第15話 皆は徳川家康のために
天正8年(1580年)。
徳川三河守様、ご家老の鳥居、大久保、平岩などに越前近江の衆をおつけになり、加賀の仕置きを行い寺院を再興。真宗一揆を傘下に加え、3万を数えた大軍にて越中に進ませたもう。
徳川軍の進軍に呼応し、越中にては越中門徒および神保越中守が挙兵し、富山城を奪う。徳川方は勢いに乗って東越中の松倉城を囲む。越後勢は斎藤下野守を主将として1万の兵で松倉城に後詰するも、三河衆の働き神将のごとくにて越後衆はちりじりに逃げ散りぬ。
これらの勢いを見て、匠作畠山の家臣、遊佐、長などの輩は上杉を支持した畠山義続、義綱父子を追放いたし候。後を継いだ畠山春王丸が徳川に臣従することになりぬ。
また、三河守様は東三河を制圧なさらんとし、三濃尾勢に上方の兵を加え、5万の兵にて三河今橋に進んだ。
-当家出兵の記録 大久保彦左衛門(現代訳)-
◆ ◆ ◆
「おのれ徳川三河め! 嫡男を我らにずっと従軍させておったは企みか!」
「さては、我らの戦い方を盗み取る企てだったにきまっておるわ!」
「まぁよい、いずれにしても敵となれば討ち果たすまで」
「北条はどうする」
「佐竹が出兵するとのことだ、里見との交渉も進んでいる」
「ならば、ひとまずは徳川討伐に全力を注げるな」
「うむ、三河はともかく、濃尾は豊かと聞く。攻め取れば大いに我らも民も潤うであろう」
……甲斐では武田家臣の皆様が、以上のような感じでござって。
と、達磨のようなヒゲをした老人がニコニコと話す。主家三好の遺児を掲げて大和河内を治める松永弾正久秀である。
「なぜそれを知っておる……聞くだけ無駄か。また寝がえりおったな?」
「ええ、この度の手切れのお噂をきいて、真っ先に武田に降伏してございまする」
松永は引き続きニコニコしている。
家康は襖の裏の武者たちに、待て、と指示をした。この男だけはいつ斬るかよくよく考えなければならない。
「で、なぜそれをこの家康に言う」
「知れたこと、この戦は徳川様がお勝ちになるからです」
ほう、と家康はつぶやいた。なぜそう思う。
「徳川様には生来持って生まれた運というものがおありにてござる。今川治部大夫、武田信玄、上杉謙信……気が付けば徳川様を遮るものは次々に居なくなる」
「年齢が違うわい、儂は若かったから」
「この老いぼれなどは信玄や謙信よりも年上でございまするぞ?」
すでに70近い松永弾正がカラカラと笑う。
「いずれにせよ、徳川様は何度も上洛なされ、無数の戦を戦われ、その度にお力を蓄えなさった。大変なご苦労をなさったと思いまするが、結果としてすべての巡りあわせは一つのことを指しておりまする」
「なんじゃ」
「徳川様が天下をおとりになる」
はっ! 家康は笑い捨てた。
「そのようなことは、武田との戦がどうなるか次第ではないか。そなたも武田に負けたらそのまま寝返るのであろうに」
「それはあり得ませぬな」
「だからなぜそう言える」
「……ふむ、天の時、地の利、人の和……いずれにても徳川様が有利とみておりますが唯一つ確かなことが。この松永がお味方したお方は必ず勝ちまする」
……家康は大きなため息をつくと、自慢げに言い切った松永老人を追い出した。
◆ ◆ ◆
東三河、今橋の徳川陣。
すでに武田兵4万が東海道を進んできているという情報が入っていた。
「で、我らの戦い方でござるが」
尾張衆筆頭の木下藤吉郎秀吉が軍議の口火を切った。
「我らは火縄の数で有利にござる、これを活かすためには武田を受け止めるための陣地を早急に普請すべきかと」
「それに必要な木材、兵糧、矢弾については我らが伊勢志摩の水軍にて次々と運び入れてござる」
伊勢の総大将滝川左近将監一益が付け加える。
「正面はそれでよかろうが、山地を迂回されては厄介だな。儂ならば陣地をうまくすり抜けて後ろをつく」
発言したのは三河衆の筆頭家老酒井左衛門尉忠次である。
武田兵、特に信濃の兵は山間部を行き来する戦が得意であり、下手に陣地に籠れば大きな損害を被る可能性がある。
「おっしゃる通りにござる。逆に言えば我らも敵の背後をつくことができるということで。地形を見ましたが、一手の兵をこのように進めれば」
美濃衆から口を出したのは菩提山城主竹中半兵衛。今橋周辺の絵図を指さして説明する。
「それは相当な剛のものでないとやり切れぬな、下手をすると武田の精鋭とぶつかることになる、というわけで我にお任せいただきたい」
と言ったは最精鋭の三河旗本先手衆を率いる本多平八郎忠勝。
「まて、まて我らも加えろ!」
美濃衆、尾張衆から森武蔵守、稲葉右京亮、佐久間玄番、水野日向守などが次々と声を上げた。
「いやいや、人数ばかり増えても困るぞ」
「それならばこのように二段構えの策となしませぬか?」
本多平八がぼやくと、すかさず竹中が提案する。
「これは……両隊の連絡が肝心であるな」
作戦を確認すると酒井左衛門尉が懸念を述べた。
「ならば、我が配下の伊賀衆をお付けしましょう。伝令にお使いくだされ」
「物見は我が配下の甲賀衆から出しましょうぞ」
それを受けて、服部半蔵および和田伊賀守惟政が発言。
「で、我ら上方衆はどうすればよろしいか? 火縄を多めに持ってきておるが」
幕府から派遣されてきた長岡城主の細川兵部が質問する。
「我らの陣に加わっていただければ心強きことこの上なし。」
木下秀吉が引き取った。
武田の攻撃を受け止める部署に、細川兵部、池田筑後、三好左京、雑賀孫市など上方諸将の兵が加わえることになった。
家康は黙って聞いていたが、最後に酒井に「これでよろしゅうございますな?」と聞かれ、一つ大きく頷いた。誰も武田を恐れていない、これならば任せられる。
◆ ◆ ◆
天正8年(1580年)秋。
徳川三河守様は三濃尾勢および上方衆5万を率いて三河今橋の城を取り囲み給う。武田治部は甲信駿遠の兵4万を率いて今橋城に後詰せり。濃尾上方の衆は陣を固め、柵を立てて城を何重にも囲み、鉄砲を数多く放って、武田の攻撃を防ぎ候。
武田治部は配下の山縣三郎兵衛尉に命じ、山地を迂回して我らが本陣を突かんとするも、同じく山地から武田本陣を突くべく進んでいた濃尾の森、稲葉、佐久間、水野などの勢が迎え撃ち、双方大いに戦うも急を聞いた本多平八率いる三河旗本衆が攻めかかり、山縣三郎兵衛尉を討ち取り了んぬ。
武田治部はその知らせを聞き、退路を断たれることを恐れて引き上げを命じたところ、徳川三河守様は陣を出て総がかりでの攻撃をお命じになり、武田の将数多討ち取り、大いに面目を施した。
-当家出兵の記録 大久保彦左衛門(現代訳)-
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