第10話 信じてついていく徳川勝康

 天正2年(1574年)。

 厩橋城の戦い。上野を攻略せんと兵を出した武田、北条、徳川の連合軍に対し、急遽三国峠を越えた上杉謙信が寡兵ながらも積極的に攻めかかり撃退。尾張衆の水野下野守(信元)、上杉勢の攻撃により深手を負って切腹。


 天正3年(1575年)春。

 富山城の戦い。越中を平定すべく出撃した上杉・能登畠山連合軍に対し、武田徳川が神保および越中本願寺の支援に応じて出兵。武田軍の援軍が間に合わず、越中は上杉の手中に落ちた。あるもの曰く武田軍の進軍速度は途中から明らかに落ちていたとも。富山城に詰めていた美濃衆の氏家常陸介(卜全)討ち死に、稲葉伊予守(一鉄)ほか多く負傷。


 同3年(1575年)秋。

 第六次川中島の戦い。武田・徳川が北信濃に侵攻。三河衆奮戦し上杉の先鋒、信濃衆屋代越中守、高梨など討ち取り、北信濃の支配を確立する。しかし平定戦を続ける中で上杉謙信直卒の旗本衆の夜襲により大損害を受け、岡崎衆の家老酒井雅樂


 北信濃の最前線。海津城の武田本陣。


「いやぁ、武田屋形様のこの度の北信濃ご平定。実にめでたい!」

 

 カラカラと笑って頭を下げたのは、北条美濃守氏規である。この男、北条から武田に預けられた人質のはずなのだが、武田と北条の外交を取り仕切る申次として自由にあちこちを動き回っている。


「うむ、勝った。盃を使わす」

 

 武田家当主の義頼(勝頼の改名)も上機嫌で、氏規に盃をまわし、勝利を祝って存分に呷らせた。


「……」

「おや、どうなされた三河殿、たけち……勝康兄にも似合わずお疲れのご様子」

「いや、この度の勝利はまっこと徳川殿の馳走あってのこと、武田を代表して頼もしく思っておりますぞ」


 武田と北条から次々に徳川を気遣う発言が出た。慌てて勝康も答える。


「と、当然のことにござる。武田には並々ならぬ恩義がござればこの程度の働き何者でもござらん。ぜひ次の戦のお下知を頂きたく」

「おお、さすがは京上方に武勇の轟く徳川殿よ!」


 ほめたたえる氏規。もちろん褒めるのはタダであるから全力で褒めるべきであると考えている。


「いや、もちろんこれからの謙信坊主退治には徳川殿のお力をぜひお借りしたいと思っているとも!! まずはゆるりと兵を休ませられよ」

「ありがたき幸せ」


 感極まって若い武田家当主が勝康の手を握る。


「おお、すると次はいよいよ越後討ち入りでございまするか」

「うむ、謙信坊主を倒さぬことには関東にも甲信にも安らぎは訪れぬ。断じて討伐せねばならぬ!」

 そして、信玄を超えるのだ。この若い武田家の新当主は口には出さぬが、上杉謙信との闘いに並々ならぬ執念を燃やしていた。


「素晴らしいことにござる!ご先代……法性院様(信玄)も川中島で五度も戦って決着がつかなかった敵にございますれば、かの謙信を討ち取らば、武田屋形様こそが日の本一の兵であるとの証になりましょうぞ!」

 気楽に煽る氏規。氏規の仕事はとにかく武田を上杉と戦うように仕向けて関東に来させないことであるから、とにかく小まめに上杉への敵意を煽っていく。


「ええ、全くその通りにござる、この勝康も骨は惜しみませぬぞ……」

 そして、勝康の仕事も似たようなものである。これが信玄坊主であれば、岡崎の信康があっさりと本国を空にした隙に三河尾張に兵を入れていたはずである。それが、代替わり後の武田はひたすら上杉との闘いに専念している。


 それが、この新当主のこだわり、父を超えたいというわがままであっても、それで首の皮一枚で徳川が生き残ったのである。とにかく上杉攻めを大喜びでやってもらわないことには、いつなんどき豊かな濃尾を攻め取れと甲斐兵が言い出すかわからないのである。


