<2> 賢者の屋敷

 一時半駆け抜けた街道の先、小高い丘へと続くわき道にたどり着いた。その丘の上で高い壁に囲われた屋敷が目的地だ。古くは要塞だったと伝わる屋敷は堅牢な壁に覆われ、四方には厳かな塔がそびえている。びっしりと巻き付く蔦と苔生した様子がその古さを物語っていた。

 頬を撫ぜる穏やかな風が、色づき始めた蔦の葉を静かに揺らしている。ともすれば、蔦の葉がこすれあう音までもが届きそうな静けさで、時折鳥の鳴き声が届くだけだ。


 ──まさか、お目にかかれるとは。


 異様な静けさを前に、まだ見ぬ屋敷の主を思い描いたグレイは息を呑む。


 それもそのはず。ここには歴代国王に使える”賢者”が住むと伝えられ、出入りするのは国王と”賢者”に認められた者のみで、国の伝令すら門をくぐることは出来ないとされている。”賢者”はいわば国の最高機密であり、その屋敷ともなれば一介の騎士が生涯来ることなどない場所だ。グレイもその程度の説明を受けただけで、当然のことながら、訪れるのは初めてであった。


 跳ね橋を渡ると分厚い扉が開き、さらに重たい鉄格子が上がった。

 まるで要塞だ。馬上でそんなことを思いながら、グレイはウィリアムに着いていく。

 静まり返った敷地内に入ると、外観とかけ離れた美しい庭が視界に飛び込んできた。生い茂る木々には季節の花が咲き誇り、花壇も色とりどりの花々で埋め尽くされている。


 馬の蹄の音が響く中、時折、鳥のさえずりや小動物の鳴き声が届いてきた。

 森の中とは言わないまでも、騎士たちの訓練の声が響くような城塞の中でもなければ、華やいだ諸侯の屋敷とも異なった不思議な静けさがそこにはあった。


 長い石畳を進みいくつかの建物を横切るが、やはり人影を見るどころか気配すら感じることは出来ない。

 建物が古いとは言え、敷地面積を考えると有事の際には町一つの住民を優に匿うことも出来きそうだ。そう観察を続けていたグレイはふと気づいた。これだけの広さを手入れするには時間と人手が必要だろう。だが、あたりを伺っても使用人どころか庭師の行きかう様子もない。そもそも、あれだけの重厚な門があるのなら、衛兵が立っていてもおかしくないというのに、その陰すら見当たらなかったではないか。


 ふと馬の歩みを止めて振り返ると、遠目に見える門は、いつの間にか鉄格子が下りていた。


 ──あの重厚な鉄格子を誰が操作していたのだろうか。


 風が頬を撫ぜ、異様な緊張感に背筋を強張らせたグレイは、ごくりと息を呑むと、声を張り上げて「騎士長!」と前を行く背を呼び止めた。

 馬の歩みを止めたウィリアムは振り返り、グレイの表情を見とめると、届かない程度の声で「先が思いやられるな」と独り言ちた。


「何を尻込みしている。ここは”賢者”の屋敷だ。少しくらい異常と思っても気にするな。ここはそういうものだ」

「……そう、なのかもしれませんが。やはり、自分が訪れるのは、分不相応かと」

「分不相応とは?」

「それは……」


 この場の理解の及ばない空気に尻込みをしているとは言いだせず、視線を彷徨わせて口籠ったたグレイは城塞で同行を言い渡されたときを思い出した。


 あの時の周囲の視線には、好意が欠片もなかった。


 全ての騎士の憧れでもある七星軍の総騎士長が直々に同行を言い渡したのだ。それも、国の最高機密ともいえる”賢者”の屋敷への動向を、騎士になりたての新米がだ。嫉妬するなという方が難しいだろう。

 嫉妬の眼差しがすぐ傍の植木の影から突き刺さるような錯覚さえした。


 新米である自分が、言われるままにほいほいと付いてくるような場所ではなかったのだ。そう、なぜもっと早く気付かなかったのかとグレイが後悔している横で、ウィリアムは「気を張るな」と笑顔で言った。


「遅かれ早かれ、お前をここに連れてくるつもりでいた。少し、早まったに過ぎない」

「……新米の私を、ですか?」

「私の息子を紹介するためにだ」


 グレイの顔の強張りに気づいているのかいないのか。向けられたウィリアムの表情は驚くほど穏やかだったが、反してグレイの緊張はより濃くなった。


 ──養子の私をですか。


 問い返すことが出来れば、あるいは少しは気が晴れたのかもしれない。

 わざわざ国の要人に紹介されるような大層なものだろうかと、心にわだかまりを抱きながら体を硬直させて口籠ったグレイだったが、息子と言われたことはまんざらでもなかった。ただ、その相反する気持ちを正直に言葉で表すことが出来ず、ついて出たのは何の変哲もない一言だった。


「……ありがとうございます」

「あの人は、若者を取って食うような男ではない。気楽についてこい」


 グレイの堅い表情を、国の要人に会う緊張と捉えたのだろう。ウィリアムは彼の小さなため息を見て見ぬふりをした。


 再び馬の歩を進め、ひときわ大きな屋敷の入り口前に近づくとローブ姿の者が屋敷から出てきた。それに気づいたウィリアムは馬から降りて近づき、その者に手綱を渡した。同じようにグレイも地面に足を着け、近づいてきた者に手綱を渡そうとした。直後、目の前のものに理解が及ばず、背筋を強張らせて動きを止めた。


