この命、黄昏の海に沈もうとも

日埜和なこ

1 嵐に導かれ運命は動き出す

<1> グレンウェルドの朝

 しっとりと汗ばむ白い頬を撫で、穏やかな寝息を立てている愛しい人の寝顔をただ眺めることができるのは、いつぶりだろうか。肘をついて眺めていると、寝返りを打った愛しい人は寄り添うようにして、はだけた胸に頬を寄せてきた。

 首筋に残した鬱血痕を指でなぞると、上ずった声がわずかにこぼれる。起こす気はなかったのだが、久しぶりに腕の中で乱れた姿を思い出させる花弁のような痕を見ていると、触れたい衝動を抑えられなかった。

 頬に張り付く赤毛をそっとはらうと、ぼんやりとその瞳が開く。微睡むその瞳を見つめていると、薄い唇が何事か呟いた。


「起こしてしまったか」

「……ん、いい。そんなに寝入る気はないから」


 気怠そうに起き上がり、脱ぎ散らした服に手を伸ばそうとするその背にも、赤い鬱血痕がちりばめられていた。

 いつもなら、夜が明ける前に姿を消すことを引き留めることはしないのだが、今日ばかりは感情を抑えられず、後から覆いかぶさるようにして再びその体を腕の中に引き入れた。


 驚いたように肩越しにこちらを見て、何事かと問うように私の名を呼ぶが、この手を放す気にはなれなかった。

 触れるだけの口付けをその赤毛に落とすと、掴まれた服がするりと指から落ちていった。


「息子達に、そろそろ自分の幸せを考えろと言われた」

「ふーん。いいんじゃない? なら、新しい嫁さんでも、紹介しようか?」


 驚き一つなく、さも当然のような返事が返ってくる。想定はしていたが、情欲の跡の残る寝台の上でさらりと言われると多少なりとも傷つくものだ。

 白い腕を引き、こちらを向かせて居住まいを正す。互いにはだけたままで、他人が見たら何とも滑稽な姿に映るだろう。だが、この時の私は掴んだ手をどうすれば放さなくて済むかしか考えていなかった。


 深く息を吸い、もう一度告げた。


「私と共に生きてほしい」


 それは過去何度も告げてきた言葉。一度目は十五の夜だったか。二度目は二十二の夜。三度目は三十七の時だった。答えはいつも同じだ。恐らく、今回もだ。それでも繰り返し告げるのは、長い年月が経てど私が願うのは何一つとして変わらないからだ。

 覚醒した鳶色の瞳がぱちぱちと瞬かれ、僅かに首が傾ぐ。そして、いつものように穏和な笑みをたたえた。


「心配するな。お前が死ぬ時まで、俺は傍にいるよ」

「そうじゃない!」


 荒げた声に、見つめ返す瞳が大きく見開かれる。

 その瞳孔が忙しく動くのを見ると、僅かな罪悪感が私の胸にわだかまりを作った。私が納得する言葉でも探しているのだろう。

 白い指が皴の刻まれた私の目元に触れ、両頬に添えられる。


「なぁ……それは、無理だって分かってるだろ?」

「無理なものか。すべての責任は私がもつ」

「バカなこと言うな。そもそも、今、俺が戦線離脱するわけにはいかない。お前が一番理解しているはずだろ?」

「たとえ、国と敵対しようとも──」


 そう言いかけると薄い唇が重なり、言葉は封じられた。それはほんの一寸前に交わした情熱的なものではなく、触れるだけの拙い口づけ。


「わがまま言わないでくれ」


 離れた唇からこぼれた切ない声が、彼の本心でないことくらい分かる。もう、付き合いは長いのだから。

 手を重ねて「私はただ」と言葉を返せば、奇麗な顔が歪んだ。それに苦しくなりながらも、言葉を止めずに変わらぬ願いを明かす。


「あなたを自由にしたいだけだ」


 くぐもった声で告げると、一瞬見えた辛そうな笑顔は伏せられてしまった。

 胸に押し付けられた赤毛に指を差し込みかき抱く。このまま浚ってしまいたい。国もヤツの手も届かない地へと消えてしまい。そう思ったことは一度や二度なものか。

 胸に熱いしたたりが落ちた。


「ありがとうな。けど……やっぱ、だめだ」


 答えは分かっていた。

 あなたを困らせたいわけじゃない。それでも私は、もう自身の心に嘘をつき続けることに限界なのだと気づいてしまったのだ。




***


 ここはガーランドの北に位置する魔法国家グレンウェルド。

 北には大陸と繋がる唯一の山道があるが、手練の冒険者でさえ立ち入ることはないと言われる。聳え立つヴァイスブルム山脈は標高が高く、山頂は万年雪に覆われ吹雪が止むことがない厳しい環境だ。神々の眷属である太古竜が吹雪を起こし、何人たりとも近づけないという言い伝えさえある。


 また、西方には海路を使った交易が盛んな商業都市国家メレディスがあり、南方にはデュランの森と呼ばれる樹海がある。デュランの森はどの国にも所属しない不可侵の森であり、エルフの集落が多数ある。その森を越えた先にあるのは、小国が連なる要塞都市連合国家ジェラルディンだ。この連合国は竜を駆る竜騎士団を有する国が多かったことから、主要の国に竜の名を持つ。今では、その竜騎士団を持つ国もたった一つとなってしまったが、小国同士の不可侵条約は継続し、微妙な均衡状態が続いている。グレンウェルドはドラゴンアイ、ドラゴンウィングと古くから国交が続いてきた。


