<4> 風呂は贅沢品

 一瞬の視界と意識の揺らぎを、瞼を下ろすことで閉ざす。

 長年使っている転移の魔法だが、一瞬だけ意識が持っていかれそうになる感覚はいまだに好きになれない。それも視界を閉ざすだけで回避できるのだから、大したことではないのだが。


 引っ張られるような感覚が解かれ、目を開ければ見知った屋敷のエントランスに立っていた。


「まずは、風呂だな」


 仮面を外し、雨に濡れた外套と共に出迎えたローブ姿の竜骨兵に渡す。それと代わりに差し出されたのは数通の書状だった。

 一つはウィリアムの印が押されている。それを後回しにして、別の書状の封を切ったルーニーは内容に目を通しながら浴室に足を向けた。


「……うん、ここから近い。明日、明後日には片づけたいなぁ」


 ぶつぶつ言いながら、次の封書を見ると眉間の皴を深くした。


「あー、あー、あー……マジで? なぁ、マジで言ってんの? ほんっとしんどいんだけど」


 中身を確認しながら歩いていたルーニーだったが、突如しゃがみ込み、ガシガシと髪をかき乱す。

 滴る雨水が廊下のいたるところに飛び散り染みを作った。


「あー……まぁ、うん、そろそろ限界だとは思ってた。思ってたけどさ……マジか。結構しんどいぞ……」


 後ろに付き従っていた竜骨兵は、うんうん唸る主に声をかけることもなく背中を見たまま立ち尽くしている。その存在など気にもせず、蹲っていたルーニーはそのままさらに一通、ウィリアムの書状の封を切る。

 几帳面な文字を目で追い読み終えると、薄い唇からふうっと長い息が吐かれた。そして、ゆらりと立ち上がると竜骨兵を振り返る。


「明日、ウィリアムが来る。出迎えの準備をしておいてくれ」


 命じられた竜骨兵は空っぽの眼窩に紅い光をともすと踵を返し、廊下を曲がり姿を消した。


 一人になったルーニーは再び歩きだし、当初の目的の浴室へと向かった。その瞳はどこか好戦的な危うい色をしていた。

 脳裏に一瞬、黒い仮面の魔術師が浮かんだ。


 ──まったく、長雨だけでも厄介だっていうのに。


 舌打ちをしたルーニーは濡れた髪をかき乱す。

 そろそろ何かしら仕掛けてくるとは思っていたが、果たしてそれは計画的なのか、たまたまタイミングが合っただけのことなのか。そんなことを考えながら浴室横の脱衣所で泥まみれの服を脱ぎ捨て、洗浄の魔法で全身の汚れを消し去る。

 足を踏み入れた浴室は、もうもうと湯気が立ち込めていた。


「まずは、落ち着こう」


 己に言い聞かせるように独り言ちて、濡れたタイルに足を下ろす。

 ピチャピチャと水音を立てて進んだ先、広い湯船に足を浸して引き締まったその体を横たえた。ブクブクと息を吐きながら全身、それこそ頭のてっ辺から足先までずっぷりと湯につけて横たわる。

 伸びた手足の先が痺れ、体の芯まで冷えていたことがよく分かった。


 洗浄の魔法のおかげで湯につかるという行為は一般的ではない。その術式を手軽に扱える魔法具を量産しているグレンウェルド国においては、庶民の間でも洗浄魔法が重宝されている。

 だとしても、冷えた体を温めるにはこの湯船が好都合だ。

 揺蕩う心地よさに体がほぐれるのを感じながら、この時ばかりは屋敷を建てた顔も知らない先人に、この無駄に大きな嗜好品を設置してくれたことを感謝をしたい気分になる。


 湯の中に何もかもが溶け出していくような錯覚に陥る。

 指先だけでなく、背中が痺れるようにじんわりと温まっていくのが心地よく、ほんの十数秒そうしていたが、息が苦しくなる手前でザバッっと派手な音とともに顔を上げた。


 ずぶ濡れの前髪をかき上げて縁にもたれかかると、見計らったように浴室に入ってきた竜牙兵が水差しとグラスの載ったトレイを差し出した。水差しの中身は色とりどりのベリーとミントが漬かった果実水だ。


