第21話 徳川征夷大将軍

 天正12年(1584年)。

 京、徳川屋敷。


「幕府より連絡がありました。島津殿は現状での安堵を求めておられまする。つまり筑前半国、豊後半国、豊前以外を島津領としたいと」

「しかし、豊後の大友領は我らが停戦を呼び掛けてから奪ったものであろうに」

「使者を正式に受け取ってからは進軍を止めましたと申しておりますが」

「攻めやすいところまで攻め取るまで使者を足止めしておったのだろうが!」


 徳川家の家老たち、酒井、石川、大久保、鳥居、榊原などが議論しているのは九州惣無事令に対する対処法である。毛利と組んだ徳川には勝てないと正確に認識していた島津は、せめてよりよい条件での和睦を勝ち取ろうと、最後に北部九州在住の諸大名に総攻撃を仕掛けていた。

 その上で攻勢がひと段落したところで、正式に使者を受け取り和睦を申し出てきたのである。


「すこし懲らしめが必要かと思われまする」

「それとは別に……東国は佐竹征伐を行い、武威を示しましたが、西国には我らの軍が行っておりませぬ」

「では、領地半減ぐらいの和睦案をつきつけますか」


 家康は家老たちの議論を黙って聞いていたが、口を開いた。

「足利将軍の支配がうまくゆかず、天下大乱となったは何故か、わしは常々考えているのだが」


 家老たちは顔を見合わせると、口々に答えた。


「京で柔弱な文化に溺れ、武家としての本分を忘れたからかと」

「両朝の戦乱の中で味方を増やそうと領地を部下に配りすぎ、幕府の領地が少なすぎたせいかと」

「あまりにも将軍の好みで各家の継承に口をはさみ内乱ばかり起こったからかと」



「将軍ご本人に聞いてみたことがあってな、下剋上の風潮が広がり、君臣の分が乱れたが為、と仰せであった」


 なお、右大臣に上がった徳川家康が天下人のような雰囲気になっているが、実は足利幕府はまだ滅亡していない。14代将軍足利義昭はまだ現役で京に御所を構えており、いまだ幕府として主に寺社の免許更新などを行っているのである。

 まだまだ天下が定まらないうちから幕府を尊重してきた徳川家康に対する将軍の信頼は深く、また家康としても武田と手切れしたときも徳川を支持してもらった恩もある。家康が月に何度も将軍の御所を訪問するなど関係は良好である。


「皆も知っている通り、此度の九州和睦も公方殿が仲介しようと動き回られておられる」


 はっ、と何かに気づいたように騒ぎ出す家老たち。


「……では島津が強気なのは幕府と結託して?」

「公方様ご謀反でござるか?」

「早速、幕府を滅ぼしましょうぞ!」


「待て待て、公方殿も仕事をしようと一生懸命なだけじゃ、我らに対する悪心はない」


 慌てて皆を静める家康。


「だが、天下を取り仕切れるのが儂だと示す必要はあろうな」



  ◆ ◆ ◆



 家康による九州和睦案は島津に薩摩大隅日向半国という提示であり、領地が半減以下になる島津としては受入れられないものであった。


 先鋒として長宗我部の兵2万が大友の援軍として入り、島津家久率いる豊後攻略軍2万と対峙。戸次川において合戦に及んだ。長宗我部軍を率いる元親嫡子の家親(家康の養子が正室のため、家の字を貰った)は家久軍に勝てなかったが大負けもせず、土佐の一領具足たちとしぶとく戦い抜いて大友軍を救出することに成功した。


 それと時を合わせて毛利軍4万が豊前に上陸、筑前で籠城していた戸次(立花)道雪、高橋紹運を救い出した。


 島津軍は態勢を立て直すと改めて肥後に5万の兵を集めて抵抗する姿勢を見せたが、家康が率いる20万の兵が豊前に上陸したことを見て一気に戦争継続の意欲を失ってしまった。


