新しき徳川の世

第19話 右近衛少将徳川秀康

 天正10年(1582年)。

 京、斯波屋敷。



「南無阿弥陀仏」


 家康は念仏を一つ唱えると服を寛げ、脇差を腹にたてた。



 ドカッ!! 大きな音と共に燃え盛る襖が倒れる。


「お待ちくだされ!徳川様!」


 鎧武者が乱入してきた。


 三河の紋ではない。これは。



「細川兵部家中、明智十兵衛光秀!徳川様をお救いに参りました!!」


 幕府の軍だ!

 


  ◆ ◆ ◆




「おお!徳川様、ご無事でしたか!」

「いや、少し腹を切った」


 小山のような両肩を甲冑に包んで指揮を執っていたのは細川兵部大輔藤孝であった。さっそく身体を気遣われるが、それはさておき。


「信康はどうした」

「我らの着到の後、不利を悟られたのか兵を退かれました」


 逃がしたか……と思ったところ。


「いや、逃げられますまい。あれあの通り」


 京の町々から掲げられる「南無阿弥陀仏」の幟旗。


「本願寺門徒衆に触れを回してましてございまする、門徒は加賀をお救い頂くなど家康様に深き恩義があれば……」


 

 突如湧き出した門徒一揆に囲まれ、信康が捕らえられたのはそれから間もなくであった。




  ◆ ◆ ◆




 武田遠征軍の総大将であった信康は京に凱旋するに際し、「大軍を京に入れては混乱があろう、代表者のみで京に向かうこととする」と連絡。兵を草津にとどめ、兵を休ませていた。


 そして諸将に触れていた上洛の日の前日、少数の直臣のみで京に進撃して家康を襲ったのだ。もちろん警備が手薄なのは調べた通りであったが、「警備の者たち」が必死に時間を稼いだので細川率いる幕府兵が間に合うことに繋がったのだった。


「愚か者! たわけ! 手際が悪い!!! 計画が杜撰! 諸将や朝廷、幕府への手回しもなく、何をどう成功させるつもりだったのじゃ!」

「……お捕らえして殿をご説得申し上げるつもりであった」


 家康がさんざん後ろ手に縛られた息子をなじる。


「手ぬるいわ! ここまでしたならば目標を敵の首一つに絞れ!! そのような余裕は1万ぐらいの兵で囲んでからにいたせ!」

「殿、その、成功しろとおっしゃっているように聞こえまするが」

「男が一度決めてやるならば成功させんか!!!」


 うなだれる信康。


「この信康、結局誰よりも不肖の息子でござった。いま痛感いたしました。……お殺し下さい」


 黙り込む家康。ことこうなってしまった以上、許してしまっては徳川家の威信にかかわる。そしてそれは天下を揺るがせることになる。


 頼みもせぬのに命を、想いを勝手に託してきた老人たちの顔が浮かんだ。

 沈黙が支配する。



「……武田屋形への長年の忠義、とても助かった。嫡子のそなたが献身的に働いたおかげで武田は一切我らを疑わず、儂が力を蓄えることができた」

「いえ、殿に忠誠を尽くすべきでした。あれではまるで武田を父としたようなもの」

「儂が武田に感じていた怒り、これをそなたに伝え損ねた。それだけが残念。きっと儂は武田に息子を取られたように感じて、妬心であろうかの、気に食わなんだのじゃ」


 ガリッ、やるせなさに家康が爪を噛み始めた。ここ数年噛んでいなかった爪は伸びきっていた。


「……殿、拙者は……天下一の親不孝者です、殿の御心に最後まで気づけなかった」

「ならば儂は天下一のバカ親じゃ、息子の気持ちに気づけんかった……のう信康」

「は」


「父と呼んでくれんのか」

「……父上、申し訳ございませぬ……」


 肩を抱いて泣きあう親子。



「切腹申し付ける」

「ありがたき幸せ」


 信康は後ろ手に縛りあげられたまま、頭を下げた。



  ◆ ◆ ◆




 天正10年は多忙な年であった。


 徳川家康は三河守からいきなり参議を経て権大納言、左近衛大将に就任。右大臣への昇格も内定している。

 そして、切腹した信康に代わり、側室に産ませた於義丸を7歳ながらも元服させて徳川秀康としていきなり右近衛少将の座につけた。


 なお、秀康の秀の字は何のゆかりもない、優秀に育てたいとだけ公式に説明しているが、家康は自らの命を助けた細川家臣、明智光秀よりこっそりと一字を借りていたのであった。


 

 その上で改めて関東など一円に惣無事令を発布して大名同士の私闘を禁じた。


「これは主に佐竹に手を出させて討伐するが目的である、であるからして」

「北条から手を出さぬよう、きつく申し付けておきまする」


 北条美濃守氏規が深く頭を下げる。



「ところで、今川治部が上洛を希望しておりますが」

「……どういう顔をして会えばよいかの」


 北条の支援により駿河の国守として復帰した今川氏真のことである。何分、家康も氏規も因縁がありすぎる。



「兄……徳川様も公家になられたことだし、蹴鞠でもさせればよいかと」

「もうそのような恨みを買うようなことはしたくない!」


 信康の顔が一瞬浮かび、家康は叫んだ。いくらなんでも因縁の相手に蹴鞠をさせて見世物にするなど……。


「いや、本人が鍛えに鍛えた蹴鞠の足を見せたい、京の公家どもには負けぬぞ、と申しておるので」


 絶句する家康。


「今川屋形もなああああああ! そういうところがなああああ!」

「そうそう、拙者もお相手していて思いましたが、なんというか、あれも傑物ですな」


 家康は頭を抱えた。やはり人の気持ちを察するというのは不可能なのかもしれない。





  ◆ ◆ ◆


 

 

 天正11年(1583年)。


 家康は右大臣に就任した。


 佐竹が小田家との抗争で惣無事令に違反。佐竹が軽く兵を出しただけで小田軍は総崩れとなり、気が付いたら小田城を奪いとり、小田家を滅ぼしてしまっていたのである。


 徳川右大臣家康はさっそく佐竹の討伐を宣言。上方東国よりあわせて10万の兵を派遣。佐竹軍は総崩れとなり、またもや小田家が復活を遂げた。



 家康はそのまま東北にも惣無事令を展開。蠣崎、南部、大浦、秋田などの諸氏に服属を誓わせ、所領の再編などを行い、いくつかの反乱をつぶし徳川政権の威を示した。


 

 さて西国である。中国の大大名毛利はまだ従うそぶりをみせないため、西国には惣無事令を出せないでいた。徳川方についた長宗我部が伊予で延々と毛利と戦っているせいでもある。


 毛利としては北九州を攻めたいのだが、伊予での戦いに気を取られているうちに、島原の戦いにて竜造寺が島津に大敗。この隙を突いて毛利と島津が筑前征服に乗り出すも大友方の立花道雪と高橋紹運は毛利の侵攻を跳ね返すと、島津の侵攻も跳ね返し厳然と大友の旗を立てていた。


 そこで毛利は島津と和睦して大友に敵を絞ろうとしたが島津が拒否。北九州では三つ巴の戦いになっている。

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