第7話 お茶を飲む松平元康

 永禄14年(1571年)。元康率いる尾張・三河の衆が美濃に攻め入った。


 昨年より武田家の伊那郡代秋山伯耆守虎繁が美濃恵那郡に攻め入り、遠山七頭の国衆を斬り従え、岩村城に武田の代官所を設置して本格的に東濃の経営を始めていた。


 これに対して美濃の太守一色右兵衛督竜興は金山の森可成、米田の肥田忠政などに命じて武田を追い払わんと出兵させるも、武田兵の勢いが強く追い返されてしまっていた。


 これらの侵略行為に続いての本格侵攻に、一色は劣勢な兵を稲葉山城に集め、なんとか国を守ろうと必死の防戦姿勢を見せている。



   ◆ ◆ ◆



 清洲城の一角。尾張守護斯波義統の住まう区画。一面に白木を打ちつけた素朴な味わいの茶室。


「美濃攻めは大変であるぞ。織田桃巌(信秀)も苦戦しておった」

「存じております、よって備えをば」


 義統が慣れた手つきで茶器を操る。


 しかし、最初に誘われて以来、ずいぶんと道具が充実したものだ。元康には茶器の良しあしは分からないが、掛け軸やらいろいろな道具がずいぶんとゴテゴテ増えた感じがしている。

 どうせ茶を飲むだけであるし、最初の質素な感じがよかったと思うがなどと元康が思っていると。


「尾張衆がずいぶんと築城やら調略に頑張ったようではないか、美濃攻めの功績一等は彼らですかの?」

「そのとおりでございまするが……」


 伊勢長島で成功した方法であるが、松平の主力が敵を引き付けている間に、木曽川、長良川の合流地点に尾張浪人衆を使って出城を築き、その城を少しずつ押し出して稲葉山へ攻め込む通路を確保したのである。出城が多くできたのを見て、木曽川沿いに領地を持つ川並衆も一斉に松平に降ってきた。それらの説得に走り回った木下藤吉郎含めて尾張浪人衆の働きは絶大ではあるのだが……


「殿はまさか槍をもって敵と戦った我らよりも、背後でこそこそと普請や談合に専念した尾張衆の功績を大となされるおつもりではなかろうな!」

 と三河侍が全く納得していないのである。


「なにぶん……家中のつり合いというものもございましてな」

「ふむ……ところで家臣に茶の湯を許すつもりはないか?」


 は? 想定外の発言に元康が面食らう。何を言っているのだこの隠居は。

 元康も忘れているが、斯波義統一はまだまだ一応現役の守護様である、隠居のように飄々としているためついつい元康は隠居扱いをしているのだが。


「三河ものは武骨にて茶は飲めればよい、下手をすると茶など贅沢で白湯で……」

「いやいや、そういう意味ではないが……これ、この茶釜が黄金2枚じゃ、これにこれだけの価値を見るものも多い」

「はぁ」


 義統がいとおしそうに茶釜をなでる。


「一色も茶の湯には執心で、稲葉山城には数多くの高価な茶道具があると聞く、攻め落とせば多く手にいれることになろうな」

「……ああ!? しかし我が三河侍にはかようなものは……」

「尾張のものに報いてやってくれんか?」

「なるほど!」


 元康は懸念が晴れたような顔ですっきりと茶を飲みほして退出した。義統は元康を見送ると、さっそく書院に籠り書をしたためた。


「堺魚屋の田中殿、首尾上々。近々清洲に茶道具をもって来られたし。礼金は一分で」


   ◆ ◆ ◆


 稲葉山城。


 美濃の首城であり、美濃兵の誇る大要塞である。


「逆に言えばここを落とさば美濃の国衆は士気粗相、一色(斎藤)も滅ぶといった次第で……」

「であるからして、帳簿つけは引っ込んでおれ!」

「うむ、これからは槍持ちの仕事、土もっこの出番はないぞ!」


 軍議で城攻めの準備を説明していた木下藤吉郎に対して三河侍が一斉に食って掛かる。


「いや、もちろん三河の皆様方の槍働きに不安は一切ありゃしませんで。ただ稲葉山は城下の井ノ口の町も含め、斎藤道三が仕込んだ攻めるに難く、守るに容易い……」

「わかっておるわい!」

「へへえ!」


 なおも言い募ろうとした藤吉郎が一喝されて引き下がる。こいつも何かと三河兵を立てて本当に気苦労ばかりである。そこまで派手な功績はないものの、常に肝心なところで本当に役に立ってくれる。


