第22話 内大臣征夷大将軍徳川秀康

 天正14年(1586年)。

 名古屋城。


「また唐国(明)への使者が失敗したか」

「はっ、どうも明は大内を重く見ておったようで、大内を滅ぼした毛利や、それに肩入れする徳川とは交易せぬと」


 新しい幕府の老中筆頭として国政をつかさどる酒井左衛門督忠次(加賀金沢12万石)が報告する。



 うむむ。


 家康が唸ると、息子の大納言秀康も腕組みをしてうぬぬと言い始めた。


「そなたまで唸らんでよい」

「しかし、南蛮船を禁じました故、唐国との交易ができねば困るのでは」


 12歳とも思えぬ大きな身体をゆすって秀康が述べた。その通りなのである。


 九州征伐で驚いたのは島津が鉄砲や煙硝を買うために、攻め込んだ土地で攫った人間を大量に西洋船に売り飛ばしていることであった。九州には長らくスペイン、ポルトガルの船が来航しており、カトリックの布教を行うとともに一大奴隷貿易の拠点となっていたのである。


 九州に布教に赴いた本願寺の僧侶たちから次々と実態の報告(という名前の讒言)が集まった、曰く人を売り買いする、曰く牛馬を食べる、曰く儀式にて人の肉を食べさせ、人の血を飲む、などとの訴えがされたのだ。

 家康が実態を問いただしたところ、西洋商人が「売るから買うだけだ、ミサで血肉を拝領するのは聖教徒の義務だ」などと言い出したため、家康は怒った。

「すべて人は我が国のものであり、国内で売買するならばともかく、勝手に異国に売り払うなど許さぬ」と西洋船の寄港禁止とカトリックの布教禁止を命じたのだ。


 それに対し、大友宗麟や有馬、細川などキリシタン大名から一斉に布教再開の願い出が出た。

 宣教師たちからも「奴隷貿易は教えで禁じられております、血肉というのはパンとワインです」などと釈明が相次いだため、信仰は許して新規の布教は禁止するということで落ち着いたものの、西洋船との貿易が止まったことで堺や博多、府内などが一気にさびれて税収も落ち込んでいる有様である。


 忠次が説明する。

「南蛮船が持ってくる品はよくよく聞いてみれば唐国で作られた生糸などにござる、よって明と交易できれば南蛮船は不要と思っておりましたが……商人たちも騒ぎ出しておりまする」


「朝鮮・琉球に聞いているのはどうか」

「朝鮮国も対馬宗家と取り決めた船の数しか受け入れぬと申しており、琉球は唐国の取り決めにてこれ以上船を増やせぬと」


 ううむ。では南蛮船を解禁するか? しかし解禁すればまた奴隷を売るやつがでてくるだろうし、さらに宣教師も大勢乗ってきて、本願寺が怒りだしかねない。

 

 家康は腕組みをして考えている。


 九州では本願寺が猛烈な布教を開始しており、耶蘇教会(カトリック)とも険悪な関係にあるとのことで、ここで耶蘇教が復活するようなことをすれば、今まで徳川幕府を全力で支持してきた浄土真宗が一気に不安定要因になってしまう。


 特に摂津、加賀の領地や石山本願寺を布教自由の特権と引き換えに没収したため、下手なことをすれば約束が違うという話になりかねない。


「一部の大名より、このように聞き分けのない明国には討ちいって港を焼いてしまえばよいのだ、という声もでておりますが」

「何を愚かなことを」


 徳川の旗本8万旗。誇張も入ってはいるが、雑兵まで含めればこれぐらいにはなる。これは北条や毛利を押さえつけるには必須の兵力であり、異国に派遣してよいものではないのだ。毛利が攻め込むなら好きにすればよいが……