 視界に入ったのは、真っ白い骨。骨ばった手ではなく、骨だ。反射的にローブの中を探れば、瞳のない白い骸骨と向き合うことになった。

 カクンッと音を立てて骸骨が首を傾げる。


「騎士長!」


 魔物かと焦り、腰に下げた剣の柄を掴んだが、それをウィリアムはすかさず制した。まるで、グレイがそう動くだろうと分かっていたように、淡々と。


「恐れることはない。ここの主は少々変わりものでな。屋敷で働くのは使役する魔物ばかりだ。こちらが敵意を持たねば、襲い来ることもない」


 困惑するグレイに笑いかけ、ついで「主に逢いに来た。ウィリアムだ」と扉の前に立つ別のローブ姿に声をかける。こちらの様子を窺うようにじっとしていたそれは、ゆっくりと扉を開けた。


「グレンウェルドでも魔物を使役する魔術師は珍しいが、まぁ、それが”賢者”ゆえと理解するのだな」


 呆然とするグレイから手を離し、豪快に笑い飛ばしたウィリアムは扉をくぐる。

 釈然としない思いが募るものの、引き返すことも叶わないグレイは続いて屋敷に踏み入った。


 扉が閉ざされると屋敷内はしんと静まり返った。


 出迎えの言葉すらなく、響くのは足音だけ。一抹の不安さえ感じさせる雰囲気に息を呑んだグレイが広いエントランスを見まわしていると、頭上から「早く来い」と声がかかった。

 いつの間にか先に進んでいたウィリアムは足早に階段の中ほどで一度止まると、後を追ってくるグレイを確認するなり再び先を急いだ。勝手知ったる屋敷なのだろう。彼は先導なしに進んでいく。


「騎士長、先ほどのローブ姿の者を置いてきて良かったのですか?」

「あぁ、あれは出迎え用の竜骨兵だ。あれに主を呼びに行かせていては、いつ会えるか分かったものではない」


 待つよりも探し出す方が手っ取り早いのだと説明しつつ、ウィリアムはさらに奥へと進む。


「ルーニー! どこだ!」


 生活音どころか人の気配がない屋敷を、ウィリアムは主の名を叫びながら見て回る。


 ”賢者”は一人暮らしなのだろうか。ささやかな疑問を抱いたグレイは、お世辞にも綺麗とは言えない廊下を進みながら曇った窓の外を見た。

 そこから覗くことができる中庭は随分と手入れが行き届いている。屋敷前の庭同様、季節の花々も咲き誇っていた。これもまた、あの竜骨兵が手入れをしているのだろう。ガゼボに絡まるツタは赤く色づき始めているが、その下にある安楽椅子と丸テーブルには蔦や雑草が生い茂る様子がなく、奇麗に整えられている。

 ふと、その安楽椅子に深く腰掛ける老人の姿が思い浮かんだ。


 いくつめかの大きな扉を押し開けたウィリアムは「ルーニー!」と声を張り上げた。今までの呼びかけとは違う、それは明らかに当人へ投げかけられたものだった。


 扉の先で見たのは、散乱する本の中で倒れる赤髪の男。

 大量の本が散らばるだけでなく、棚もいくつか倒れている。男の傍では大きな梯子と椅子が無残に壊れていた。


「騎士長!」


 もしや呼び出した魔物に襲われたのでは。あるいは、何者かが侵入したのか。

 一瞬、恐ろしいことを想像したグレイは、ずかずかと歩いていくウィリアムに背を向け、すぐにでも戦えるように剣の柄に再び手を添えて構えた。そして、カビ臭い部屋を素早く見回す。


 部屋は、明り取りの天窓をといくらかの小さな窓を除いて、書棚で埋め尽くされているようだ。整然と並ぶ棚で隔たれた通路がいくつかあるが、それも人が二人通れる程度の狭さだ。薄暗い様子からして、ここは書庫なのだろう。


 物陰に何かいるのではないかと精神を研ぎ澄まし、目を凝らして観察するも、気配一つとして感じることは出来なかった。

 ここは”賢者”の屋敷だ。気配を消せるような人智を超えたものが襲ってきても可笑しくはない。そんなことを考えながグレイが息を呑むと──


「起きろ!」


 緊張感を打ち砕くようなウィリアムの怒声が響いた。

 思わず振り返ると、床に倒れる男の腹のあたりから、ぐうぅっと間抜けな音が響いた。それに応えるように、ウィリアムの口から呆れたようにため息が零れる。


「……また、飯も食わずに働いていたのか」

「き、騎士長?」


 阿呆のように口を開けたグレイは、男の横に腰を下ろしたウィリアムが荷物から包みを取り出すと、さらに口をあんぐりと開いた。

 広げられた包みから出てきたのは、香ばしい匂いを立てるナッツクッキー。それを見て、城塞を出る時に料理長が「いつものご用意しておきました」とにこにこと笑っていたことを思い出した。


「ほら、いつものだ」


 すっと白い手が伸びたかと思うと、むくりと起きた赤髪の男は何も言わずにそれを受け取り、体をを起こしてぼりぼりと頬張りだした。

 一山のナッツクッキーは見る間に彼の胃袋に消えていく。

 静かだった書庫には似つかわしくない菓子の噛み砕かれる音が響いた。更に差し出された水袋の水も綺麗に飲み干され、そう時間をかけずに書庫は再び静まった。


 赤毛を揺らした男は口元にクッキーの粉をつけたままの顔で笑った。


「いやぁ、美味かったよ。ごちそうさん! 料理長さんのナッツクッキーは、何度食しても絶品だな」


 無邪気な笑顔に呆然としたグレイは「これが……”賢者”様?」と思わず声をこぼしていた。その声が聞こえていたのかいないのか、咎める様子もない赤毛の男はウィリアムに口周りのクッキーの粉をぬぐわれていた。


 ──本当に、これが”賢者”なのか。


 グレイは心の中で疑問を繰り返した。

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