 また数年前から北九州に入っていた木下秀吉、竹中重治らにより北部九州在住の国人、大名の説得に成功。竜造寺、相良、秋月、松浦などの諸侯が一斉に離反した。


 島津の九州支配はたった半年で崩壊し、それ以上の大きな戦いをすることもなく島津家当主の義久が剃髪して謝罪することになった。



  ◆ ◆ ◆



「イランカラプテ、トノ」

「ヘー」

「ヘー」


「上様におかれましてはお初にお目にかかりまする、島人の首長には身に余る光栄、と申しておりまする」

「……ずいぶん短い言葉でそこまで意味があるのか」


 九州遠征軍には独特の服装をした蝦夷の島人が参加していた。松前の蠣崎氏が自分の支配を誇示しようと無理やり連れてきたのだ。実際に戦うことは一回しかなかったが、いざ戦いとなると毒矢をばらまきかなりの活躍をしたらしい。


「しかし、皆疲れておらぬか?」

「いや、拙者も九州は初めてでござるが、さすがに南国は熱うござりまするな」


 汗を拭きだしている蠣崎志摩守が汗をぬぐいながら言う。


「いや、島人の馳走を受けるとはこの家康、心に留めておくぞ。首長の松前殿にも夷人にもかかわらず駆けつけていただきお礼を言う」

「拙者は和人にございまする!!! 河内源氏の武田氏で!!」

「あ、失敬……本家を滅ぼして済まなんだ」

「拙者の本家は若狭武田にござりまするからなんとも」


 その後、若狭武田の元明に引き合わせて「そんな親戚がおりましたかな?」などと言われ蠣崎がムキになって系図を書き始めるなどいろいろあった。詳しいことは結局分からずも、同じ名前の先祖がいたということで落ち着いたようである。


 この九州遠征は北は蝦夷地から南は九州まですべての大名家から、人数は少数ずつではあれど参加者があったということで象徴的なものとなった。


 島津の臣従をもって名実ともに日本全土の大名を指揮することとなったのである。



  ◆ ◆ ◆


 天正13年(1585年)。


 九州平定の功績をもって徳川家康は足利義昭から征夷大将軍を譲られ、徳川幕府を開くこととなった。

 官位も従一位太政大臣に進み、徳川家の所領の中心として新築なった名古屋城に天下の諸侯をあつめて、新体制を発表することになる。


 徳川家は名古屋城を中心に、尾張、美濃、三河、遠江、近江、山城、摂津、河内、佐渡、筑前半国を天領として直轄した。


 徳川の直臣たる三河衆たちはそれぞれ10万石前後の所領を与えられ、伊勢、越前、信濃、加賀、淡路、紀伊、越中などに封じられた。かれら旗本衆は石高は高くないものの、引き続き徳川家の宿老として政治にかかわる権利が与えられた。


 尾張衆で最も活躍した木下秀吉は肥後国守として九州の監視を任され、次に活躍した滝川一益は下野国守として関東の監視を任された。ただし、土地の半分以上が国人衆の領地であり、本人たちの所領は大きくはない。


 関東の北条、山陰山陽の毛利はそれぞれ権中納言、近衛中将を与えられ、地方の経営に専念することとされた。室町幕府で有力守護大名が京都で争い続けた教訓から、幕府の政治にはかかわらせず、その代わり地方の統治に幕府は口を出さないということになったのである。


 次に複数国持ちの大大名ということで長宗我部、宇喜多、島津が参議、近衛少将を与えられた。伊達洞中は結局、最上、蘆名などの一族が個別に臣従したため、これらの大大名に比べ伊達は家格を一段下げられてしまった。


 次に国持大名として南部、里見、今川、能登畠山、河内畠山、三好、松永、波多野、一色、山名、大友、竜造寺などなどが国司を与えられることになった。


 京都に長くいては武士の本文を忘れてしまうということで、居城は名古屋と定められ、名古屋の守りとして稲葉山城、浜松城、大津城、小坂城が改築、新設された。


 本願寺は全日本の布教権と引き換えに石山本願寺を引き払い、宿願であった京都山科に山科本願寺を再建。禁教を説かれた薩摩や越後などで積極的な布教を開始している。


 徳川の天下はこのように定まったのであった。

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