第43話 ネヴァダ事変

 昭和5年(1930年)


 大明帝国 首都南京 本願寺別院


「門主さま! 今回の不況は桁が違います! このように財産を使ってしまっては!」

 

 しがみつくようにして訴える華人門徒の家老を無視して、大谷伯爵は次々と貧民救済のための指示をだしている。


 世界恐慌は英独から経済的に収奪されている大陸の民衆の生活を直撃していた。特に工場の多かった都市部で大量の難民が生まれるとともに、農産物の価格が全世界で値下がりし、農民も困窮していたのである。


「逆に言えば炊き出しのためのコメは安く買えるだろう。ほかに売れるものは……と。あ、いいものがあったな。蓮如上人のご真筆だ」

「それを売るなんてとんでもない!」


 すっかり大陸に居ついてしまった大谷伯爵であるが、門徒非門徒を問わず大変な状況となっていることに心を痛めている。そこで門徒の富豪たちを呼び集め、先祖累代の宝物のほとんどを売却することで貧民に穀物を配らせたのである。


 このような慈善事業は大東亜共栄圏のほかの貴族たちにも広がった。結果として穀物価格の買い支えなどに一定の効果はあったものの、今回の不況を一宗教法人で支え切れるわけもなく、本願寺の財政は崩壊。

 

 御連枝をはじめ教団内からも批判された大谷伯爵は門主引退に追い込まれてしまった。本人はこれでシルクロード研究が捗ると気にもしていなかったが。



  ◆ ◆ ◆


 昭和6年(1931年)


 北米大陸 ネヴァダ露米国境付近。


 シエラネバダ山脈とロッキー山脈に囲まれ、無人地帯が広がるこの乾燥地帯に突如爆音が響き渡った。


 ロシア領内のアメリカ資本のユニオン・パシフィック鉄道の路線が爆破されたのである。


 アメリカ合衆国のマッカーサー参謀総長は即座に事件をカリフォルニア・コサックのテロと断定。なぜか準備万端整えていたアメリカ陸軍が大陸横断鉄道の路線沿線を制圧すべく動き出した。


 カリフォルニア・コサック軍のライフル民兵が即座に反撃するも、重装備を整えたアメリカ軍が撃退。


 大東亜連合は事態不拡大の方針で和平交渉を開始したため、正規軍同士の衝突は避けられた。しかし大陸横断鉄道沿線の警備強化という名目でアメリカ陸軍のカリフォルニア進駐を押し付けられることになってしまった。公平性の担保のため、逆にユタ方面へのロシア兵の駐屯も認められたが実効性はなく名目に過ぎなかった。


 この時、ロッキー山脈に配置されていた米陸軍は25万。カリフォルニアと米中西部の間には交易と経済協力のために複数の鉄道と自動車道が開通しており、アメリカ資本により整えられたインフラが牙をむくことになった。米軍の本格侵攻をうけた場合に10万のカリフォルニア・コサック軍では到底相手にならないため、アメリカの「友好的な提案」を断る余地はなかったのである。


 いや、だからこそロシアは主敵のソヴィエト国境に軍備を集中できるようアメリカとの経済協力を進め、鉄道も受け入れて良好な関係を保ってきた。それでアメリカ資本の鉄道乗り入れに反対するコサックのデモが発生、それにアメリカ世論が反発するなどの事件はあったが、当時は大きな問題であるとは思われていなかった。



 事情が変わったのは大恐慌からである。


 長引く不況によりアメリカ大統領の支持率は低下する一方であったが、今回の陸軍の活躍により一気に支持率が跳ねあがった。ロシアとの友好を維持しようと語る冷静な新聞社には卵が投げられ、マッカーサー参謀総長の英断をたたえる新聞が飛ぶように売れていったのである。


  ◆ ◆ ◆


 昭和9年(1934年)


 大恐慌以降、フランスで11回目の内閣が退陣し、総選挙が行われた。恐慌前に政権を握っていたアクション・フランセーズが大敗し、議席を握ったのはさらなる強硬派であり、退役兵を中心としたタカ派団体「火炎十字架団クロア・ド・フー」である。