 グレンウェルド、メレディス、ジェラルディンの三国はガーランドの主要国家であり、邪悪の女神ケリティエノスが眠るサマラの地に集う悪しき眷属から人々を守るため、長きにわたり平和協定を結んできた。

 だが近年、悪い噂が流れだした。ジェラルディンの内政が乱れ、封じられた妖魔の復活に加担しているのではないかと。その噂は国内にとどまらず、グレンウェルドにまで届いてきた。


 ある嵐の晩のこと。


 グレンウェルド国王クウェンティンは、友好国であるドラゴンウィングより密書を受けた。隣国ドラゴンスケイルに不穏な動きがある。このままでは、サマラの妖魔が蘇ってしまう。どうにか食い止めたい故、助力を求める。との内容だった。

 国内で、まことしやかに囁かれる噂が、まさに現実になろうとしている。すぐにでも援軍を出さなければならない。それが友好国の王としての勤めだ。と、安直に決断できたなら、どれだけ楽であっただろうか。


 昨年、王位を継承したばかりの若き王は、密書を睨みつけて決断に悩んだ。


 密書を届けたのは間違いなくドラゴンウィングの使者で、その筆跡も国王のものに相違なかった。だが、疑念を抱くと全てが嘘くさく見えてしまうから恐ろしい。筆跡など操って書かせれば関係ない。裏で暗躍するものは、ジェラルディンでの内乱ではなく、グレンウェルドを陥れようとしているものではなかろうか。


 国王の背はただならぬ汗でじっとりと濡れた。

 そもそも、この密書そのものがドラゴンウィングから来たのではなかったら、どうなる。迂闊に戦争の準備をした愚王と罵られるのではないか。疑心暗鬼に囚われた若い王に、一人で決断を下すことは、拷問に近かった。


「ウィリアムを呼べ」


 呼び鈴を鳴らし、侍従に総騎士長を呼ぶよう命じれば、半時もせずに男は参じた。そして、国王は躊躇わずに手にしていた密書を彼に渡す。

 書面に一通り目を通したウィリアムの眉間に、深くしわが寄った。


「彼に、頼めないだろうか?」


 国王の頼みにウィリアムは短く「御意」と返すと、静かに退室していった。

 雨は一層激しく降り、国王は窓の外を一度見ると、深くため息をついて天井を仰ぎ見たのだった。





 長雨が過ぎさり、清々しい青空が広がった王都に活気が戻った。

 職人通りに住む人々は久々の日差しに顔を綻ばせ、固く閉ざしていた戸を開け放った。湿気った室内から洗濯物を出し、朝日を仰ぎ見て挨拶を交わす。


「久々の青空が奇麗だこと!」

「カビが生えちまうとこだったよ」

「西の方じゃ十日も続いてるって聞いたよ」

「そうそう、その西の山道で土砂崩れがあったんだってね?」

「ローレン様の騎士団が向かったらしいよ」

「大事になってないといいわね」


 噂好きな女達の陽気な声が飛び交う朝市には、商人たちの客を呼び込む声や笑い声、賑やかさが戻ってきた。昼前には子ども達の声や冒険者たちの足音が、さらに喧騒を運んでくることだろう。

 王宮や城塞でも、若い騎士たちが外の訓練場で勇ましい掛け声を上げて鍛錬を行うのも久方ぶりだった。それを目にした侍女達が思いを寄せる若者に頬を染め、小声で誰それが素敵と無駄口を叩いては、侍女長に叱咤されていた。


 そんな穏やかな光景を横目に、ウィリアムは平和とはかくも良きものかと、しみじみ思った。昨晩のことを思うと、ただ平和な風景に気を緩ませている場合ではなく、ともすれば緩みそうな口元に力を込めて馬にまたがり、王都外れの丘の上にある古い屋敷に向かうべく、城塞を後にした。

 職人通りに差し掛かると、あちらこちらから声がかけられた。


「ウィリアム様、ごきげんよう」

「今年はハシバミが豊作だそうですよ」

「お出かけですか。お気をつけて」


 親しみの込められた声と笑顔が向けられた。それは国が何十年もの平和を維持し、騎士と国民の間柄が良好であることの表れといえる。また、国王直属の騎士団の長でありながら横柄な素振りもなく、日頃から職人通りに足を運ぶウィリアムの人柄故だろう。


 街を後にして街道をしばらく進み、行きかう人と荷馬車がまばらになった頃、同行する新米騎士グレイが「騎士長」と声をかけた。

 後ろからかけられる声はあまりにも自信がなさげで、気にかけたウィリアムは馬の歩調を落とすとグレイに並んだ。


「どうした」

「私が同行してよろしかったのですか?」

「まだ、そのようなことを言っているのか。お前でなくてはならんのだ」


 笑い飛ばしたウィリアムだったが、グレイが釈然としない顔をすると「自信を持て、グレイ」と言って、彼の背を叩いた。


「少し急ぐぞ」


 馬の腹を蹴ったウィリアムの横顔がどこか楽しそうに見えるのは気のせいか。

 釈然としない。そう顔に書くように口を真一文字にしたグレイは、気が進まなくとも逆らうことなど出来ず、その後を追った。

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