「まぁよい、いずれにせよ藤吉郎の申す通り油断は出来ぬ城じゃ。それぞれ気を張って持ち場から攻めかかるように!」

 

 元康はそう言って軍議を締めると、手柄を立てやすい前線に三河兵を並べ、藤吉郎の部隊を予備に回した。



   ◆ ◆ ◆



「美濃兵の反撃です!」

「後詰の兵と前線から逃げ戻る兵が町の中で混雑して伝令が通じませぬ!」

「ああっ!? 井ノ口の町に火が!?」

「美濃兵が城から出てまいりました!あの旗は安藤伊賀守に菩提山の竹中半兵衛!」


 三河兵が相手を侮っていたか、美濃兵がよく仕込んでいたか。逃げる美濃兵を追い、半ば迷路のように設計された井ノ口の城下に誘い込まれた三河兵が城内からの反撃で壊乱。ばらばらに後方の部隊に逃げ込んだため混乱が拡大して美濃兵の反撃を受けてしまったのだ。


「だから言わんこっちゃねぇで」


 予備として本陣に詰めている木下藤吉郎が顔を撫でた。まるでこうなることが分かっていたような言いぶりである。


「……殿を出して味方を逃がさねば大損害だが、予備の兵は……」

「あ、わしにお命じくだされ!」


 元康がつぶやくと木下が即座に志願した。


「殿だぞ? 良いのか?」

「木綿藤吉は尻をぬぐうにも役に立ちますで」


 木綿藤吉というのは、丈夫で使いべりせず、何かと使いまわしがきくが、大戦の晴れ姿には使えないという三河兵の間での藤吉郎の悪口である。それを逆に気に入って使っているのがこの男である。


「よし、行け!」

「いくでよ尾張の衆!!」


 木下指揮下の尾張浪人衆が一斉に出撃していった。



   ◆ ◆ ◆


 永禄14年(1571年)年の暮れ。上野国厩橋の武田の陣に元康と三河兵たちは屯っていた。


 すでに三国峠は雪に閉ざされており、上杉の援兵は来ることはできない。それを狙いすまして武田が城攻めをしているが、やはり武田方も寒さでなかなかはかどっていない。


 美濃へはそのあとも何度か攻め込んだが、稲葉山城を抜くことができず、そうこうしているうちに武田から出陣要請を受けて美濃攻めが中止となってしまったのだ。


 とはいえ、武田方もどうも本気で囲んでいるようにも思えない。甲斐衆の多くは松平兵の援軍と交代で領地に戻ってしまっている。甲斐兵が領地で年越しできるように松平はその間の代番を申しつけられたのではないかと疑っているぐらいだ。


「で、どうですか元康兄上。ここで一つ北条・上杉方に寝返っては。越中や上野やら引っ張りまわされて大変でしょうに」

「無いわい」


 特にやることもなく陣中でのたくたしていると、やってきたのが北条美濃守氏規である。元康が苦虫をかみつぶしたような顔で応答する。こやつはそれがしを甲斐から疑われさせたいのか。


「軍使としての訪問ゆえ応対して居るが、会話の内容は武田屋形には報告する故、覚悟してお話しなされ」

「ううむ、なんと義理堅い。なぜその義理堅さで氏真公にお仕えいただけなかった」

「……そのつもりであったが、氏真公のあの器量故」

「よくわかります、実に残念で」


 北条美濃守も人質として氏真の高慢さの共同被害者であったのでこういった話はよく通じるのだ。


「であれば仕方がありませぬ」

「うむ、本題は何でござる?」


「北条が武田に寝返りたいので間を取り持ってくだされ」

「は?」


 外交とは真に変幻自在、複雑怪奇なものであることよ。元康は言葉を失った。



   ◆ ◆ ◆


 

 永禄14年(1571年)末。北条家三代目当主、北条氏康死去。


 跡を継いだ北条氏政は外交方針を転換し、雪に閉じ込められて全く役に立たない上杉を捨てて武田との同盟を選択した。同盟交渉を担当した北条氏規はそのまま人質という名の外交官として甲府にとどまることになる。


 しかし反北条諸侯はそのまま武田から上杉に鞍替えし北条の敵は全く減らないのであった。

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