吐きだし、気持ちを切り替えるとその報告書を手放した。
ゆるりと落下した報告書は、静かに床に着地する。
いくつもの報告書を見ているうちに、気持ちはすっかり落ち着いていた。そして、若い頃にガーランド各地を転々として討伐に赴いていたことを思い出す。
──俺も、この調査のおかげで、ずいぶん楽させてもらったな。
その昔、研究者が発生に周期があると提言しても、賛同した者は魔術師の地位が確立しているグレンウェルド国の者ばかりだった。魔獣と魔物──蛮族と呼ばれる人族に害をなす種族や害獣などの総称──の違いすら認識しない者からは酷い言われようだった。
『魔獣ごときで怯むような弱い騎士団ではない』
『復活するなら倒せばよいだけの話』
そういった、自国の騎士団への自信に満ちた言葉はまだ可愛いものだった。
『魔術師殿は何を怯えられておるのか』
『サマラの封印が弱いのだろう。口ほどでもない』
『騎士がいなければ何もできない魔術師風情が他国に口を出すな』
サマラの封印に甚大な力を注いでいるのはグレンウェルド国だというのに、見下した物言いをする者も少なくなかったという。そんな辛酸をなめる時代を経て、調査は進んだ。
古くは、魔術師の多くが研究機関で働いていた。若い内は冒険者と共に外に出ていた者も少なくはなかったのだが、戦闘においては後方支援を行うことが主流だったとされる。今でこそ前線で戦える魔術師も数を増やしたが、ひと昔前はさらに少なく稀有な存在であった。
当時、古い文献に記されていた魔法騎士の育成が早急に求められたのも自然な流れだったのだろう。
大魔女から伝え聞いた話を思い出しながら、ルーニーは必要な報告書と書物を床に積み重ねた。
「少し早いが、そろそろ見直しの時期だな。調査班にも声をかけ……」
二十年前の周期表を探しながら手にした一冊をめくると、ひらりと一枚の栞が落ちた。それに気づいたルーニーがとっさに指を動かすと、栞は床に落ちる前に浮き上がり、静かに彼の手に収まった。
古びた栞には拙さを残しつつも几帳面な文字が綴られている。
『師匠、今すぐお休みください。仕事ばかりでは体に毒です。』
少し折れた跡や指の跡まであり、文字は掠れ、結ばれている紅い紐も色あせている。それが昨日今日書かれたものではないことは一目瞭然。
ルーニーの口元が綻び、ため息をこぼすように「こんなとこにあったのか」と声がこぼれた。
幼い弟子の厳しい眼差しを向ける姿が、脳裏に蘇った。
もう一度、懐かしそうに栞に視線を向ける。
「はいはい、休みますよ」
昔、そういって何度笑いながら逃げただろうか。
出会った頃はまだ小さくて、自分を探して名を呼ぶ姿を物陰に隠れてやり過ごしていたというのに、学習能力が高い少年は成長期を迎えると、見る間に自分よりも背丈が伸びて、普通に逃げてはあっさりと捕まってしまうようになった。
梯子の踏み板に腰を下ろしたルーニーは可笑しくなり、目を細めると、それを大切にそっとポケットに忍ばせた。
薄暗い天井を見上げ、十日ほど纏まった睡眠をとっていないことを思い出す。
「寝たら制御が難しいし、回復進むしなぁ……」
ぶつぶつと言い訳をすると、思い出の中の弟子が眉間にしわを寄せる。
「それに、悪い夢を見るじゃないか」
そう言いながら視線を泳がせたルーニーは、少年がため息をついて「お休みください。側にいますから」と、背後で言ったような気がした。
自分よりも小さい手が髪を撫でる優しさを、今でも鮮明に思い出せた。
子どもの手には似つかわしくない剣だこが出来た指。その指が優しく髪をほどいていく。「湯浴みの後は髪を乾かしてください」と怒りながらも、その指はひたすら優しくて心地が良かった。
懐かしい思い出の中、抗うことをやめて意識を手放した。
そして目が覚めた時に目にしたのは、記憶の手よりも骨ばった武骨な指と甘いナッツクッキーだった。
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