属国はいやだ

第34話 対馬沖海戦

 徳川幕府が大日本連邦帝国への変態を急いだのには一つ大きな理由があった。



 それはイギリス公使のある発言から始まった。

「徳川大君はロシアの属国の立場を抜け出し、自分の運命を決めるべきです。イギリスはその支援をする用意が」

「お待ちくだされ、日本はロシアの属国ではござらん!」


 ロシア帝国は全くの親切心と友情から日本、特に北条を保護国と見なし、西欧諸国に対して「徳川大公と北条大公はロシアの友人であり、日本諸島(台湾まで含む)はロシアの勢力圏であるから手を出さないように」と宣言していたのである。


 当然ながら徳川や毛利に接触していた諸外国の外交官はどうも事実と違うようだと感じており、日本をロシアから引きはがそうと外交攻勢をかけていた。


 西欧留学や視察を経てそのことに気が付いた徳川幕府は何度も対等な同盟に改めるように要請していたのだが、ロシア大使から「ロシアの保護を断るだと!? 古くからの友人であるから日本人が沿海州やカリフォルニアに住んでいるのを許しているのに、それを全員追い出せというのか!」と逆切れされてしまったのだ。


 さらに西洋各国と結んだ通商条約ですら「幕府の法律は中世的なため、犯罪が起きた場合は治外法権、もしくは(甚だしく前近代的なるもまだマシな)ロシア法で裁くべし」と書かれている始末である。


 明に対してすらもらった日本国王の称号を使いもしない徳川幕府にとって、ロシアの属国という状態は一刻も早く脱出しなければならなかった。


 

 ◆ ◆ ◆



 大日本連邦帝国は複数の国の連邦である。名目上の君主には天皇を戴き、徳川家以下大名諸藩はそのまま藩知事として引き続き「大政を預かる」ことになった。


 そして近代国家として認められるために、司法改革や小学校制度を整備、様々な改革を始めたが、一番重要なのは天皇の施政大権を預かるとされた参議院サンギ・ソヴィエトである。


 これは近代国家には議会が必要ということで、ロシアの国家評議会ガスゥダールストヴィンヌイ・ソヴィエトをまねて作ったのだが、やり方は実に異色であった。各大名を律令制の官位である参議に任命して朝議への参加資格を得ることで、律令にのっとりながらも朝議を乗っ取ることを狙ったものである。


 そしてこれは完全に成功し、京都御所の周りを徳川毛利北条連合軍に囲まれ、御所の中では大名議員たちに囲まれた公卿たちはことごとく萎縮してしまい、勅命により徳川内大臣を内閣総裁とした大名連立内閣が成立。その他の改革を進める権限を得た。


 もともとが朝議のため、参議院サンギ・ソヴィエトには公卿たちも参加しているのであるが、これを切り離すため参議院サンギ・ソヴィエトから大名議員中心の内閣を選出し、実際の行政は内閣で行う。そして施政大権に関する関白内覧の権限を内閣総裁に移譲することで内閣は天皇直属の行政最高機関として機能するようになったのである。


 その後、ロシアの国家評議会ガスゥダールストヴィンヌイ・ソヴィエトに倣って天台座主や本願寺門主、盲人総検校、京大阪名古屋の町人代表として三井住友などの大商人なども少しずつ参加を許されていくのであった。

 

 ◆ ◆ ◆



「西洋式軍隊も揃えた! 鋼鉄艦も買い入れた! 民法や商法も改正した! 議会も作った! 奴隷だといわれて奉公人や女郎も禁止したし、キリスト教の宣教も許したではないか。何が足りないのだ!」

 内閣総裁となった徳川慶喜が唸る。


 とはいえ、そもそも属国扱いである日本帝国に対して西洋諸国がいきなり対等に見てくれるわけでもなく、まだまだ郵便がない、病院がない、電信がない、鉄道がないと言われ、ひたすら改革に取り組んでいたのであった。


「やはり憲法が必要なのではござらんか」

 毛利副総裁が発言した。


「しかしロシアですら憲法がないぞ。憲法など作れば百姓町民が謀反する! 前露帝アレクサンドルが暗殺されたように、我らも爆弾を投げつけられるかもしれん!」

 北条副総裁が言うように、たしかに最近は攘夷を叫ぶ国粋派を黙らせたものの、今度は西洋で勉強した人間が憲法発布や民選議会の招集、選挙などを求めはじめている。


 ここで下手な譲歩をしたら日本でも革命が起きるのではないか……というわけで北条副総裁が内務省を設立。ロシアの内務省警察警備局オフラーナに倣って、内務省に警視庁ポリーツェを設置。さらに警視庁の中から非常時委員会を任命して謀反人の捜査に当たらせることにしたのである。ロシアに組織づくりを学んだため、彼ら非常委員はロシア語の頭文字をとってチェーカー、チェキストと呼ばれることになる。


