第16話 手が伸びた徳川家康
天正8年(1580年)秋。
徳川軍は今橋の戦いでの勝利に乗じ、東三河を平定すると遠江に攻め込み、掛川や高天神などの城々を囲んだ。
武田軍は甲斐に逃げ戻り、改めて村々に呼びかけて兵を集めたが、集まりが悪い。東海道筋の城々からは泣き叫ぶような後詰要請が来ているが、応えることができない。さらに上野武蔵からは北条が反撃を開始したという知らせがあり、上杉からも越中への援軍要請が来ている。たった一戦の敗北でまったく動きが取れないようになってしまったのである。
◆ ◆ ◆
京、斯波屋敷。
「この度のご勝利まことにおめでたく」
定型文でお祝いを述べたのは宇喜多和泉守直家である。身体の調子が悪いのか、顔色は暗く、時たま座りにくそうに座りなおしている。
「お身体のぐあいが悪いと聞くが、名医をご紹介いたそうか」
「ありがたき幸せにございまする」
家康が直家を気遣っているのは中国の大大名である毛利に対するためである。宇喜多は表面上は毛利に従っているものの、独自に幕府や徳川とも外交を行って官位を貰うことで半独立の状態を維持していた。
徳川と毛利の間で、現時点で事を構える予定は全くなかった。徳川は武田討伐をすすめないといけないし、毛利は大内の後継者として北九州を制覇する運命に向けて筑前豊前に出兵している最中なのである。
「その、毛利の筑前への出兵でござるがな……、大友が島津に耳川で負けてよりこの方、まったく勢いが振るわない隙をついての出陣でござったが、今度は肥前の竜造寺の家老、鍋島飛騨守(信生/直茂)と申すものに夜襲を受け、大敗を喫したとのことで」
「九州はいろいろと大変でござるな」
大変良いことだ。これならば毛利はしばらく動けまい。
「ところで、一つお願いがござる。拙者、実は長くない。どうか息子の八郎を後見するために、徳川家から乙名(家老)の一人をお貸し願えないでしょうか」
家康は驚いた、実質的に家を乗っ取ってほしいと言っているようなものである。
……あまり毛利を刺激したくないのだが……家康は乗り気ではなかったが、このままでは死んでも死にきれないと宇喜多和泉守が泣いてたのむため、断り切れずに人質時代からの譜代の家臣の阿部正勝を送ることにした。
なお、毛利の大敗を見て好機と判断した長宗我部が河野攻めを本格的に開始したため、毛利から宇喜多と長宗我部の二つの件について徹底的な抗議を受けることになるのが、それはこのあとの話である。
◆ ◆ ◆
天正9年(1581年)。
家康は伊達家と相馬家との戦の仲裁に成功、その結果として伊達洞中(伊達、最上、蘆名などで形成する一族同盟)との同盟を正式に組むことに成功した。
これで越中の徳川、武蔵上野の北条、陸奥の伊達洞中と上杉を包囲し、北条と蘆名で佐竹を挟み撃ちにすることができる。
「いやぁ、これで我が方の勝利は間違いなしですなぁ! たけち……もとの……もとや……かつや……家康兄上!」
「おい助五郎」
「……兄上の改名が多いのが悪い!」
北条美濃守氏規(助五郎)が逆に噛みついてきた。武田への恭順を偽装するために捕らえたのであるが、そのあとは徳川北条同盟の締結を企画し、この度は伊達との同盟締結のために走り回っていたのである。
「そなたのような大国の大名の息子として幸せな人生を送っているものに言われたくないわい! どれだけの苦労をして家康を名乗るようになったか分かっておるのか!」
「兄上こそ外交の都合で人質になったり使いをしたりロクに領地にも帰れぬ氏規が可愛そうとは思わぬのですか!」
「いや、人質は大変であるぞ、駿府で懲りた」
「まったく」
ははははと笑いあう二人。お互い腹を割って話し合える関係のため、これぐらいはじゃれあいの範囲なのである。
「ところで、兄上はまた側室を増やされたとか、羨ましい限りにござるな」
「……なぜそのようなことが漏れる」
「後家好みだった兄上が急に12から16までそれぞれ一人ずつの手弱女を、しかも大変な美女を集めさせたというから影武者に乗っ取られたか、タヌキに化かされたかという……」
「側室ぐらい構わんだろうが!」
……別に年増の後家が好みなのではなく、奥の手前そういうのをそろえただけじゃわい!! 改めて側室を探させたら若い方がいいでしょうと言われてそれはそうだと答えたらこうなっただけ……
「最近、機嫌がよろしゅうござるからな」
いかん、顔に出ておる。
年甲斐もなく家康は赤らめた顔を撫で上げてごまかした。
北条美濃守はニヤニヤと笑っている。もちろん小田原ではすでに町人に至るまでの噂になっているのである。
◆ ◆ ◆
天正9年(1581年)冬。
兵糧の尽きた高天神、掛川などの諸城が開城した。
徳川は付け城を多数築き、城の周りを城で囲って完全に交通や兵糧の補給路を遮断することに成功したため、武田軍はそれらの砦の周りをぐるぐる回ってついに援軍に駆けつけることができなかったのである。
不敗の武田家の名声は地に落ちた。
武田傘下の国人大名が一斉に徳川につなぎを取り始めた。
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