第44話 南シナ海海戦
昭和13年(1938年)
重装備を持ち戦力で優勢にたったアメリカ陸軍は次々と大陸横断鉄道沿いに進撃。ロシア帝国領サクラメントおよびサンフランシスコを陥落させた。
緒戦で完璧な勝利を得たアメリカ政府は「
「そもそもアメリカ兵のいない領域を要求するのは思い上がりも甚だしい。コサックをなめているのか」
「あなたがたをツァーリズムの専制から解放し、世界で最も豊かなアメリカの一部になれるチャンスなのだぞ!」
「黙れアメリカの共和主義者どもめ! 誇りもない乞食の群れが!」
米露間の講和会議は全く歩み寄りを見せずに解散した。アメリカ軍はグレートバレーの農村地帯の完全制圧と残る大都市であるロサンゼルスの攻略に取り掛かった。
グレートバレーの農村地帯に攻め込んだアメリカ軍を襲ったのはカリフォルニア・コサック軍のライフル民兵たちであった。彼らは人種的にはロシアとスペインとインディアンと大和、漢族の混血であったが、100年以上の開拓の歴史は彼らを真のカリフォルニア・コサックに育て上げていた。
せいぜいライフルしか持ち合わせないコサック兵は正面からの戦いではまったく歯が立たない。当初は連戦連敗でアメリカ軍の進撃を許したものの、アメリカ軍が鉄道や幹線道路から離れて奥地への進撃を開始すると状況が変わった。コサック騎兵は
アメリカ政府は鉄道敷設の際に買収したコサックの長老を通じた親米宣伝に努めたが、補給切れとゲリラ攻撃に悩まされた米軍兵が農村で略奪や暴行を始めたことで説得力を失ってしまった。
そうこうしているうちに、大東亜連合の援軍の第一陣約10万がカリフォルニア北部のポートランドおよび南部のロサンジェルスに入港。援軍を得たロシア正規軍が山脈や砂漠沿いに防御陣地を固めてしまい、アメリカ軍による早期のカリフォルニア全土の制圧は不可能になってしまった。
◆ ◆ ◆
昭和14年(1939年) 英領カナダ自治国
英領カナダ自治国は激しい論争に包まれていた。アメリカの一部のタカ派政治家はカリフォルニアだけでなく、カナダをもアメリカの一部とすべきだと発言しているのである。もちろんアメリカ政府の公式の発言ではないとされていたが、アメリカからはカナダに立場を明確化するように要請されていた。もちろんカナダがアメリカ側についてロシアを攻めろと言う意味である。
英本国からは深入りを避けるように指示を受けていたが、現地のカナダとしては自国の安全を確保を優先せざるを得ない。そのためある程度はアメリカに同調する必要があるのではないか。アメリカと共同して参戦し露領アラスカを攻撃するか、友好の維持にとどめるかで議論が続いていた。
そのころ、カリフォルニア戦線は双方の投入兵力が徐々に拡大し、ついに100万人を超える兵士が塹壕を掘ってにらみ合っている。
いまだ圧倒的な優位にあるアメリカ軍は後方に浸透したコサック兵の対処で忙しく、大東亜連合側も防御は何とか固めたものの反撃にでるだけの兵力がなかったためである。
そのころ、スペイン内戦が終了した。フランス義勇兵は国内に引き上げていく。次の目標のために。
◆ ◆ ◆
同年夏 ベルギー国境
突如、フランスはドイツに宣戦を布告。ドイツ軍はこの日を予期して建造してあったジークフリート要塞線に兵力を集中し防御、予備兵の動員と国連加盟諸国の援軍を待つ戦略を取った。
しかし、ド・ゴール参謀総長の指導するフランス軍は、ド・ゴールの育てた虎の子の機甲部隊を中心にベルギー国境を突破、そこからドイツ領になだれ込んだ。
中立国ベルギーの侵犯に慌てたイギリスがフランスに宣戦布告したが、イギリスの陸軍の常備師団はエチオピアで遊んでいる。海軍で威嚇するぐらいしかないイギリスは、フランス軍の進撃を傍観するしかなかったのである。
虚を突かれたドイツ軍は敗走を重ねた。そしてケルン、デュッセルドルフといった西部工業地帯にフランス軍が乱入した時点で実質的な継戦能力を喪失、和平交渉が始まることになる。
フランス側も不平等だった欧州大戦の講和条約の再交渉が目的として、旧植民地の返還を主軸とした比較的温和な条件を提示しており、欧州での戦乱は早期に収まるかと思われた。
しかし、和平交渉が始まると、
ドイツとの講和を見たイギリスはフランスにベルギー解放とベルギーへの賠償金支払いを条件に講和を持ち掛けたが、フランスが賠償金を拒否したため戦争状態のまま膠着していった。
◆ ◆ ◆
昭和15年(1940年) 2月
講和が成立し、フランス軍が撤退したドイツで共産主義革命が発生。講和条件に納得できない国民は内閣を支持せず、あっという間に政権が転覆した。ソヴィエト=ドイツの成立である。ソヴィエト=ドイツはさっそくソヴィエト=ロシアと同盟を結成し、二か国にまたがるソヴィエト同盟が結成された。欧州の二大陸軍国家の同盟が成立したことで、ベラルーシやウクライナなどの旧ドイツ属国でも革命が進行、東欧諸国は次々とソヴィエト同盟に参加していった。
これに危機感を覚えたのがフランス、イタリア、スペインであった。ドイツの共産化防止のためという名目でドイツに再度進駐、ソヴィエト同盟の反撃があったものの、西部ドイツと南部ドイツを占領した。
同 7月 北米大陸
カリフォルニア方面の戦況が膠着し、米大統領の支持率は低下傾向にあった。
そんな折、英帝国カナダ自治領モントリオールにてカナダ在住のアメリカ人を中心に親米反英の暴動が発生。アメリカ政府はアメリカ移民の権利保護を掲げてカナダに侵攻開始。国力の差はいかんともしがたく半年でカナダ軍は壊滅に追い込まれた。
アメリカ市民の間では「
同 10月 インドシナ半島
先の大戦の復讐を狙っていたのは大東亜連合も変わらない。大東亜連合諸国は講和のあともひたすらイギリスに対する反撃の準備にいそしんでいた。
そこにイギリスがフランスとの講和を有利にするためにインドシナ植民地への攻勢を開始。シンガポールから東洋艦隊が出撃し、タイから英領インド軍が進撃した。
かねてからイギリスに対してフランス領インドシナへの侵入は大東亜連合への宣戦布告と見なすと警告を実施していた大東亜連合の艦隊が迎撃のため出撃した。
大東亜連合側は金剛、比叡、榛名、霧島の4巡洋戦艦を旗艦とした艦隊であり、主砲は最大で30cm。それに対して東洋艦隊は36cm砲でそろえた超弩級戦艦4隻を基幹としており、砲戦力ではイギリスの勝利が確定とみられていた。
大東亜連合の提督、大和県権知事である松永貞市中将は高速を活かして逃げ回りながら巧みにイギリス艦隊を南シナ海の洋上に吊り上げた。シンガポールの飛行隊の航空支援範囲外に引きずり出したイギリス東洋艦隊に対し、大東亜連合軍はサイゴンから出撃させた一式陸攻を中心とした基地航空隊による航空雷撃を実施。魚雷は吸い込まれるようにイギリス戦艦に命中、あれよあれよという間に主力艦がすべて轟沈し、イギリス東洋艦隊はたった一日の戦闘で壊滅した。
これにより海軍の支援がうけられなくなった英領香港租界、英領上海租界は明軍の攻撃をうけ大東亜連合に降伏した。
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