 とぷんっと音を立てて、グラスの中にベリーも数粒落とされた。


 甘いそれを飲みこむと、追いかけるように爽やかな香りが鼻腔を抜け、全身の細部まで心地よさがいきわたった。

 ふうっと長く深い安堵の吐息がこぼれた。

 安堵するのもつかの間、ふと脳裏に浮かんだのは先ほどまでいた山道だ。


「巡回が、形骸化していた、とかか?」


 思い至ることを声にすると真実味が増すような気がした。

 メレディスと繋がる山道に異変があるなしに係らず、巡回する騎士団には定例報告の義務がある。広い国内を全て国王直属の騎士団に任せるのも難しい。その為に地方を預かる諸侯が持つ騎士団に自治を任せているのだから、そこを活かしながらの形骸化を防ぐための手立てを新たに考える方が建設的といえる。


 こつこつと湯船の淵を指先で叩きながら、ルーニーは考えを巡らせた。

 主要な山道が塞がれては商工ギルドも頭が痛いだろう。定期的な保全管理の徹底を今一度、商工と協議する必要がありそうだ。なんなら地方騎士団に監査役をつけることも検討した方がいいのか。そうなると、と自身が動かせる人間を順繰り思い浮かべていく。

 指を止め、気怠そうに天井を見上げた。

 届いたいくつかの書状を思い出し、組織形態の見直しに自分が関与する余裕はないだろうと考えがいたり、重いため息が零れ落ちる。


「めんどくせぇ……ウィルに押し付けるかなぁ」


 本音をぽろり零し、明日には久々顔を合わせる総騎士長の横顔を思い浮かべると、それで万事解決するような気がした。


 ──あぁ、それよりも。


 今考えるべきは、一通の封書の中身だと考えを改める。そもそも、その知らせを確認するために屋敷に戻ったのだったことを思い出しルーニーは、今更、慌てるなと自身に言い聞かせながら長い息を吐いた。


 ここ数年、グレンウェルドに限らず、ガーランド中で悪い噂が絶えない。

 特に連合国家ジェラルディンに至っては、最悪ドラゴンスケイルが敵──サマラの地で破壊の女神ケリティエノスを蘇らせようとしている者たちの手に落ちていると考えた方が、納得がいくと言える状況だ。


 その裏付けになりかねない報告が協力者から届いたのだから、頭も痛くなる。

 これが自国の地方都市で起きた異変や諍いであれば、単身乗り込んでいって解決するという強硬手段にも出れるのだが、最悪なことは他国で発生しているということだ。


 ──ウィルの急な訪問も関係しているな。


 果実水が飲み干されたグラスが、小さく音を立ててトレイに置かれた。


 力でねじ伏せられる程度なら、ほんの少し無理をすればいいだけだ。しかし、いつだって大きな問題の裏には覇権争いやら外交問題が山積している。


「あー……国ってめんどくせぇ」


 一つ伸びをして、ほんのり色づいた頬を磨かれた浴槽に寄せるようにして凭れかかる。

 すっかり仕事バカになったものだと改めて思うと、自嘲気味な笑いが込み上げてきた。


 師匠である大魔女ミシェルから賢者の称号を引き継いでから随分と時がたつ。それまでは主に大型妖魔の復活を阻止するために各地で現れた魔獣の駆除や、サマラの封印の強化と研究に携わっていた。近年、狂暴な魔獣の出現がぱったりと止んだこともあり、他国では覇権争いや謀反のようなきな臭い話が届いてくるようになった。


 突然の魔獣の減少は計画的な排除と協力者たちの暗躍のおかげで成されたと言えるが、それは無駄なあがきであり、今は仮初の平和、嵐の前の静けさに過ぎないのかもしれない。


「……もうすぐ、四十年か」


 首に下がる革紐の先に下がる白い六角柱を握りしめる。

 それは恩師ミシェルの遺産の一つで、竜の牙から切り出した魔法具だ。この魔法具に魔力を注ぎ続けることで、召喚した竜牙兵を使役することができる。魔力が尽きれば、竜牙兵は深淵の狭間に戻る。


 ルーニーは日頃から身の回りのことを数体の竜牙兵に指示してやらせているが、大魔女と呼ばれたミシェルですら長時間の使役は一体が限界だったことを考えると、彼の保有する魔力量は底知れない。


「先生、俺……上手くやれてるかな」


 不安が疑問となって声に出るのはいつぶりか。

 ここ連日、不休で働いたこともあって、色々と不安定になっているのだろう。そう思うことにし、瞳を閉ざして体の奥に意識を向けた。


 臍から少し下、その奥で熱の塊を感じる。それは脈打つように揺れ、時折大きく膨れる。それはまるで息をしているようだ。


「うん、もう数日は持ちそうだな」


 薄く開いた目に光が差し込み、一瞬、鳶色の瞳が紅くきらめいた。

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