第33話 ビスマルク風味の帝国に万歳三唱

 明治年間(1868-1912年)


 幕府の政治はまたもや行き詰まっていた。



 幕府がフランスに学び西洋式陸軍8個連隊24000を整備すると同時に、北条がロシアの指導を受けて4個連隊12000の西洋式陸軍を編成。さらに毛利はイギリスの指導を受けて同じく7個連隊9000の西洋式軍隊を編成していた。(毛利の連隊は定数がなく、家臣の知行に合わせて編成しているためこうなる)


 これは北条は長年のロシアとの同盟で関係が深かったためロシア式。毛利はアヘン戦争のとばっちりで英国艦隊に敗北して以来、陸軍もふくめて密かにイギリスに学んでいたものである。

 

 そしてこれらの編成に必要な武具は南北戦争が終わったばかりのアメリカからハワイ航路を経て大量に持ち込まれていた。



「これでは陸軍の負担ばかり増えて、まったく領地替えもできんではないか!」

 

 16代将軍徳川慶喜は見込み外れに爪を噛み始めていた。幕府が家臣の軍役を免除する代わりに、家臣の知行に対してかなり無理な軍税を押し付けてやっとそろえた軍なのである。

 

 幕府はこの軍でもって北条を脅して、北海道の返上に同意させようとしていた。一方、北条もセヴァストポリ帰りの下級武士を中心に軍制改革の必要性が浸透しており、彼らの焦燥感と現実の幕府の大軍の圧力で西洋式軍隊を整備させることになったのである。

 毛利も同様で西洋式軍隊の強さは理解していたが、どちらかというと海軍の整備に注力し、蒸気船を自力で建造するなどしている。



 指導国もバラバラであったが、内実もバラバラで、幕府の西洋軍は軍税を資金源として雇い入れた人数であり、足軽以下の身分とされた元町人が多数をしめていた。


 一方、北条家は各家臣家から侍本人や、足軽など戦える人数を差し出させまとめて訓練するが、給与は各家臣に払わせる形式である。


 そして毛利家は各家老級の家臣が、それぞれ自前で大隊や小隊を編成して大身の武士がそのまま小隊長や中隊長となり、それをまるごと支藩大名が指揮する連隊に与力として組み込む形式をとった。


 結果、部隊の武士比率は毛利が一番多いが装備はバラバラで訓練もまちまち、幕府は元町人だらけであったが装備と訓練は揃っており、北条は北海道やシベリアで経験を積み半ばコサック化した連中がワラワラと参加している謎の軍隊となっている。


「いずれにせよ、朝廷の代替わりで公卿どもが騒ぎ出している。隙を見せるわけにいかぬ」


 京都には西洋化に反対する浪人が集まっており、会津藩主松平容保を京都に常駐させて取り締まっているが、治安は悪化する一方である。このようなときに大軍を動かして内戦を始めるわけにはいかなかった。


 初代徳川家康が作り上げた徳川毛利北条の3すくみ体制はいまだに有効で今度は慶喜をしばりあげるのであった。



 ◆ ◆ ◆


 明治3年(1871年)


 フランスで戦争があり、セダンにてフランス皇帝ナポレオンがドイツ諸侯連合軍に降伏。フランス第二帝政は斃れ、あとを継いだフランス第三共和制も必死で抗戦を続けたものの、ドイツ軍はパリを包囲、砲撃と食料不足で危機的状況になったため選挙でブルボン王朝の復活を主張する王党派が勝利、講和することになった。


 この勝利に前後してドイツ諸侯連合はドイツ帝国を建国することになる。

 

 このことは慶喜と徳川幕府にとっては衝撃であった。フランス陸軍は皇帝ナポレオン一世以来、世界最強最大であり、全世界は一致してフランスが勝つと見ていたのである。


 しかし、そのフランスが敗北し、フランス式陸軍が世界最強ではないことが判明してしまった。


 そうなると、フランス式改革を主張していた幕府の責任問題となってしまう。重税や経費削減で資金を集めても皇帝が降伏するような軍隊しかつくれないのか! しかもフランスは皇帝が追放されて、百姓町民一揆が政権を取っているではないか! あんな国に学ぶ気か!!