「しかし、唐国に送った使者が門前払いされるならばともかく。我らに対し簒奪者で謀反人などと言いがかりをつけるなど、わけのわからぬことを言い出して交渉になりませぬ」

「いったい何を申しておるのだ」

「つまりですな」


 忠次が何度もの交渉でようやく判明した明の考えを説明した。


 すなわち大明は倭寇を封じ込めるため、源道義を日本国王に封じて以来、代々の日本国王に対して朝貢を許してきた。その後数代たって、山口に住む源姓の日本国王が盗賊上がりの毛利に簒奪され、その毛利が替え玉の王を立て、偽の印璽でもって交易を要求してきたことは無道の極みであり、偽の源姓の王を立てようと天朝である大明はこれを決して認めるものではない……


 そこまで聞いて家康が叫んだ。


「山口の日本国王……??? なぜ大内が日本国王にすり替わっておるのだ!!!!」

「なぜかそういうことになっておるようで」


「いやいや、我らは足利将軍から政権を譲り受けた源姓の幕府であり、大内などよりもこちらのほうが正しい後継者なのではないですか?」

「その通りなのですが、何分大内や毛利が嘘ばかりついて交易していたせいでもうこじれにこじれておりまする」


 秀康の質問に答える忠次にもどうにも理解しがたいのだが、そういうことのようである。


「こう、一度きちんと正しい事実を説明してみよ」

「やってはおりまするが、では、改めて」


 忠次が下がる、これから老中たちを集めて改めて対策会議をするのである。


「……しかし、これは毛利のせいではござらんのか」

 大納言秀康がつぶやいた。


 まったくそのとおりだ。



  ◆ ◆ ◆


 


 文禄元年(1587年)。

 名古屋城。


 正親町天皇が譲位されたことで、新帝の即位となった。代替わりと徳川幕府により天下泰平となったことを祝っての改元があり、文禄となった。徳川家康もこの際に家督を徳川秀康に譲って内大臣兼第二代徳川将軍とし、自らは大御所と称してまだ名古屋城で政務をとっている。




「あ……新しき……パードレをお呼びする件につき、なにとぞ、なにとぞ大御所様のご了解をば」


 名古屋城で頭を下げて頼み込んでいるのは豊後国主の大友宗麟である。病を押して名古屋に来たらしく、今にも倒れそうなほどに衰弱している。昔は筋骨隆々の大男で家臣の妻を奪ったり好き勝手してきたがすでに見る目もないほどに変わり果てた姿である。さすがに家康も哀れに感じた。


「しかし、南蛮船の来航を禁じておる以上は、南蛮坊主を連れてくるわけにも行かぬであろう」

「マニラに船を、もしスペイン領がまずければ交趾やシャム、カンボジアでもありがたく。それらの港には唐船も入りますゆえ、交易も可能かと」


「……今なんと?」


 明と交易できるだと!?


 


  ◆ ◆ ◆


 

 それからの動きは速かった。

 

 徳川幕府はさっそくベトナムの北朝、南朝、チャンパ、アユタヤ、カンボジア、ルソンなどに使者を派遣し、交易の了解を取り付けると大商人に御朱印を与えて交易を始めさせた。


 ルソンのスペイン政府は布教の再開を要求したが、宣教師の交代要員の受け入れにとどめることで合意した。スペインも交易はしたいのである。何しろ今の日本は石見、生野、佐渡などの鉱山の開発ラッシュで、金銀が溢れかえっている。何をもって行っても儲かるのである。


 結果として、いまだ倭寇を恐れて直接交易を許可しない明に対して、東南アジアを迂回地としての交易を再開することができるようになった。交易は幕府の朱印状をもって行われるため、自然と対外交易は幕府の独占となっていく。伝統的に朝鮮と交易している宋氏や琉球と交易している島津氏は特例として認められた。


 毛利も貿易の許可を求めてきたが、毛利には「大内氏の利権の継承者として明との勘合貿易の権利を認めるから明と交渉しろ」ということで明のかたくなさに対する当てつけのような形で明との交渉を継続させることになっている。


 秀康も18歳になり、政務もだんだん見れるようになってきた。このままいけば徳川も安泰であろう……

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