「オウ!! この武田治部、必ずや謙信のそっ首この槍先にかけ! 越後を平定せん!」


 わああああ、と本陣に詰めていた武田の諸家老から歓声があがり、武田義頼は得意の絶頂にあった。




  ◆ ◆ ◆



 清洲城。

 

 酒井、石川、大久保、鳥居などの家老を集めて、勝康が帳面を眺めている。


「ここ数年で、我ら上野、信濃、越中と馳せまわり、もはや身も心もボロボロにござる」

 老臣たちの面々もどことなく疲れ切った表情である。ひたすら手伝い戦に続く手伝い戦で、そのたびに上杉謙信の旗本と死闘を繰り広げているのだ。手負い討ち死にも多数でている。


「うむ、わかっておる。さすがに兵を休ませねば三河兵がすり減って無くなってしまうわい。それをあのセガレは……」

 岡崎三郎、嫡子の徳川信康は武田への忠義を示すのは当然でしょう、という顔で岡崎衆を駆り立て、出兵に継ぐ出兵を命じているのである。そしてついに家老を討ち死にさせる事態にまでなった。


「しかし、意外と戦費は何とかなっているな」

「堅田の門徒衆と結び、近江が落ち着きましたからな、大津と草津の税が順調に。あと京の関銭も集まっておりまする」

 石川が帳簿をめくってこたえる。


 武田にひたすらこき使われている「おかげ」と言っていいのか何か、故信玄と義兄弟である本願寺門主とは良好な関係にあり、何かと協力しあう関係になっていた。矢銭も小まめに送ってもらっているのである。

 さらに本願寺門主より上杉退治は念仏を守るための戦であるとの御教書が回されてきたため、特に門徒の多い岡崎衆は余計に張り切って戦っている。おかげで信康のはりきり具合と合わさって余計に手が付けられないことになっているのだが。


「伊勢攻めも順調にござるな」

 酒井が付け加える。


 さらに六角との戦いの一環として、北伊勢の親六角勢力を尾張衆に攻めさせているが、これも伊勢長島の門徒衆の援軍を得てすこぶる順調に進んでおり、気が付けば北伊勢はほぼ平定し終わっていた。特に浪人衆を率いる滝川左近将監一益の活躍は目覚ましいものがある。


「順調すぎて北畠御所より苦情が来ておりますが」

「……幕敵の討伐に文句を言うとは何事だと言うておけ!」


 さすがに近畿までを成敗するには兵が足りないが、これも石山の総本山と連携できており、三好三人衆をなんとか封じ込めることができているのだ。


「しかし……本当に武田への手伝い戦さえなければ、とうの昔に近江も伊勢も摂津ですらも我らが平定し終えていたのではないか」

「……言うても仕方があるまい、当家はあまりにも敵が多いのにこの上武田と手切れなどしては滅ぶぞ」

 鳥居が不満そうにいうのを酒井がたしなめた。




「土佐の長宗我部の使者の件ですが」

「うむ、適当な娘はおるか?」


 大久保が新しい話を持ち出してきた。土佐を統一しつつある長宗我部から、婚姻の話が来ているのである。三好三人衆の本拠阿波を挟撃できるとあって、とんとん拍子に進んでいる。家老級の娘を養子として送り込む予定だ。


「おりますが、殿ももう少し子供を作っていただかんと困りまするぞ」

「……奥に言うてくれ、あやつが産まんから」

「側室を置きなされ」


 わかっとるわ! ただ機嫌が悪くなると遠回しに今川を滅ぼした嫌味を言われてとても側女を増やしたいなどと言える雰囲気にならんのだ!!


 元康は正室の築山殿のきつい顔つきを思い出しながら、あぐあぐと親指の爪をしがみはじめた。とにかくこのまま何とか耐えればギリギリ兵もカネも回る、耐えるしかない耐えるんだ。あとこっそり女も探そう、あんまりキツくない優しい子がいい。今のまま頭を下げていれば武田も嫁もなんとか……



「殿、甲斐よりの使者が来られました! 新しい戦にございまする!」


 勝康はブチッ。と爪を噛み切った。

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