第23話 天下を安定させる徳川秀康

 文禄2年(1588年)。

 名古屋城。



 陸奥会津の大名、蘆名盛隆が死亡。痴情のもつれで男色相手としていた美少年に斬られてのことであった。1歳だった嫡子亀王丸が急遽元服して蘆名隆氏として家督を継ぐも、これまた2年で死亡し、蘆名家が絶えてしまった。


 これに対し、二階堂、最上、伊達などの親族衆が一斉に跡継ぎをめぐって争いはじめ、それぞれ自らの押す候補に蘆名家を継がせようともめにもめていた。



「そもそも、跡継ぎも決められず、争いばかり起こす家は取り潰すべきなり」


 ついに伊達家他近隣の大名家が兵を集めているという報を受け、二代将軍徳川秀康は蘆名家の取り潰しと領地没収という仕置きを通告。これに対し、蘆名家執権金上盛備ほか、松本図書助ほか平田、佐瀬、富田などの重臣たちが仕置きに反発して挙兵した。蘆名の乱である。


 将軍家に公然と逆らったこの蘆名の乱に対して、二代将軍徳川秀康は迅速に対応した。さっそく滝川、北条、南部、秋田をはじめとする関東・東北の諸侯を中心とする征伐軍で会津に侵攻。圧倒的な兵力差により反乱した蘆名重臣を討伐した。さらに情勢不穏の原因となった二階堂氏も改易、伊達政宗は名古屋城に呼びつけ、惣無事令違反として領地の一部を没収した。


 家康だけでなく秀康も果断である。


 天下に二代将軍の武威が鳴り響いた。

 

 ◆ ◆ ◆



「古来、跡目争いがあると戦が起きるものでございます、これを防ぐために武家に対する法度を作成し、戦になる前に幕府の決定に従うようにしたく」


 文禄4年(1590年)。


 徳川秀康の提案により、武家諸法度、公家諸法度などの諸法令が整備されることになった。これらの法度は争いの防止と問題の解決を重視したものである。また同時に武家の官位と公家の官位も分け、武家に任命する官位によって公家の官位が不足することのないようにした。


 

 ◆ ◆ ◆


 文禄10年(1596年)。伊予、豊後、伏見にて連続して大地震が発生。あまりにも不吉であるという朝廷の要請により改元して慶長元年(1596年)となった。


「大御所兄様におかれましてはもう人生50年終わられましたから、まだくたばりませぬか」

「助五郎も50歳超えたであろうが、そっちが先にくたばれい」


 余人に聞かれれば冗談では済まないような軽口を家康に言っているのは北条助五郎氏規である。結局彼は官位は求めず、一介の助五郎で通すことにしたらしい。


「いやいや、大御所兄が数年前にお亡くなりになられたら、跡継ぎは若い二代将軍のみ、ということで北条と毛利で組んで天下を狙う余地があるのではと安国寺殿と常々」

「ん、まだそんなことを狙っておったのか」

 

 興味をひかれた家康が問う。


「いやいや、これでも我らは戦国の世を生きた武将にござれば、いろいろな予測に備えるのは当然でござるよ。思えば今川治部や武田屋形、上杉謙信もこれぐらいの年で急に死に、そのせいで天下が大きく動いてござった」


「で、儂は死にそうか」

「あと10年は死にそうになくて当家にとっては残念でござる、北条にわずかに残った野心もすべて薪にして火にくべてしまいましょう。毛利も逆に両川の残り一人が病でいつ死ぬかと戦々恐々としていて、天下大乱など別して望まないと」


 毛利家の当主輝元はもう壮年にさしかかり、しばらくは安泰。しかし実質的に毛利家を経営していた吉川元春が病死し、小早川隆景も病に倒れたということで、家内の重臣たちはこれからの主導権争いに目が向いているのである。


「儂より先に死ぬなよ」

「もちろんですとも、大御所兄が死んだあとに根回しする相手や密書の内容などもうすべて考えてござるのでこれを使わずには死ねませぬ」


 と、もう50歳を超えた幼馴染二人は笑いあうのであった。

 

 ◆ ◆ ◆


 慶長5年(1600年)


 豊後臼杵にイギリスやオランダの船員が壊れた西洋船とともに漂着。それまで朱印船は和船やたまたま手に入った唐船を主に使っていたため、家康は漂着した西洋船が外洋航行に向くと聞いて興味を持った。大御所命令により小坂(オオサカ)で西洋船を作らせるように命じ、さらに没収した西洋大砲も製造することになった。


 これらの対策によりさらに交易の効率があがり、明の書物や生糸、織物、銅銭などを大量に入手できるようになり、幕府の財政は潤った。




 そして助五郎氏規が死んだ。


 家康も自分の年を振り返ったが、秀康は順調に育ってもはや25歳。定期的に天下の大名を名古屋に集めるなど、参勤交代の制度も始め、天下の仕置きも非常に安定している。

 直轄にした金銀山からはあふれるばかりの運上が運び込まれ、海外貿易も好調であり、もはや何も怖くない家康であった。ここまで安定すれば氏規を失っても北条は謀反などしないだろう。


 秀康もすこし羽目を外して遊女を近づけたりしているようだ。まぁ、若くてきれいな女をたくさん抱きたいのはよくわかる。自分もそうだった。それぐらいは大目に見ることにしている。



 ◆ ◆ ◆


 慶長10年(1605年)。


 秀康が梅毒にかかった。


 日に日に衰弱していく。


 まさかこのようなことに。



 ◆ ◆ ◆



 慶長12年(1607年)。


 二代将軍秀康が死んだ。


 家康の孫、秀康の子の竹千代はまだ13歳である。


 自分はすでに66歳。三代目になる竹千代が20になる前に死ぬ可能性が高い。


 自分が死ねば背きかねない大大名である毛利輝元は55歳、北条氏直は46歳。長宗我部家親(家康から一字を貰った)は43歳。


 どう考えても自分が先に死ぬ。


 

 家康はものすごく久しぶりに爪を噛み始めた。

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