 朝廷からちくちくと嫌味を伝えられた慶喜はやむを得ず西洋化改革を一時中断することになる。



 明治5年(1873年)


 フランスで王党派議会によりブルボン王族が呼び出され王政が復古すると聞いた時は慶喜は大いに期待したが、結局国旗の色をどうするかで揉めたため共和制が継続することになってしまった。


 さらにロシアがドイツ帝国、オーストリア帝国と三帝協定を締結、フランス共和制と革命の伝播に対抗する姿勢を示した。日本も最大の同盟国であるロシアの外交政策に合わせざるを得ず、ついにフランス式を放棄、あらためてドイツ式に切り替えていくため、多数の留学生をドイツに送ることになったのである。


 徳川将軍のメンツは完全に丸つぶれであった。


 ◆ ◆ ◆



 明治9年(1877年)


 ドイツからの留学生が続々帰還し、やはり制度的にも軍事的にも産業的にも国の立ち遅れは完全に明確になっていた。しかしいまだに徳川は北条毛利とにらみ合ったままで、いつ内戦に突入するかわからない状況になっている。


 名古屋に駐在するロシア大使からも何度も国内の安定を強く要請されているのだ。(どちらかといえばウチのかわいい北条を殴ったら許さんという意味であったが)


 逆にイギリスはロシアとはトルコ問題、バルカン問題、中央アジア問題、カナダ問題で全世界的に対立しており、イギリス公使からは北条征伐のためなら支援は惜しまないと内々申し入れを受けている。



 遅々として進まない改革に、慶喜はついつい外国の支援を考え、そして否定するのであった。





 

 名古屋城内に設けられた茶室。


 

「というわけで、このままではケイキ殿がはげてしまう。なんとか腹を割って話せんものかと思ってのう」


 と言ったは天下の客将、高家肝煎、斯波武衛正邦である。慣れた手つきで柄杓を操り茶をたてて一人の客の前に置いた。


「いや我らは公方様の天下に依存はないのであるが……のう毛利殿?」

 と言ったは小太りで積み重ねた饅頭のような北条中納言 氏燕うじよしである。


「もちろん、我らも何か事があれば公方様のために戦う覚悟である」

 言葉を接いだのは面長でひょうたんのような顔をした毛利中納言 元徳もとのり


「そういう建前ばかり言っているから、ケイキ殿がはげるのじゃ」

「ハゲてはおりませぬ!」


 茶化して言う斯波武衛に対して、すっかり後退した額に手を当てて徳川慶喜が文句を言う。天下の征夷大将軍をケイキ殿呼びで何を言っても許されるのは、斯波屋敷の乱で命に代えて徳川家康を守った斯波武衛家だけの特権である。現在でも徳川家の家臣ではなく、天下の客将として名古屋城に茶室を与えられているのである。


「なので、これ以上ケイキ殿の髪の毛が無くなる前に話を聞いてやってほしい」

「われらはいつでもお聞きいたしますが」

「ええ」


「北条殿、毛利殿、現状はすでによくお分かりと思いますが……」


 慶喜よしのぶが現状を説明した。国の西洋化改革が必要なこと、しかし今のままでは幕府と諸藩がバラバラに動いて国力を浪費し改革が進まないまま亡ぶこと、そして今の幕藩体制が諸外国の介入を招き、ほおっておけば再度戦国の世となること……


「もちろんわかっており申す。しかし我らには神君家康公より託された関東の守りがござる、何もかも捨てて協力など」

「まだケイキ殿がしゃべっておいでじゃぞ」

 

 口を挟もうとする北条中納言に斯波武衛がお茶のお替りを突きつける。


「……お二方の懸念もわかる。だが、このままでも我らが生まれ変わることができることが分かった」


 そう言うと慶喜は翻訳されたばかりのビスマルク憲法とドイツ帝国の仕組みを書いた紙を持ち出した。



 ◆ ◆ ◆


 

 明治10年(1878年)


 大日本連邦帝国が発足した。

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