 彼らチェキストたちは設立直後からどんどん不穏分子を摘発し、樺太開拓地送りにし始めたため、日本帝国政府は安心して憲法の制定に向けて動き出した。


 ◆ ◆ ◆



 明治20年(1887年)



 そのころ、朝鮮王国と日本は宗氏対馬藩の扱いで揉めていた。宗氏が日本の大名であると同時に朝鮮にも服属して米や綿布などの扶持を受けていたため、日本の国境画定要請に対して朝鮮は対馬までが朝鮮領であると回答。決定的に対立してしまったのである。


 その後も外交交渉は平行線をたどりながらもなんとか続けていたのだが、なんと交渉を仲介していた宗氏が国書を当たり障りのない内容に改竄し続けていたことが判明。日本と朝鮮は改竄の責任をお互いに押し付け、お互いに過去の経緯と違うと嘘つき呼ばわりしはじめ、決定的に拗れてしまった。


 そして朝鮮からの(無翻訳)の国書を受け取った徳川内閣総裁は仰天した。ひたすら高飛車なだけでなく、西洋化した日本をひたすら非難する内容だったためである。


「これは交渉にならんぞ」

 徳川慶喜はあきれ果てた顔で海軍を統括する毛利副総裁に事態を任せ、ついに日本海軍が釜山を襲撃、日本と朝鮮の戦争が始まった。



 装甲巡洋艦を多数保有する日本海軍に朝鮮海軍は全くかなわず、釜山の朝鮮兵船を焼き払うと、日本艦隊は漢城府ソウル沖に向かった。ここから朝鮮の首都に圧力をかけて対馬への宗主権をあきらめさせようとしたのである。


 しかし、突如としてソウル沖に大艦隊が現れた。清国北洋艦隊である。ドイツ製の最新装甲戦艦である定遠と鎮遠を旗艦として、日本海軍の装甲巡洋艦よりも巨大なフネを多数保有している大艦隊である。かなわないとみた日本艦隊は対馬に向けて逃げ出した。


 そして時を同じくして清の西洋式軍隊2万が朝鮮に進軍。首都の漢城府ソウルと釜山の防備を固め始めた。


 このように清が強気にでた背景にはイギリスの支持があった。ロシアの属国である日本が朝鮮や清に進出するのは清に利権を持つイギリスにとって悪夢であり、清を多少強化してでも避けたかったのである。


 そして対馬に来寇した北洋艦隊と日本連邦の徳川艦隊、毛利艦隊が激突。日本艦隊は高い練度と艦隊機動により北洋艦隊に猛射撃を加えたが、定遠と鎮遠が100発を超える命中弾を浴びつつもまったく沈まずに衝角突撃を敢行。徳川艦隊の旗艦を貫き撃沈する戦果を挙げた。リッサ沖海戦の戦訓は正しかったのである。装甲艦は砲撃では沈まない。


 これにより日本艦隊は戦意を喪失、博多に撤退した。




 そのころロシアは動けないままでいた。ロシア極東総督としては隙を見て満州に攻め込むつもりだったのであるが、英国から日本対清の戦いならば中立を守るが、ロシアが参戦したらイギリスが清側に立って参戦すると脅され、さらにフランスからもイギリスに同調するような発言があったのだ。


 さらに対馬での日本艦隊敗北により対馬割譲での和睦がイギリスから提案されるようになっていた。そうなれば対馬をイギリスが租借することは目に見えている。ハバロフスクのロシア極東総督は本国からの宣戦不可の訓令を前に悩み続けていた。




 

 ◆ ◆ ◆



 ついに清・朝鮮連合軍が北洋艦隊の支援のもと対馬に上陸を始めた。その数1万5000。対する対馬軍は佐賀藩の援軍を含めても3000である。


 対馬藩主 宗 義達(よしあきら)は対馬府中城に籠城。宗家家臣の一部は早速朝鮮に降伏の使者を送り始めていた。

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