 党首フランソワ・ド・ラロックも人気ではあったのだが、特に人気を博したのはハンサムで弁舌冴えわたるミッテランという若い学生運動家である。彼は在学の身でありながらパリの複数の大学の右翼学生を糾合して反ドイツ演説で名をはせた。ラロック党首はうまくミッテランをシンボルとして利用しつつ、既存の政治に飽きた民衆の心をつかむことに成功したのである。


 ラロックと火炎十字架団クロア・ド・フーは政権を奪取するとさっそく欧州大戦の講和条約を見直すと宣言、再軍備に乗り出した。ドイツと国連は猛抗議したが、イギリスはむしろドイツにぶつけるためにフランスを支持。フランスの再軍備費用としてロンドンで外債を調達することを黙認するなど「欧州のバランス」政策に回帰していたのである。


 これはかねてからイギリスがタイやエチオピアを保護国化しようと圧力をかけていたのにドイツが反発していたことに対する報復でもあった。

 


  ◆ ◆ ◆


 昭和10年(1935年)


 イギリスがタイでクーデターを起こし保護国化に成功する。フランスのインドシナ政府は再軍備への支持と引き換えにこれを黙認。


 年後半にはエチオピアと英領ソマリアの間で国境紛争が始まり、イギリス軍が出動。しかしドイツ領ジブチを経由してドイツ製兵器の支援があり、思わぬ抵抗を受けエチオピア侵攻は泥沼化してしまう。

 

  ◆ ◆ ◆


 昭和11年(1936年)


 スペインでフランコ将軍による反乱が発生。ドイツは国連に参加していた共和政府を表面上支持していたが、王政を廃止した共和政府への支援に独皇帝ヴィルヘルムが乗り気ではなかった。逆にフランスとイタリアはフランコを公然と支援。


 スペイン共和政府はフランスの左翼やソヴィエトからの支援を受けたものの、国内の左翼を締め付けたいフランス政府とスペイン共和政府の主導権を握りたいソヴィエトが共同歩調でスペイン共和政府内のフランス左翼派を弾圧。イギリスやアメリカからの支援も先細りとなり、フランコ将軍と反乱軍の優位が時とともに固まっていくことになる。



  ◆ ◆ ◆


 昭和12年(1937年)


 ネヴァダ事変以降、大東亜連合とアメリカは和平会談を重ねて関係の修復に努めていた。全世界的にキナ臭くなっている中で、前大戦で漁夫の利を得て膨れ上がったアメリカ軍と本格的に戦ってしまうと、ソヴィエトに抵抗しきれなくなる可能性があったからである。


 しかし、アメリカ経済はまだ不況が尾を引いており、失業問題は容易に解決していなかった。和平が進めば進むほどアメリカ大統領の支持率は下がっていくのである。



 同7月

 カリフォルニア・コサック軍 サンフランシスコ


 金門橋にて鉄道警備にあたっていたアメリカ陸軍部隊をコサック兵が銃撃。テロに対抗するためという名目でアメリカ陸軍がネヴァダから越境進軍した。大東亜連合は和平を求めたが、アメリカは電撃的にソヴィエトと国交を樹立し、ロシア帝国および大東亜連合との国交を断絶した。


 もはや本格開戦やむなしと露皇帝アレクセイが態度を一気に硬化させ、カリフォルニア戦争が始まった。



  ◆ ◆ ◆



 そのころ、大谷伯爵は一介の修行僧としてシルクロードからはるばる英領インド、ウッタル・プラデーシュ州シュラーヴァスティー県の祇園精舎にたどり着いていた。


 見たことのないやつがウロウロしているとインド人が取り囲んで騒ぎ出したが、どうやら苦行をする修行者らしいと分かると一転して尊重し、話しかけてくるようにもなった。


「なに? カーストが低いから来世まで救われない? そんなことはない。阿弥陀仏は今世の諸君を救うと本願を建てられたのだ。よいか南阿弥陀仏……」


 説教を行いながら、祇園精舎に鐘がないから早く鐘を設置しないとな。と考えている大谷伯爵であった。

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