そして世界に羽ばたく

第25話 唐入り将軍毛利和泉

 正保元年(1645年)。

 名古屋城


 新帝即位による改元であったが、なぜか当初から評判が悪い年号であった。読み下すと「正に保元の年」と読めるため、保元の乱のごとき大乱が起きるのでは、と巷では密かにささやかれていたのである。


「唐入り!???」

 

 芸州藩主毛利秀就は第四代徳川将軍家光からの命令を受けて驚愕した。


「福州の明帝より援軍の要請があった。清の攻撃を受けて今にも滅亡せんとしているそうだ。明との交易復活のためにも、また義をもって頼まれた以上は見捨てるわけにもいかぬ」


 家光はその少し精神質そうな細面で一気にまくし立てた。


「明との申次役は毛利と初代将軍様の時から決まっておる、たのむぞ毛利殿」


 ◆ ◆ ◆


 まったくもって迷惑な話であった。なにせ徳川の天下が成ってからすでに50年。失礼ながらも敦盛の人間1つ分であり、実際の戦などもう誰もやり方を知らないのだ。


 それに命令だからと言って簡単に国元の兵を出せるわけでもなかった。


 徳川幕府といってもその領地は東海と京周辺に限られており、地方は北条や毛利、長宗我部、島津などの有力大名が割拠している。ひとたび幼君や暗君が将軍とならば再び天下が崩れると見られていた。

 そのため、幕府も有力大名も表面上の兵数や装備は維持していた。そういった大大名同士数十万の兵のにらみ合いが地方の中小大名を震え上がらせ、微妙な平衡状態で平和が担保されてきたのである。

 なにせ、争いを起こせば蘆名のように言い訳も何もできずにたちまちに滅ぼされるのだ。

 

 とはいえ、50年で形骸化が進み、最も金のかかる足軽たちは儀式や馬揃え(閲兵式)の時だけ出てくるような臨時雇いのものも多くなり、それ以下の荷運びや雑用を担う中間小者などの人夫は根本的に足りていない状況である。

 

 それでも国を留守にすれば幕府はともかく、長宗我部や宇喜多が攻めてくるかもしれない。毛利家内では侃々諤々の大論争となり、とりあえず現実的な線で、と言うことで出兵兵力を値切りにかかった。


 当然毛利の国力を削りたい幕府では出兵兵力を釣り上げようという交渉になる。明朝の使者などは「日本は精兵百万と聞く、十万ぐらいでよい」などと要求しているのだ。それが千だ2千だという議論の末、毛利家を中心に西国大名から6千と言うことになった。明の使者が落胆したことは言うまでもない。


 ◆ ◆ ◆


 幕府と幕府の認定する朱印状を持つ大商人の保有する交易艦隊が一時的に博多に集められた。兵は毛利が出すものの、毛利が大船を持って無いため出兵を5年延期などと言い出したため幕府の西洋船で運ぶことになったのである。

 これは家康の抑留したイギリスとオランダの船員に作らせた北海船型が元になった船であり、スペインの用いるガレオンよりは小型であり大砲の積載数は少なかったが、マストはより高く設計されており、スピードの出る交易に向いた船型である。


 ということは徳川幕府には良く理解されていなかった。


 家康しょだいも秀康も秀忠にだい家光さんだいに至るまで西洋船を作ったということで非常に満足していた。よって幕府内ではこれでスペインにもポルトガルにも勝てる、と言うことになっていた。主にイギリス人船員がそう説明したためである。

 とはいえ、元々は大阪湾や伊勢湾に攻めてくる毛利水軍や伊豆水軍への対抗として使う予定だったので、数門でも大砲が積んであれば十分なのである。

 

 それがいつの間にか幕府の朱印状を貰った商人の資本により、東南アジア交易に使うためにとどんどん新造されていき、今に至っている。


 この西洋船型は幕府水軍と朱印状商人のみが持っているということになっていたが、実は各大名も幕府への対抗上こっそりガレオン船や大型の和船、唐船を作っていた。しかし、結局海外貿易の権利が無かったため、実用性に欠け、数を増やせないままであった。


 外洋航行ができる大型船は事実上、幕府の独占だったのである。


 ◆ ◆ ◆


 明国の福州は琉球との貿易港である。琉球の沖縄島から宮古、石垣、与那国と進み、台湾を経由すると福州に到着する。福州のある福建省は山がちな地形であり、騎兵中心の清軍に十分対抗できると考えられていた。


 この近辺にはびこっていた倭寇かいぞくたちに支持されて亡命政権を立てていたのが明の皇族である朱聿鍵しゅいつけんである、フリガナを振っても極めて読づらいので、元号を取って隆武帝と呼ぶことにする。

 隆武帝は明の皇族の中でも武闘派であり、まだ一皇族だった時代に清の侵攻に際して私兵を編成して北京に援軍として赴いたところを、時の皇帝すうていていに謀反と疑われ、投獄されて8年間にわたり拷問を受けていた人物である。

 この時の皇帝すうていていが猜疑心の余りに誅殺したのは総督7名、巡撫ちじ11名に上り、特に清を建国する満州族に対する防衛を一手に引き受けていた名将袁崇煥えんすうかんを処刑したのが致命傷となり明が亡ぶことになった。

 

 さておき、隆武帝は毛利家の総大将毛利和泉守を迎えると感動し、直接出迎えると言い出した。元々感激家なのである。


「海路千里を遠しとせず駆けつけていただき喜びに堪えぬ。日本国王にも感謝しているとお伝えいただきたい」

「はっ、唐国の皇帝にお会いできこの上なき幸いです。この毛利泉州いずみのかみ、必ずや賊を退治してご覧に居れまする、今後交易をお許しいただければ幸いです。」

 隆武帝は礼法を省略するために、わざわざ城外の軍幕に接見場所を作らせ、夷狄やばんじんの将軍に親しく語りかけた。通常要求する叩頭どげざも軍中のため略礼ということになった。これらの気遣いを進言したのが倭寇かいぞくたちである。

 通訳するのは倭寇かいぞくの若い大幹部であり、肥前平戸生まれの鄭成功ていせいこうであった。



 毛利和泉守の発言を鄭成功が漢語に通訳いみはあってるして皇帝に言上する。

「日本国泉州太守、江光広将軍は天朝の聖帝を拝し恐懼に堪えず……、身命を賭して満賊を討滅せんと欲す。ここに日本国王は改めて大明に忠誠を誓い、貢物を携えて入朝を望まん」

「うむ、印璽が揃い次第、日本国王を封じ、朝貢を許すとしよう。ひとまずは今回の援軍に対して褒美をつかわす」


 どうやら毛利は大江氏ということで、毛利和泉守光弘は泉州太守の江光広に改名されてしまったようだ。

 いずれにせよ鄭成功は無難に通訳を終え、隆武帝は大喜びで交易を許可し、亡命政権のため大した財宝もない中で、絹や書物など日本人の喜びそうな品物(倭寇が助言した)を送ったのである。毛利和泉守はついに毛利の宿願を果たせたと得意の絶頂にあった。


 ◆ ◆ ◆



「……泉州太守だと! 倭国はわが大明泉州府の太守を勝手に任命しているというのか! 侵略の意図が明々白々ではないか!」


 これに噛みついたのは科挙を経た大官僚たちである。都落ちして東海のほとりに落ち延びたとはいえ、正統なる皇帝が即位すれば、科挙官僚は集まる。その彼らから見るともともと穢れた夷狄から援軍を貰うだけでも気に入らないのに、担いでいるのが元々チンピラゴロツキの倭寇あがりの将軍たちである。全く何を考えているのかわからないし秩序を乱すことしか考えていないのだ。

 しかもやつらは倭語で親しく話し合っている! 

 もはや倭国と通じ、満賊を討滅すると言った口で倭国に国を売ろうとしているのだ!! 

 泉州を売り渡した!!


 日本に和泉国という地名があって、明の泉州府とは別のだと説明するのは倭寇たちも骨が折れた。もとより科挙官僚はケチをつけたいのであって聞く耳がないのである。結局は隆武帝が「夷狄やばんじんが天朝の地名にあやかりたがるのは当然であろう、気にすることか?」とつぶやいたため落ち着いたが、倭寇たちと科挙官僚との対立は深刻な状態になりつつあった。


「なんか最近お疲れですか?」

「いえ、大丈夫でござる」

 

 援軍先がそんなことになっているとはつゆ知らず。なぜかゲッソリとやつれている鄭成功を気遣いつつも、毛利和泉は本国に「交易大成功!」という報告書をしたためるのであった。

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